完熟トマトのスープパスタ・上
人間はそれからしばらく、何かいろいろと色鮮やかなものが写る薄い板のようなものに向かってはウンウン唸っていた。
指先が、カタカタとひらめいては、薄い板に映し出されるものの形が変わっていく。
「……イグアナ、ではないな」
悩まし気な声。
画面に映し出されるのは、どこか少し俺に似た印象の生き物たちだった。
鮮やかなグリーンをしたものや、灰がかった渋い色合いのものもいる。
そのどれもがどこか愛嬌のある、それでいて酸いも甘いも噛み分けた賢者のような面持ちで画面に映し出されている。
俺も、こんな顔をしているのだろうか。
……………。
どうだろう。
多少は、似ていると思う。
おおよその形だとか、雰囲気だとか。
たぶん。
俺は自分の姿にこれまで無頓着だった。
そもそも俺のいた場所には俺以外の生き物が存在しなかったため、これまで「自分がどう見えるのか」ということに関してあまり意識したことがなかったのだ。
だが、こうして人間が俺の外見をまじまじと眺めている状況を考えてみると、もう少し造作だとかを工夫しても良かったかもしれない。
俺の今の姿、というのはあの世界で生きるのに最もふさわしい形、に適応して形取られたもので、それに不満もないのでそのままでいた、という程度のものだ。弄ろうと思えば、いくらでも弄れる。
こちらの世界で過ごすのに相応しい形、に今後変えていくのも良いだろう。
「ちょっと、おいでおいで」
呼ばれる。
顔を上げる。
椅子に座った人間が、俺の方を振り返って呼んでいる。
何か用だろうか。
それとも、俺の姿を確認したい、ということなのだろうか。
もそ、っと柔らかな布の敷き詰められた箱の中から出て、その人間の足元まで移動する。
「触っても、怒らないかな」
怒らない。
人間は、そろっと俺を脅かさないように慎重な手つきで俺に触れる。
少しでも俺が厭がる所作を見せれば、すぐに手を引くつもりなのだろう。
おそるおそる、俺の両の腕の下に差し入れられた手が、よいせ、と俺の身体を持ち上げて――…ぽすん。
俺は人間の膝の上に下ろされた。
これは、すごい。
なんというか、すごい。
あったかい。
そして柔らかい。
表面を覆う布だけではない。
その下にある人間の身体がとんでもなく柔らかいのだ。
何で出来ているからこんなにも柔らかいのだろう。
さっきの床なども、気を付けていなければ爪が沈んでしまいそうなほどに柔らかいと思っていたのに、それなんて目じゃないほどに柔らかい。それでいて、ふに、と爪を押し返す弾力。
なんだこれ。
すごい。
柔い。
こんなに柔らかくて破れたり壊れたりしないのだろうか。
俺が少し爪でひっかけただけで大変なことになる気がする。
傷つけてしまわないように、と神妙におとなしくしている俺の頭上で、人間はのんきに薄い板に次々と映像を映し出している。
カタカタ、と指がひらめく音と、時折カチカチ、という音もする。
「ペットとして飼える大型のトカゲって、イグアナの他にもいるのか。なるほどナイルモニター……おお、こっちはだいぶしゅっとしているなー」
俺に聞かせているのか、人間はぶつぶつと呟きながらカチリと音をたてる。
とたん画面に表示されたのは、黒味の強い緑の、細身の生き物だった。
これまた色味は若干イグアナよりも俺に似ている気がしないでもないが、これなら先ほどのイグアナ、の方が雰囲気的に近いように思う。
「フトアゴヒゲトカゲ……あ、ちょっと似てるような? でもお前の方がつやっつやしているね」
つるり、と人間の指先が俺の肌を撫でていく。
確かに薄い板のようなものに映し出される生き物は、形こそは俺にやや似ているものの質感に関しては少々異なるようだった。
彼らの質感はどこかさらりと乾いている――……ように見える。
一方俺の方はと言えば、ぬるりとした艶のある仕上がりとなっている。
…………。
ちょっと不安になって、俺を抱きかかえる人間の膝上を確認する。
良かった。別段汚してはいない。
何か得体のしれない粘液でテカっているわけではなかったらしい。
色味としては黒に近いのだろうか。
艶を帯びた漆黒の、光沢の中に暗緑が滲むような色合いだ。
そうか。
俺は、こんな色をしているのか。
これまではなんとなく、黒っぽい、というぐらいにしか認識していなかった。
「カメレオンは……あきらかに足の形違うものなあ……って、わあ、すごい、カメレオンって本当に色が変わるんだなあ!」
人間のあげた歓声につられて視線を持ち上げた先では、ぺたりぺたりと独特の二手に分かれた手足で歩いていた生き物が、背後の色合いに合わせて見事に身体の色を変える様子が映し出されていた。
おお。
これは面白い。
