たまごかけごはん
疾く疾く。
ばさりばりと次元の狭間を羽搏いて急いで帰る。
陽海の元に帰れるのだと思うと気持ちがはやる。
速く! もっと速く!
浮つく気持ちのままに飛翔して、俺は陽海の元を目指す。
そして、俺を阻むように広がる次元の壁をぱりんとぶち抜いて―――…その先には驚いたように目を瞠る陽海がいた。
ぴたっと急ブレーキをかける。
「うえええええ!?」
心底驚いた、というような声が響く。
どうやら俺はいろんなものをショートカットして、陽海の目の前に帰ってきてしまったものらしい。おそらく陽海の目からは、俺が突然目の前に現れた、という風に見えたに違いない。
大きく瞠られた陽海の双眸が、ぱちぱち、と瞬く。
窓の外は暗く、陽海はくったりと柔らかそうな部屋着に身を包んでいる。
片手には、何故かどんぶり。
「ト、トカゲ、さん?」
「ウン」
陽海だ。
陽海の声だ。
陽海の声が、柔らかに俺の名前を呼ぶ。
「星蝕の王」でもなんでもなく、トカゲさん、と俺を呼ぶ。
俺のすぐ目の前、手を伸ばせば触れられる位置に陽海がいる。
鼻先をくすぐるのは、陽海がいつも使っている石鹸の淡い香り。
なんだか、喉の奥がきゅうと締め付けられるような感覚に襲われた。
「陽海」
掠れた声音で名を呼んで、一歩踏み出す。
腕を伸ばして引き寄せると、陽海は少し慌てたように「うひょえ」と謎の素っ頓狂な声をあげて万歳をした。
肩口に顔をうずめる。
花の匂いが、ますます強くなる。
「……ただいま、陽海」
「ええと……」
少し、困惑したような間。
陽海はしばらく手のやりどころに困ったように万歳していたものの、やがてどんぶりを持つのとは逆の手でそっと俺の背中を撫でてくれた。
とんとん、と宥めるようなリズムが優しい。
「……お帰りなさい、トカゲさん」
「ウン」
触れ合う体温。
香る花の香り。
視覚だけではなく、五感から得られる陽海がすぐそばにいてくれるのだという実感に心が凪いでいくのを感じる。
たぶんきっと、俺は俺自身で思っていたよりも疲れていたのだ。
本来生まれ落ちるはずだった世界の人々に、生まれる前から敵として疎まれていたことや、俺に対して敬意を見せつつもその根には恐怖を宿す人々に囲まれることに。
こうして陽海を懐に抱きしめて、その匂いと体温を感じているとそういった心の奥に溜まっていた澱のようなものが少しずつ溶けだしていくのがわかる。
しみじみと、息を吐く。
俺は「星蝕の王」でなくていい。
ただのトカゲでいい。
ただのトカゲが、いい。
「陽海」
「はい」
「ちゃんと話をしてきたので、もうあの怖いのは来ないと思う」
「それは良かった」
ほっとしたように、陽海が言う。
「アレ、何だったんです?」
「ン――…なんか、俺を呼ぼうとしていた、らしい」
「トカゲさんを?」
「ン。でも、うまくいかなくて、あんな風になってしまった、……模様。俺や陽海に危害を加えるつもりは最初からなかったみたいだ」
「それじゃあ、逃げなくてもよかったんですね」
ふす、と陽海が呼気で笑う。
少し照れくさそうな笑みだ。
怖がらなくていいものを怖がってしまったバツの悪さが滲んでいる。
「陽海は、優しいな」
「へ?」
「本来の目的はさておき、アレが陽海を怖がらせたのは本当なのに」
「ンー…まあ、そうですけどね。でも、怖いものじゃなかったなら良かったじゃないですか」
ぽんぽん、と宥めるように陽海が俺の背を撫でる。
そんなつもりがなくとも、あの世界の人々が陽海を怖がらせて怪我をさせたことは事実だ。そう思うと、やっぱりム、とはするわけなのだが。
こうして陽海に背を撫でてもらっていると、陽海がそういうのなら、という気持ちになる。
ぎゅむぎゅむ。
なでなで。
ぎゅむぎゅむ。
なでなでなで。
「ところで、ですね」
「ウン」
「その」
「ウン」
「私たちはいつまでこうしてるんでしょう」
「ウン?」
こう、というのは俺が陽海をぎゅんむりと抱きしめているこの現状のことだろうか。
「…………………………………………………………………………………ずっと」
