襲撃4
この世界において、『災厄』を監視するためのシステムは全部で三つある。
アルテイト帝国一優秀な魔術師の魂に刻まれた『遠見』の術。
『災厄』を映し出すイズミアル神聖王国の水鏡。
精霊魔法と機械との融合により生まれたエルティミア国の観測機。
そのうちの水鏡と観測機は、『遠見』の術からの派生で生まれたものだ。
『遠見』の術式によって生まれた『災厄』とのつながりを使って、それぞれの受信器に映像を映し出しているのだ。
つまり、エレハルドの魂に刻まれた『遠見』の術式はイズミアル神聖王国や、エルティミアの魔術師に対して干渉を許している状態にある。
それは『災厄』の脅威を広く知らしめるためであり、『災厄』に対する危機感を共有するためのものだ。
だが――…その繋がりを違う目的のために使うモノがいたら?
エレハルドはぎりと奥歯を噛みしめる。
それはエレハルドにとっては予想もしないことだった。
何せ、エレハルドは魂に刻まれた術式によって直接『災厄』へと繋がれている。
それ故に、誰よりも『災厄』の持つ恐ろしさを肌で知っている。
アレを敵に回せば死ぬ。
勝ち目など、万が一どころか億に一、どれだけ分母を膨らませたところでありえない。それだけの力の差が、『災厄』と『それ以外』の間には存在しているのだ。
通常の神経をしていたならば、そんな恐ろしいものに触れようなどとは思わない。触らぬ神に祟りはないのだ。
だからこそエレハルドはこれまで、『災厄』に気づかれぬようにと祈り続けてきた。
気づかれてしまえば、『災厄』がこちらに対して取るアクションを阻む術はない。
一切の抵抗を許さずこちらを蹂躙するだけの力を持った相手の視覚に入る怖さを、エレハルドは『遠見』の術式を魂に継いで以来ずっと身近に感じ続けてきた。
この世界を守る賢人会議の長として恥ずかしくないだけのことはしてきたとエレハルドは自負している。
ただ一つ、過ちがあったとしたならば。
それは、たった一つの勘違いだ。
自分が『災厄』に対して抱いているのと同じだけの恐怖と危機感を、この世界の人間全てが共有しているのだと思い込んでしまっていた。
あれだけ恐ろしい存在なのだ。
そんなモノに触れようと思う愚か者はいまい。
エレハルドはそう信じていた。
だって、あんなに恐ろしいのだから!
―――—が。
残念ながら世の中にはいつだって愚か者というのは存在している。
エレハルドには当然の道理が通じぬ者というのは存在している。
それが、今回の出来事を引き起こした連中だ。
一息に塔を駆け下りてみれば、そこにはエレハルドが想像した通りの光景が広がっていた。
まずエレハルドの目に飛び込んできたのは、塔の入り口を背にして立つ黒衣の男だ。
ゲーティア・ウル・ペンギリス。
アルテイト帝国における最高位の魔術師だ。
肩幅程度に開いた足はしっかりと大地を踏みしめ、何人たりともこの塔への侵入は許さないとその凛と伸びた背が強く主張している。
そしてそれと対峙するは四つの人影。
そのうちの二人は、エレハルドもよく知っているものだった。
この状況に戸惑ったようにおろおろと立ち尽くしているのはエルティミアの魔術技師、セフィード・クルスだ。
年の頃はエレハルドより少し上、といったところだろうか。
気弱そうな印象が顔だちにもよく表れている。
エルティミアの観測機のメンテナンスを任されている魔術技師の一人だ。
この男であれば、エルティミアの観測機を通してエレハルドと『災厄』をつなぐ『遠見』の術式に手を加えることも可能だろう。
むしろ、エレハルド自身がエルティミアの観測機のための術式への干渉を許していたのだから当然だ。
そして、もう一人。
その男こそが、許されるならばエレハルドが塔の最上階から駆け下りてきた勢いそのままにドロップキックをぶちかましたいと願ってやまない相手、ギレク・アルノ・ユスリットだった。
「ギレク・アルノ・ユスリット……!!!」
もはや憎悪さえ籠った声音でエレハルドはその名を呼ぶ。
ギレク・アルノ・ユスリット。
かつて、ゲーティアと同様にエレハルドと並んで賢人会議の長の候補者として名前の挙がった男だ。
彼は一般的に見てもとても優秀な魔術師だったし、出身国であるイズミアル神聖王国における身分としても申し分はなかった。
アルテイト帝国において、国に重用される魔術師には『ウル』の位が与えられる。