思わず俺が見入っているところで、ふと我に返ったように人間の視線が膝の上の俺へと戻ってくる。
「……って、いうか」
なんだろう。
もの言いたげだ。
何か言いたいことがあるものの、それを口に出すのを躊躇っている、という雰囲気だ。
が、言葉以上にその仕草は雄弁だった。
人間の手が、するりと俺の背を撫でて――…むに、と俺の背から延びる部位をつまむ。
「気のせいかなって思っていたけれど……そろそろスルーするにも限界があるから聞くんだけども、お前、羽ないか」
びろーん、と人間の指先が俺の背で畳まれていた飛膜を広げる。
…………。
うん。
一応、先ほどから、俺だって気づいてはいたのだ。
どうもこの世界にいる俺に若干似ている連中は飛ばないらしいぞ、って。
もしかすると、飛ぶタイプは珍しかったりするのだろうか。
「なんだっけ……こう、腕の下に羽がついてるやつはテレビで見たことあるような気がするんだけれども…………お前これ完全に手足とは別に羽ついてるよね?」
人間の追及から、そっと目をそらす。
「私の中で、でっかいトカゲではなくちっこいドラゴンなのでは、という疑惑がじみじみと上昇してきつつあるわけなのだけれども」
まじまじと向けられる疑惑のまなざし。
ドラゴン、という生き物だと何かまずいことがあるのだろうか。
「…………」
…………。
よし、しまおう。
あまりの居た堪れなさに、俺はそっとつままれていた飛膜をしまうことにした。
別段なくても良いのだ。
必要になったら、また造れば良い。
ない方が都合が良いのなら、なくしてしまえ。
するすると俺の背に溶けるように、人間の指につままれていた飛膜が消える。
「―――……」
何故だ。
これで問題はなくなったはずなのに、何故か人間が先ほどよりもよっぽどすごい顔をしているような気がする。
そんなに目を瞠ったら、ぽろんと零れ落ちてしまわないだろうか。
口まで空いているぞ。
「…………」
人間が俺の飛膜をつまんでいた指先を見る。
「…………」
それから、今はつるりとなだらかな弧を描く俺の背を見る。
このワンセットを五回ほど繰り返して。
「えええええええ???」
人間は心底何が起こっているのわかりかねる、というような混乱しきった声をあげた。見ているだけでは納得できなくなったのか、さりさりと俺の背を指先で何度も撫でる。
「消えた? お前、今羽なかった???」
あれ、とか。
え、え、とか。
声をあげつつも人間は真剣だ。
もしかすると、この世界の生き物はそう簡単に形を変えたりはしないのだろうか。
周囲の色に合わせて身体の色を変える生き物がいるぐらいなので、ちょっとぐらい変形したって良いだろうと思ったのだが……。
この場合、「形が変わる生き物」と、「多少見慣れなくとも形の変わらない生き物」の場合どちらが良いんだろうか。
ちょろ、と人間を見上げる。
「…………」
身体を若干こわばらせ、俺を見下ろす人間。
この反応的に、形が変わらない方が、良さそうな気がしてきた。
そそっ。
俺はしれっと飛膜を再び生成した。
さっきからずっとありましたよ、て顔をするのも忘れない。
……。
…………。
………………。
余計居た堪れなくなったような気がする。
人間がす、と息を吸う。
そして、吐く。
すーはー、の呼吸音。
それから。
「お前……トカゲじゃないだろう」
渾身のツッコミだった。
俺は、トカゲですが何か、という顔でそっと目をそらす。
別段トカゲじゃなくても良いのだが、トカゲではないということがわかった時にこの人間がどんな反応をするのかはあまり知りたくないと思ってしまったのだ。
これまで生きてきて、俺が初めて出会った俺以外の生き物。
俺に声をかけてくれた生き物。
俺に、とんでもなく美味しいものをわけてくれた生き物。
俺に、触れてくれた生き物。
そんな人間に、疎まれたくはないと思ってしまった。
このままでいられるなら、このままで、と思ってしまった。
元いた世界でだって、俺は独りで生きてこられた。
乾いた地面を削っては喰らい、毒の沼を飲み干し、目を灼く異臭の中でも生きてきた。
だから、俺はこの世界でだって、独りで生きていくことは出来るだろう。
けれど。
それでも。
初めて触れたぬくもりから、どうにも離れがたいと思ってしまった。
トカゲです。
俺はでっかいトカゲです。
「…………」
人間がため息をつく。
駄目だろうか。
トカゲ、ということにしておいてはくれないだろうか。
「……まあ、考えるのは明日しよ。今日はもう遅いし」
人間はそんなことをぼやきつつも、ひょいと俺を膝の上から抱き上げた。
ぽす、と柔らかな布を敷き詰めた箱の中へと俺の身体を下ろす。