「さすがに照れますね!?」
陽海が腕を俺と陽海の間に潜り込ませ、俺の胸元でぐいっと突っ張った。
俺からみれば、他愛のない力だ。
無視して、俺のしたいようにすることだってできる。
が、俺はおとなしく陽海のされるがままに諦めて腕を解いた。
少しだけ距離が出来て顔が見えるようになった陽海は、目元が真っ赤に染まっている。
「陽海、顔が赤い」
「照れるって言ってるじゃないですか!」
怒られた。
もう、と言いつつ陽海がふいっと俺に背を向けてキッチンの方へと行ってしまう。
本格的に怒らせてしまったのだろうか、と少しだけ心配になったところで、陽海はちょろっとこちらを振り返った。
「私、これから晩御飯なんですけども。トカゲさんも食べます?」
「食べる」
即答だった。
陽海は俺の返事にくくく、と喉で笑ってキッチンに消えていく。
何だろう。
今日の晩御飯は何だろう。
思えばあの世界ではお茶しか飲んでいない。
あそこにいた時は別段何か食べたい、とも思わなかったのに、こうして陽海の傍に戻ってくると急にお腹が空いてきたような気がする。
「陽海」
「はい?」
「ここでは俺がいなくなってからどれくらいの時間が経っているんだろう」
「えーっと……トカゲさんが出かけたのが一昨日の夜、なので……大体二日ぐらい、ですかね」
「そうか」
道理で腹も減るはずだ。
俺は二日もごはんを食べていない。
そう思うと、なんだか自分でも面白くなった。
かつて牢獄世界にいた頃の俺は、何年も、何百年も、食事なんて概念を知らないままに――知らなくても、生きて来られたのに。
そんな俺が、たった二日食事をしてないだけでお腹が空いた、と思っている。
「トカゲさんが今日帰ってくるってわかってたらもうちょっとちゃんとしたごはん、というか御馳走を用意したんですけど。明日は豪華にお肉食べましょうね」
「ウン」
明日のお肉も楽しみだが、今日の御飯も楽しみだ。
ほかほか、と漂うのはお米の香りだ。
炊き立てのお米の、少しむわりとした甘さを含んだ香り。
俺はそわそわとしながら支度を整える。
キッチンからは、コン、カシャ、と不思議な音がしている。
それはきっちり二つ分。
陽海は何をしているのだろう。
覗きにいってみようか。
「……このマンション、一人から二人暮らし向けだからトカゲさんが人になっても大丈夫とはいえまずは布団買って……というかいきなり異性と二人暮らしって難易度高いな……同棲なのかなこれひえええ……いやいやいやトカゲさんはトカゲさんですし???」
何か陽海が謎の悲鳴混じりにブツブツ呟いているのが聞こえて、俺はおとなしくテーブルで待つことにした。
そっとしておこう。
たまに仕事で詰まっても、陽海はああして声に出して自問自答している。
そういう時は見守っておくのが一番なのだ。
やがて陽海が二人分のどんぶりを持って戻ってきて――…テーブルの上にてちょんと座って待機していた俺にぱちくり、と瞬いた。
「トカゲさんだ!」
「ウン」
俺は俺である。
今さらの事実を確かめるような陽海の声に、俺は首を傾げる。
陽海はなんだか肩透かしを食らったような、それと同時にどこかほっとしたような顔で口元をふにゃりと緩めた。
「ふふ、おかえりなさい、トカゲさん」
「ただいま、陽海」
改めての、ご挨拶。
ゆらり、と尻尾も振る。
陽海にとっては、こちらの姿の方がやはり馴染みがあるのだろう。
陽海はいそいそとテーブルに二人分のどんぶりを並べると俺の対面へと腰を下ろした。
俺の目の前には、どんぶりが一つ。
ほかほかと湯気をたてるごはんの上に窪みが作られていて、そこに落とされているのはとろっとした黄色い何かだ。
「…………」
何だろう。
初めて見る何かだ。
「トカゲさん、それ、卵です」
「違うと思う」
俺は陽海の声に首を横に振る。
卵というのは、おでんに入っていたやつだ。
表面はうっすら茶色がかっているけれども中は白いぷりぷりしたものにしっとりもったりとした味の濃い黄色が詰まっているか、うっすら茶色がかった優しい味わいの柔らかなほろほろだ。