エレハルドのエレハルド・〝ウル”・アレンシアや、ゲーティアのゲーティア・〝ウル”・ペンギリスがそうだ。
『ウル』を名乗ることが許された魔術師であるということがアルテイト帝国における魔術師のステータスなのだ。
そしてそれに似た位階がイズミアル神聖王国にも存在している。
色位、と呼ばれるものであり、イズミアル神聖王国では優秀な魔術師には国から色の名を位として与えられるのだ。
ギレク・〝アルノ”・ユスリットもそんな魔術師の一人であり、アルテイト帝国ウル魔術師であるエレハルドやゲーティアと比べても何の遜色もない人物だった。
ただ、一つ。
ただ一つ彼の欠点を上げるのならば。
彼は、その時すでに老齢と呼べる年に差し掛かっていた。
それだけが、彼の弱点だった。
そして、それ故に彼は次代の賢人の長の候補から外されたのだ。
彼は、納得しなかった。
賢人の長がエレハルドに決まった後も、彼は先代の長へと抗議し続けた。
実力では劣らないのだから、彼の憤懣やるかたない気持ちはエレハルドにだって共感は出来る。
だが、『遠見』の術式は魂に刻むことによって継がれていくものだ。
魂から魂へと術式を移動させる、というような儀式そう簡単に出来るものではなく、常に両者の魂を傷つける危険性を隣り合わせにしている。
魂とは人間の根源だ。
魂が傷つけば人は人として欠落する。
過去には魂に傷を負ったことで化け物になり果てた魔術師もいたと言われている。
それでもまだ良い方だ。
最悪の場合、魂から魂への術式の譲渡がうまくいかず、術式自体が損なわれる可能性すらあるのだ。
それ故に、先代の長は老齢のギレク・アルノ・ユスリットが継いだとしても、すぐにまた次代に継がねばならなくなる危険を冒さなかった。
そしてゲーティアとエレハルドが候補として残り――…最終的にエレハルドに『遠見」の術式を譲り渡したのだ。
ギレク・アルノ・ユスリットは荒れた。
エレハルドが賢人の長となることを最後まで彼は認めなかった。
そして、次第に彼は帝国による陰謀説を唱え始めた。
賢人会議がアルテイト帝国による圧に屈したからこそ、アルテイト帝国出身の魔術師のみが長の候補として選ばれたのだと主張し始めたのだ。
それ以降、彼は賢人の集いにはほとんど顔を出さなくなった。
エレハルドも、彼を深追いしようとはしなかった。
賢人会議の長として、彼に会議への参加を命じることも出来はしたが、それは余計に彼を頑なにするだけだと思ったのだ。
ギレク・アルノ・ユスリットは、賢人会議からほぼ離脱しかけたそれ以降も、魔術師としては一定の活躍を続けていた。
その中でも、これまでは術者の手元で構築することが一般的だった使い魔を、あらかじめ魔力でパスをつないだ先であれば遠隔地であっても構築を可能にした術式は見事なものだった。
例えば、これまで遠隔地への言付けには使い魔による書状の伝達が主だった。
その場合は伝書鳩や、伝達兵を使うのと原理はそう変わらない。
魔力を糧に動く使い魔であれば、人よりも早く、そして自然界で捕食される危険性もなく相手に書状を届けることが出来る、というぐらいだ。
だが、ギレク・アルノ・ユスリットが確立した方法を使えば連絡はもっと容易くなった。予め連絡を取りたい相手との間に魔術的な繋がりを用意しておけば、直接その連絡を取りたい相手の元に使い魔を構成することが出来るのだ。
伝達内容も、書状ではなく音声によるメッセージが主になった。
使い魔の形は、術者の好みが反映される。
エレハルドはよく蝶の形の使い魔を連絡に使うし、ギレク・アルノ・ユスリットは黒犬だ。
彼が活発的に抗議活動に精を出している折りには、至るところで人語を語り、帝国の不正を吠えたてる黒犬の姿が見られたものだ。
だから、星蝕の王の話を聞いて、エレハルドにはすぐにギレク・アルノ・ユスリットの仕業なのだとわかった。
人の声のようなうめき声。
穴だらけの黒犬。
それらはすべて、世界を超えた先で術式が歪みを抱えた結果の変質だろう。
溶けた、というのも魔力で構築された肉体が、強いダメージを受けたことにより崩れたのだと思えば納得がいく。
ふつふつとこみ上げる怒りのままにエレハルドはギレク・アルノ・ユスリットへと詰問の声を投げかけた。
「賢人会議の意向を無視し、異界の『災厄』へと無許可で接触を試みるなどとどういうおつもりですか!」」