「お前がちっこいドラゴンにしろでっかいトカゲにしろ、私には一宿一飯の恩があるのだから――…私が寝てる間に世界を滅ぼすとか、この部屋を焼き払うとかそういうことはしないように」
了解した。
こっくり頷いて見せたものの、ふわふわとした布に阻まれ俺の首肯はちゃんと届いたのだかどうか。
やがてパチリ、と音がして部屋の中が暗くなる。
何らかの仕掛けにより、部屋の明るさを調整しているらしい。
そういえば、最初俺がいた場所はここより随分と暗かった。
まあ、夜目が効く俺にはあまり明るさは関係ないのだが。
続いて、どこからか、ピ、と小さい音がした。
それを契機に、ずっと聞こえていた風の音が止む。
風を止める装置……?
よくわからない。
ごそごそと布が擦れる音がする。
見れば、人間が布を敷いた台の上に身体を潜り込ませるところだった。
なるほど、人間はあそこで眠るのか。
「おやすみ、」
そんな人間の声に、俺はぱたりとしっぽで軽く床を叩いて応えた。
それから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
暗かった部屋の中が、次第に明るくなっていくのに気づいて俺は顔を上げた。
光源は薄い布で覆われた壁の向こうだ。
この世界で、俺が最初にいた場所。
何が起きているのだろう。
布地に映る影が、次第に濃くなっていく。
布の隙間から差し込む光が、白々と部屋の中を照らし出していく。
チチ、と何か生き物の鳴き声がした。
ブゥン、とよくわからない掠れた音がどこからか近づいてきて、また遠ざかっていく。
思えば、暗い間は随分と静かだったような気がする。
それが明るくなるにつれて布の向こうから聞こえる音が増え、賑やかになってゆく。それは、まるで世界そのものが目覚めるかのような不思議な感覚だった。
俺以外の生き物がいる世界。
元いた世界では、聞いたことのない他の生き物がいる証。
そんなことにしみじみと感嘆する。
俺の知らないところでも時は流れていて、俺の見ていないところでも動いているものがいる。
この世界のものにとっては当たり前のことが、俺には物珍しくて仕方がない。
そっと柔らかな布の敷き詰められた箱の中から身を乗り出した。
眠っている人間を起こしてしまわないように、そっと音を殺して布のかけられた壁の方へと向かう。布の向こうには、透明な壁があったはずだ。そこからなら、外の様子が見えるだろう。
鼻先で布をかきわける。
…………、
言葉を失った。
世界はきらきらと光と色に満ちていた。
灰色の地面。
クリーム色の壁。
その上には光を弾く銀色の棒が少し浮く形で這わされている。
そしてその向こうに広がる澄んだあお。
なんて綺麗なんだろう。
蒼、
青、
藍。
呑み込まれそうなほどに、ただただにあおい。
あのあおに向かって飛び出したなら、どれほど気持ちが良いだろう。
そんなことを考えていたら、自然と鼻先がこつん、と透明な板にぶつかってしまった。
…………こつん。
もう一度、ぶつけてみる。
思ったよりも脆そうな気がする。
地面の、爪が沈みそうな柔らかさと違い、こちらは少し力を加えただけで砕けてしまいそうだ。
ほんの、少し。
ほんの少し、力を加えればきっと外に出られる。
あの美しいあおに、思う存分手を伸ばすことが出来る。
だが……、俺はちょろ、と眠る人間を振り返る。
「ぅー……、ぅうん」
別段俺の視線を感じた、というわけでもないだろうが、むにゃむにゃと唸りながら人間がもぞりと厚い布の中で寝返りを打つ。
ふ、と小さく呼気が漏れた。
外は、まだもう少し先で良い。
俺にとっては、外に広がるあおの世界と同じぐらいに、今いるこの場所が十分魅力的なのだから。
もう少し。
もう少しだけ、でっかいトカゲということで乗り切りたい。
そう――、思っていたはずなのに。
もぞもぞ。
人間が目を覚まし、再び活動を開始したのはもう少し世界が明るくなってからのことだった。
くしゃくしゃと寝乱れた髪を混ぜながら、厚い布の中から這い出てきた人間は、とたとたと足音を立ててどこかへと行く。
ギィ、パタン。
少しして、がチャリ。
ザァアアアア、と水の音が聞こえる。
近くに水場でもあるのだろうか。
「あああ……寒い」
呻きながら戻ってきた人間は、何か小さなものを手に取る。
ピ、と音がする。
昨日人間が寝るときにしたのと同じ音だ。
あの時は何が起きたのかわからなかったのだが――…。
ゴオオオオ、と風の音が響き始める。
それと同時に、ふっと温い風が吹き付けてくるのに気づいた。
なるほど。
この音は、空間を暖めるための装置を発動させる音、であるらしい。
人間はしばらく部屋が十分な温度に温まるまで待つように、再び布にくるまり……急にハッとしたように小さく肩を揺らして、きょろきょろし始めた。
なんだ?