「違わないんです。さっき割る前の状態を見せてあげれば良かったですね」
「割る……?」
卵は割るもの、であるらしい。
ますます謎が深まる。
俺は双眸を眇めてどんぶりの中身を注視する。
じぃ。
下のごはんが透けて見えるほどに透明なぷるぷるの上に、まんまるい黄色がぷっかりと浮かんでいる。
やはりどう見てもおでんの中にあった卵やだし巻きとは似ても似つかない。
そもそもおでんの卵は固体だったが、今目の前にある卵はどちらかというと液体に近い。
「この、透明な部分があるでしょう?」
「ウン」
「それは白身、と言いまして。それに熱を加えると、ゆで卵の白くてぷにぷにした
部分になるんですよ」
「…………」
「あっ、疑いの眼差し」
陽海の言葉を疑うわけではないが、簡単には信じられない。
俺の疑惑の眼差しに、陽海は一度拗ねたように唇を尖らせ、それから楽しそうに笑った。
「今度、卵焼きとゆで卵を作ってあげますね。割るところから見せますよ」
「ウン」
たぶん、目で見たら信じられる気がする。
それにしても、熱を加えると形が変わるなんて、卵とは奥が深い。
だからこそおでんの中に入っていた卵にも二種類あったのだろうか。
そんなことを考えていると、陽海が互いの間に小さな容器を二つ並べた。
その横には、透明なビニールパックの中に入った茶色いふわふわ。
「ここに薬味があります」
「薬味?」
「えーとちょっと足すと風味が変わる野菜的なものです」
「ふむ」
覗き込む。
一つ目の容器の中には細かく切られた緑の葉。
二つ目の容器の中には、同じ葉が醤油に漬けこまれている。
透明のビニールパックの中身は何だろう?
俺の目の前で、陽海がパックを手に取り、ぴり、と封を切る。
とたん漂うこの匂いは――……
「鰹節?」
「はい。ただこっちは花かつお、といいまして。お味噌汁の出汁をとるのに使った鰹節よりもふわふわしてるやつです。基本は香りづけだと思ってください。で、こっちの緑のやつがネギで、もう一つはニラ醤油です」
「ニラ? 同じネギじゃないのか」
見た目は大体同じように見える。
「ふふ、匂いが違いますよ。嗅いでみますか?」
「ウン」
陽海が俺の方へと容器を寄せてくれる。
ネギの方は、少し鼻にツンとくるような青臭い植物の香り。
ニラ醤油の方は、醤油の香りに混じって何かむわりとした独特の匂いが溶け込んでいる。確かに、見た目はよく似ているものの匂いが違う。
「こうして香りのある野菜を醤油に漬けておくと、醤油にも匂いが移るんです」
「なるほど」
普通のお醤油でも十分美味しいが、こうして工夫することで少し風味を変えることが出来るというわけか。
「まずは適量のネギと鰹節をかけます」
陽海は自分のどんぶりの中へと、まずはぱらぱらとネギとかつおぶしを振りかける。
「適量?」
「自分の好きなだけ、です。ネギが好きな人なんかは、どんぶりに下が見えないぐらいにネギを盛ったりもしますよ」
「へえ」
「トカゲさんはどうしますか?」
「陽海と同じがいい」
「わかりました」
俺は初心者なので陽海と同じにしてもらう。
「そして、黄身をつぶします」
陽海はまんまるの黄色へと箸を伸ばす。
ぷに、と箸の圧に抗うように歪む黄色。
思った以上に弾力があるらしい。
それでもやがて陽海の箸の先がぷつりと黄色の中へと押し込まれていき……とろりとした黄色が透明な白身の中へと溢れ出した。
「ここで、ニラ醤油を垂らします。ニラごと行きます。大体大匙一杯半、ぐらいですかね。これも好きな量でいいと思います。ただ、多すぎるとしょっぱいので少しずつ増やしていくぐらいがちょうどいいと思います」
「ウン」
陽海はとろとろとした卵にニラ醤油を混ぜるように箸でかき混ぜ、卵と醤油が程よく混ざりあったところで今度はそれをごはんに絡めるように混ぜ始める。
「そして、食べます」
ぱくん。
「…………美味しい………」
はあ、と陽海の唇から満足そうな吐息が零れた。
これは美味しそうだ。
美味しそうすぎる。
「陽海、俺もやりたい」
「スプーン、ならトカゲさんも持てます?」
陽海がスプーンを出してきてくれた。