「はっ、賢人会議の意向ではなく帝国の意向の間違いだろう!」
対するギレク・アルノ・ユスリットも、威嚇めいた笑みに口角を釣り上げ憎々し気に吐き捨てる。
もう八十代にも差し掛かっているはずだというのに、その立ち姿に萎びた様子はなかった。
むしろ小柄な体躯を豪奢なローブに包み、怒りを湛えた様は今にも爆発しそうにすら見える。
「忌々しい帝国の狗め! お前たちは栄えある賢人会議を乗っ取っただけで飽き足らず、星蝕の王の力すら独占しようというのか……! ええい、星蝕の王はどこに御座す!」
「星蝕の王をお招きしたのは我らであるぞ! なれば謁見の優先権は我らにあるというもの!」
「帝国といえど我らの声は無視できないはずです!!」
ギレク・アルノ・ユスリットの背後から、身なりの良い男女がそれぞれ言い募る。
半ば予測はしていたとはいえ、あまりの言葉にエレハルドの目の前が白んだ。
そのまま気絶出来るものなら意識をトばしてしまいたい。
「ディルフィス殿下、並びにカ二リテ議員、お下がりください。第八代アルテイト帝国皇帝、エレハルド・ウル・エルデ・ディズーリア陛下の御前です」
さりげなく、ゲーティアがエレハルドを庇うように身体を割り入れる。
痩身長躯に威圧感を滲ませるゲーティアの言葉に三人は少しだけ身を引いたものの、黙るには至らない。が、エレハルドにとってゲーティアが対峙する身なりの良い二人の名を口にしてくれたことだけでも十分な助け船だった。
ディルフィスという名前には聞き覚えがある。
殿下、と呼ばれていることから考えても、おそらくイズミアル神聖王国の王家に連なる者だろう。
ただし直系ではない。
王位継承権の順位の高い直系の王族であれば、政界に疎いエレハルドといえど名前と顔が一致する。そうなると間違いなく王家の傍流だろう。
そしてカニリテ。
こちらは名前に聞き覚えはないものの「議員」と呼ばれるということはエルティミアの有力者に違いない。
かの国では王族による統治ではなく、民衆の中から選ばれた議員たちによって国が動かされていると聞く。
「――……」
ゲーティアの背の後ろでエレハルドは内心うっそりと息を吐く。
これは、謀反だ。
反乱だ。
アルテイト帝国とイズミアル神聖王国、エルティミアの三国間における協定に納得できない連中が起こした世界を道連れにしかねない暴挙だ。
おそらく、ことの始まりはこうだ。
しばらく前に、エレハルドはゲーティアを通して各国に異界に逃れた『災厄』が現地の人間と共存していることを知らせた。
エレハルドとしては、それは警告のつもりだった。
『災厄』は異界にて人と交流を持っている。
それは『災厄』が感情や、その他の知識を学んでしまう危険性を秘めている。
だからこそ、エレハルドはこれを賢人会議および、ルーテニア大陸の主要国家間で共有すべき情報とした。
だが、彼らはそうは受け取らなかった。
彼らは愚かにも、『災厄と交渉できる可能性』としてその事実を受け止めたのだ。
そして、ギレク・アルノ・ユスリットは野望を夢見た。
交渉次第では『災厄』を味方につけることができるのではないかと、エレハルドからしてみたら何をトチ狂ったことを、と死にたくなるようなことを本気でやろうと試みたのだ。
帝国よりも先に『災厄』の力を手に入れれば、この世界における国家間の勢力図は完全に塗り替えられる。
ギレク・アルノ・ユスリットが最初に抱き込んだのは、おそらく自国の王族、デルフィスだ。
王族として生まれながら、王位継承権から遠い位置にいるデルフィスの野心を焚きつけ、ギレク・アルノ・ユスリットは帝国の暴政に抵抗するためとの名目の元、次にエルティミアの議員に連絡を取った。
神聖王国内でも『遠見』の術に干渉する権限をもった人間を巻き込むことは出来ただろうが、帝国に逆らうのならばエルティミアも巻き込んだ方が都合が良い。
イズミアルの人間だけで事を起こした場合、万が一露見したとしても、国内で内々に単なる犯罪行為として処断されて終わる可能性が高い。だが、他国の権力者であるエルティミア議員を巻き込んでいた場合には、複数の国の権力者を巻き込んだ帝国への抗議活動としてより慎重な対処が必要になる。
逆にエルティミア議会に見つかった場合でもそうだ。
国際問題に発展させることにより、彼らは時間稼ぎを目論んだ。