何か探している?
「え、いない? やっぱり夢?」
人間は立ち上がると、俺のために布を敷き詰めていた箱をひっくり返したりしている。もしかしなくとも、俺を探しているのだろうか。
たすん、としっぽで軽く床を叩いて、俺はここにいる、と知らせてやれば人間は安堵したように息を吐いた。
「なんだ、そこにいたのか。良かった。寝てる間ついいつもの癖で暖房切っちゃったけども……、お前、たぶん一応変温動物だよね? 大丈夫だった?」
そんなことを言いつつ、人間が俺の傍へとやってくる。
変温動物、というのはおそらくトカゲ、のことだろう。
たぶん一応、なんていうあたり、どうも俺はやはりトカゲとしては疑われているらしい。
トカゲです。俺はトカゲです。
「おいで」
柔らかく、温かな掌が腕の下に差し入れられ、ひょいと再び膝の上へと抱き上げられる。俺のことをでっかいトカゲではないかもしれない、と疑いつつもこの人間が俺に触れる手は優しい。
「少し冷えてる?」
まるで体温を分け与えるように、温かな手が俺の頭から背にかけてを撫でてゆく。
気持ちが良い。
ゆら、と揺らしたしっぽがたすりたすりと人間の膝に当たる。
しばらくそうして部屋が温まるのを待って、それから人間は俺の身体を布の上に下ろして立ち上がった。
「朝ごはんにするか」
壁際に置かれていた箱の中から、人間は何かを取り出す。
ぺりぺり。
透明な膜を剥がして、捨てる。
それから蓋をぺらりと開く。
それを円筒形の物体の傍らに設置した後、その物体の頭部分を押す。
ごぽ、……じゃああああ。
ふわ、と立ち込める白い湯気。
どうやら注がれたのは熱湯であるらしい。
ふわ、と何か良い匂いが漂い出す。
なんだろう。
この匂いはなんだろう。
「アツアツのうちにかきまぜて、と」
ぐるぐる。
手にしたものの中味をかき混ぜながら人間が戻ってくる。
嗅ぎなれない匂いがより強くなる。
甘酸っぱいような、青臭いような、植物の香りと、それに溶け込むいくつかの挑発的な香り。それが尖りすぎないように隠すよう、それでいてさり気なく香るのはまろやかな動物の乳の匂いだろうか。
なんだそれ。
なんだそれ。
興味津々で覗こうとしたのに、人間はすっとそれを俺から遠ざけた。
「ダメです。これは人間の食べるものなので、トカゲにはダメ。添加物とか入ってるし、たぶん塩分とかも良くないだろうし。お前にはあとで野菜買ってきてあげるから。ね?」
言い聞かせられる。
俺の心は、その瞬間ぐらり、と揺れた。
トカゲのふりをしていれば、きっとこの人間はこれからも俺に優しくしてくれるだろう。今までしてくれたように膝に抱き上げ、撫で、野菜、というものを食べさせてくれることだろう。
だけど。
だけれども。
俺は、その、人間が食べているものが食べたいと思ってしまった。
もう少しだけ。
トカゲのふりをしていよう。
そう、思っていたはずなのに。
「…………食べたい」
ぺろっと。
そんな言葉が出てしまっていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
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