それをなんとか両手で支えて、陽海がやっていたのを真似て、俺はスプーンで卵の黄身をつぶす。
黄身の真ん中、二つに分けるように差し込んだスプーンの先で、ぷつっと卵の黄身が潰れる微かな感触。
そうして透明な白身部分に黄色が溢れたところでニラ醤油は陽海にお願いする。
「まずは大匙一杯いれてみますね」
「ウン」
濃い色合いが細かく刻まれた葉と一緒に卵の上に乗る。
それを、混ぜ、混ぜ、混ぜ、混ぜ。
漂う醤油と、独特のむわりとした香りが食欲を誘う。
混ぜるぐらいは出来ても、スプーンではうまく口元までご飯を運べない。
焦れて、俺は結局いつものようにどんぶりの中へと顔を寄せた。
もぐ。
「美味しい」
白いごはんにとろりと絡みつく卵。
独特のニラの香りと醤油の香ばしさが口の中いっぱいに広がる。
卵の味がするか、と聞かれたらよくわからない。
とろりと滑らかなまろやかな味わいこそが卵、なのだろうか。
醤油と混ざり合って、それだけでは濃くなりがちな尖った味わいの輪郭を卵が上手に暈して調和させている……といった印象だ。
そして卵と醤油の単調になりがちな味わいの中に、鰹節の香ばしさやネギやニラのシャキリとした歯ごたえと少しピリっとした風味がアクセントになっている。
ネギは少し辛くて、ニラには醤油の濃い味がたっぷりと沁みている。
「俺な」
「はい」
「陽海とこうして美味しいものを食べているときが、一番幸せだ」
「…………」
少しだけ、陽海の眉尻が下がる。
そろ、と伸びてきた柔らかな指先が俺の頭を優しく撫でてくれた。
「そう言って貰えるのはとても嬉しいんですが」
ふ、と陽海の視線が泳ぐ。
「……それで食べさせてあげているのが卵かけごはんというところに我が身の甲斐性のなさを感じて複雑な気持ちです」
懺悔のおももちだった。
気を取り直したように、陽海がふすりと小さく笑う。
「もっともっと、美味しいものを食べましょう。トカゲさん、人の形にもなれるんでしょう? そしたら今度は外に美味しいものを食べにいきましょう。このあたりは美味しいお店なんかもあるんです」
「うん」
陽海と、外に御飯を食べに行く。
それもとても魅力的な提案だ。
陽海と一緒に食べる御飯は、きっとなんでも美味しい。
ああ、でも。
その前に、俺は陽海にちゃんと話をすべきだと、思う。
俺が知った俺のことを、共に暮らす陽海にはきちんと話すべきだ。
あちらの世界のことは、エレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアに任せてはきた。だが、今回のようにエレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアの目の届かないところで俺に対して何かをしようと考える者が今後出てこないとは限らない。
そして、俺と一緒にいる限り、陽海はそうしたことに巻き込まれる可能性がとても高い。
「…………」
俺は、陽海を危険に晒したくはない。
陽海を怖がらせたりもしたくない。
だから、本当なら俺は陽海の傍にいない方が、良い。
その方が、陽海は平穏に暮らしていける。
だが。
それがわかっていても。
俺は、陽海から離れたくないと思ってしまう。
「トカゲさん?」
「…………あのな、陽海」
「はい」
「俺、陽海に話さないといけないことがある」
「―――、わかりました。でも」
「でも?」
「ごはんが終わってからにしませんか?」
「……ウン」
せっかく美味しいものを食べているのだ。
今は陽海との食事を堪能しよう。
卵かけごはん、美味しい。
食事を終えた後、俺は後片付けをする陽海の肩の上にちょんと乗って、あの世界で知ったことについてを話して聞かせる。
二人分のどんぶりをさッと洗ってしまった陽海は、俺の話を聞きながら紅茶を淹れてくれた。
ふわりと甘い果実の香りが漂う。
りんごの紅茶だ。
あちらの世界の花のような香りのするお茶と違う香り。
こうして陽海と一緒にお茶の時間を過ごすのも、久しぶりな気がする。
ぽす、とクッションに背中を預けるように腰を下ろした陽海の膝の上に降りる。
くったりと柔らかな布地を通して陽海の体温が温かに感じられるのが心地良い。
はいどうぞ、と差し出されたマグカップを受け取る。
「星蝕の王……、トカゲさんは王様だったんですねえ」
「……王様、と言えるんだろうか」
王様、というのは偉い人のことだ。
国を治める人のことだ。
俺の場合、あちらが勝手にそう呼んでいるだけで俺は国など治めてはいない。
「昔話にね、結構よくあるんですよ」
「昔話?」
「王様がね、予言を受けるんです」
「予言」
思わず声が苦くなる。
俺が追放されたのも、予言のせいだ。
「貴方の息子があなたを殺すでしょう、とか。どこそこに生まれる英雄が貴方を殺すでしょう、て」
「ふむ」
「それを聞いた王様は死にたくないので、先手を打つことにするんです」
「先手?」
「つまり、先に相手を殺すことにするんです。息子に殺されると予言された王様は息子が生まれる度に殺すし、どこそこに生まれる英雄に殺されると予言された王様は、じゃあどこそこで生まれる子供は全部殺そうって思うんですよ」
「……むぅ」
それは、あまり面白くない。
だって、酷いじゃないか。
そこにあるのはただの予言だ。
未来のことなんてまだわからないのに。
いや、わかるのか?
どうだろう。
「それで、どうなるんだ?」
「子供は、逃げるんです。逃がされるんです。息子を殺されたくない母親が子供をそっと船に乗せて川に流して殺したことにしたり、誰か別の人に、このままでは殺されてしまうから、と言って子供を託すんです」
「ウン」
「それからその子供は大きくなって、自分の生い立ちを知り、自分の父親の非道を知るんです。自分の兄弟を殺した、もしくはある地域の子供を皆殺しにした王様のことを。それで、その子供は王様を倒すべく立ち上がり――…実際に倒しちゃうんです」
「――なんと」
予言が、成ってしまった。
その子供は、生まれた時には父親を殺すつもりなんてなかっただろう。
王様を殺すつもりなんて、なかっただろう。
王様が予言に追い詰められ、子供を追い詰めた結果、予言が成る。
これでは本末転倒だ。
まるで、呪詛のようだ。
もし、そんな予言がなかったのならば。
子供は父を、王を殺さずに済んだのだろうか。
それとも、父王が予言など気にせずに放置していたとしても、結局は別の形でその予言は成されたのだろうか。
「ねえ、トカゲさん」
陽海の声に顔を上げる。
「トカゲさんは、どうして復讐しようとは思わなかったんですか?」
「………ン―」
唸る。
何故、俺が復讐しようと思わなかったのか。
「私は、今その話を聞いてちょっとぷんすかしました」
「ぷんすか」
「だって、酷いじゃないですか」
―――ひどい。
陽海の言葉は、ストン、と胸の中に落ちた。
そうだ。
酷いことだ。
俺は、酷いことをされた。
俺の意志に関係なく、この世界に生まれ落ちるよりも先に『災厄』であると決めつけられた。世界を滅ぼす悪だと見做された。そして、誰一人、何一つ生き物の存在しない劣悪な世界へと追いやられた。
俺はそんな場所でも死ななかった。
猛毒のガスが満ちる大気の中でも、俺は死ななかった。
からからに乾燥しきった硬い大地の上でも、俺は死ななかった。
食べるものがなくとも、飲めるものがなくても、俺は死ななかった。
あの地獄のような世界も、俺を殺すには足りなかった。
あの世界は大勢の人間のただひたすらに俺を殺したいという願いの現れだった。
それでも俺は、死ななかった。
ああ、だけど。
あの世界にいた頃の俺は果たして生きていたのだろうか。
ひとりぼっちだった。
食べる喜びも、他者と語らう喜びも、生きることに付随する喜びを何一つ俺は知らなかった。
そんな俺は、果たして本当に生きていたのだろうか。
「俺はきっと、何も奪われなかった。だから、あまりこう……復讐しよう、という気持ちにならなかったのかもしれない」
俺は、何も知らなかった。
何も、持っていなかった。
ただ、与えられなかった。
随分と長い間何も持っていないのが当たり前に過ぎて、俺は自分が何も持っていないのだということにすら気づいていなかった。
「俺は、ここにきて。陽海に出会って、たくさんのことを知った。たくさんのものを、得た。俺が何も持っていなかった、ということを知ることが出来た。だからな、俺はそれで良いと思ったんだと思う」
「それで良い、とは?」
「俺には陽海がいるから別にいいや、って」
「―――」
陽海は、きょとんとしたように目を瞠って。
すぐに、その唇は柔らかな笑みで彩られた。
ぎゅう、と俺を抱きしめる陽海の腕が温かい。
布越しに伝わる柔らかな命の温度。
とくんとくん、と響く鼓動。
ああ、幸せだなあ、と思う。
俺の幸せは、ここにある。
だから、あの世界で与えられなかったものを、あの世界で取り返そうとしなくても良いのだ。
すり、と陽海の頬に鼻先を寄せる。
「もう、絶対トカゲさんをあっちの世界には返しません。トカゲさんはうちの子です」
陽海が宣言する。
「ウン」
俺も、もう帰る気などない。
ここが、俺の居場所だ。
俺の世界だ。
俺の、幸せの在処だ。
俺は、ここで生きていく。
陽海と一緒に、生きていく。
「俺も、陽海と一緒がいい」
「ふふ。両想いです」
両想い。
とても幸せな言葉だと、思った。
コン、コン、コン。
ドアを叩く音がした。
「……開いてますよー」
エレハルドは疲れの滲んだ声で答える。
ガチャリとドアが開いて顔を出したのは、黒衣の堅物、ゲーティア・ウル・ペンギリスだ。
表情が豊か、とは言い難い鉄面皮がくたびれた身体を引きずるように何とか居住まいを正したエレハルドが、通常通りの白いローブに身を包んでいるのを見て、おや、と言いたげに片眉を跳ね上げる。
「なんだ、陛下に皇帝権限はお返ししたのかね」
「…………それ、あなたで何人目かもう数えるのも疲れました」
ふて腐れたような声音でぼやく。
『災厄』の再臨に対応するために、一時的に皇帝権限を得たエレハルドだったが、有事を乗り切れば再びただの魔術師に戻るのが当然だ。
ただの、とはいっても賢人の長であることには変わりはないわけなのだが。
『災厄』に対峙している間も大変だったのだが、エレハルドが大変だったのはその後もだった。
まず、事の次第を本来の皇帝へと報告。
ここから先は国際問題だ。
ギレク・アルノ・ユスリット及び、イズミアル王族であるディルフィスへの厳罰をイズミアル神聖王国に要請し、同時にエルティミアにはカニリテ議員とセフィード魔術技師への厳しい処分を要請する。
それらはもちろん正式な皇帝であるクレシオラス・エルデ・ディズーリア陛下に皇帝権限をお返しした後に行っていただくつもりであったわけなのだが――…クレシオラス陛下はにこにこのほほんと笑いながら、足元に跪き、権限をお返しすると告げたエレハルドに対して、「せっかくだからきみ、最後まで皇帝やったらいいんじゃないか」なんて言い始めたわけで。
だから、ゲーティアの言葉の正確な意味としては、「皇帝権限はお返ししたのかね」ではなく「皇帝権限はお返し出来たのかね」、だ。
エレハルドは恨めし気な視線をゲーティアへと向ける。
アレは絶対書類仕事やら他国への抗議など、面倒くさい公務をやりたくない一心だったとエレハルドは思っている。
短時間とはいえ、皇帝権限の持つ重い責任をその肩に背負ったエレハルドだ。
クレシオラス・エルデ・ディズーリア陛下がもう少しだけ自由でいたいと望む気持ちもわからないでもない。
だが、それでもエレハルドは魔術師だ。
政治のことなどわからない。
そもそもエレハルドに政治のことがわかっていたならば、今回の事態は避けられたのかもしれない。
そう訴えたエレハルドに、クレシオラス陛下は口元にはのんびりとした笑みを浮かべたまま、すぅと双眸を細めて見せた。
「でもねえ、きみ、きみが皇帝のままならね。きみの好きなように、きみを舐めた連中を処分できるよ」
星蝕の王と対峙しているのとはまた違った意味合いでもって、肝が冷えた。
クレシオラス陛下は、にこにこと笑っている。
笑みの形に細められた双眸が、エレハルドの答えを待っている。
あの時、ギレク・アルノ・ユスリットのしでかしたことを知ったときには、確かにエレハルドはあいつぬッころす、と思った。
明確に殺意を抱いた。
だが、災難が去ってしまえば、今はもうそれほどの殺意はない。
ギレク・アルノ・ユスリットには厳罰が下れば良いとは思っている。
だが、あの時の勢いのままに死罪を、と自ら命じるほどの熱量はもうすでにエレハルドの中にはなかった。
それがわかったら、余計に皇帝権限なんていう恐ろしいものは返したくなった。
エレハルドには必要だからという理由で、死ねばいいというほど憎んでもいない人間を切迫した理由もなく殺すのは難しい。
なので、さっさと逃げた。
皇帝権限をお返しするための言葉を、日ごろ術式の詠唱で鍛えに鍛えた早口で唱えた後に猛スピードで退室した。
「陛下が、笑っておられた」
「……でしょうね」
アレはたぶん、からかわれたのだ。
もしかしたら、試されたのかもしれない。
本当に皇帝権限を返すつもりがあるのかどうかを。
エレハルドの野心を試されたのかもしれない。
そんな必要など、ないのに。
エレハルドは賢者の長という立場だけで十分だ。
今回のことで思い知った。
「『遠見』の術式は解除したのかね」
「もう、ほとんどといったところです。跡形もなく消えるまでには、まだ少し時間はかかると思いますが」
「そうか」
もう、瞼を閉ざしてもそこに『災厄』の姿が浮かぶことはない。
イズミアル神聖王国の水鏡も、エルティミアの観測機も、もうすでに像は結ばなくなっていることだろう。
これから、賢者会議は大きく方針を変える必要がある。
『災厄』を恐れ、監視するのではなく、『災厄』との距離を正しく伝えていかなければならない。
相手は恐ろしい力を持つ大いなる存在だ。
そうしたいと願えば、いつでもこの世界を滅ぼすだけの力を持っている。
だがそんな相手が願ったのはただ一つ、不干渉だ。
こちらが下手な手出しをしなければ、あちらもまたこちらの世界へと手を出してくることはない。
この世界は、存在することを許される。
ふ、と小さく息を逃して、エレハルドは視線を目の前の男へと戻した。
「ところで、ゲーティア殿、私に何か御用でしたか? 今はちょっとあまり使い物になるとは思えないのですが」
「ああ」
ゲーティアは真面目くさった顔で、エレハルドをまっすぐに見た。
エレハルドが苦手な、あの鈍色の眼差しだ。
見得や誤魔化しを全てを見透かす眼。
そして、ごとり、と。
ゲーティアはどこからともなく取り出した装飾も美しいボトルをエレハルドの執務机の上に乗せた。
「これは……」
「ささやかながら祝杯をあげないかと思ってね」
「全然ささやかじゃないですよね???」
嫋やかな琥珀でなみなみと満たされたボトルはどう見ても高級品だ。
似たようなボトルを、クレシオラス陛下の秘蔵のコレクションの中に見たことがあるような気がしたが、深くを追及するとなんだか知ってはいけないことを知ってしまいそうだったのでエレハルドはそっとその美しいボトルから視線を逸らすことにした。
勝手に持ち出したわけではないだろう、とも思うし。
もしそうだとしても、これぐらいの褒美は許されるべきだというような自棄っぱちな気持ちもあった。
これまたどこからか取り出されたグラスが二つ机に並び、流れるような所作で芳醇な香りを放つ琥珀が注がれる。
「卿が救った世界に」
ゲーティアの言葉に、視線に、誘われてエレハルドは窓の外へと目を向ける。
美しく、長閑な景色が広がっている。
エレハルドの、守った世界だ。
エレハルドが、託された世界だ。
「心優しき、星蝕の王に」
飲み干した琥珀は、大変美味しかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
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これにて第一部が終わる、という感じです。
のんびり今度はトカゲさんと陽海の食べ歩き編だとかを始められたらなーと思っておりますん!
これまで応援ありがとうございましたー!!