やもすれば彼らの意見に乗せられ、賢人会議及び三カ国首脳会議による判断に異を唱えるものも増えたかもしれない。
そして、事態は今に至るのだ。
「聞いているのか!」
「帝国による囲い込みは認められない!」
「王への謁見を求めます!」
ぎゃあぎゃあ。
わあわあ。
あまりにも勝手な言われように、エレハルドの唇からは知らず知らずのうちにははは、と乾いた笑いが漏れ出していた。
たぶん、目も死んでいる。
言うまでもないが、エレハルドがアルテイト帝国の皇帝に緊急即位したのは、『災厄』により殺されるためだ。
『災厄』がこの世界に再臨した際には、賢人の長こそがこの世界の代表として対峙するというのが、古くから伝わる賢人の長、アルテイト帝国皇帝、イズミアル神聖王国国王、エルティミア議会の間で話し合って決められた正しい手順だ。
今までこれらの手順に修正を求められたこともなければ、その必要もなかった。
そして、その際には賢人の長がどの国の人間であれ、命乞いをするのなら建前だけでもこの世界における最高権力者であった方が良いだろう、という名目で即位するのがいわゆるウルエルデ皇というものなのだ。
〝ウル”はアルテイト帝国における魔術師を示す位であり、〝エルデ”は皇位継承権を持つ者、すなわち皇族の位だ。
つまり、『エレハルド・ウル・エルデ・ディズーリア』という名前自体が、『緊急即位した名ばかりの皇帝権を持つ魔術師』を意味しており、『災厄』に対する対応以外のところではその権限は全く機能しないことになっているのだ。
そこには『災厄』へと捧げられる生贄を飾り立てる程度の意味合いしかない。
だというのに、彼らはその程度の意味しか持たないアルテイト帝国皇帝の名に勝手にそれ以上の意味を見出した。
アルテイト帝国が『災厄』を独占し、囲い込もうとしているのだと。
侮辱だ。
とんでもない不敬だ。
あの星蝕の王が、そのような意図に躍らされるものだと思うのか。
あれだけの力を持った偉大なる王を相手に取引や交渉が成立すると思うのか。
神にも等しい絶対の存在を前にして、それを政治の道具にしようなどとよくよく考えたものだ。焼き払いたい。
「―――焼き払いたい」
うっかり、声にも出た。
死んだ魚の目でぼそりと呟いたエレハルドに、ちらりと背中越しにゲーティアが視線を投げかける。
思えば、『災厄』が異界の人間と共存している、という情報を共有するように提案した時、ゲーティアは少し躊躇うような様子を見せていた。
それは、こんな可能性をその時すでに予想していたからなのだろうか。
だとしたら、これはこのような可能性を見通すことのできなかったエレハルドの責任だ。
やはり、責任を以て焼き尽くしてなかったことにするしかないのでは?
エレハルドはかなり本気である。
建前上の皇帝権限とはいえ、『災厄』への対応を一任されている以上エレハルドにはこの世界を守るためであればどんな手段に出ることも許されている。
この場合、星蝕の王の不興をかったこの四人を処罰することはエレハルドの権限でも可能だ。むしろ、下手に庇い建てするよりもあくまでこの四人が勝手にやったことであり、星蝕の王が大事にしている人間を傷つけたのはこの世界の人間の総意というわけではないということを示す必要がある。
「あなた方は、何故このタイミングで星蝕の王が再臨なされたのかわかりますか」
エレハルドの声は、異様なほどに乾いて平坦だった。
その底冷えのするような声音に、ぎゃあぎゃあとわめいていた四人がようやく気圧されたように口を噤む。
「あなた方に招かれたから、ではありません」
「……ッ、そうやってお前はまた私の功績を否定するのか!」
「いいえ、否定はしませんよ? しませんとも」
ははは、と笑う。
「ギレク・アルノ・ユスリット、あなたの術は見事です。私の『遠見』の術を通して確かにあなたの使い魔は、遠き異界にいた王の元に至った」
「ならば!」
「でもね、不完全だったんです。もともとそのためのパスではなかったし、世界の壁を越えたということもあるでしょう。あなたの使い魔は、薄気味悪い人のうめき声をあげる穴だらけのバケモノという形で星蝕の王のもとで構築された」
「な……ッ」
「それでね。その出来損ないのバケモノは星蝕の王が大変気にかけてらっしゃる御仁に、怪我を負わせたそうなんです。その意味が、わかりますか」
その言葉に、ようやくギレク・アルノ・ユスリットを含めた四人組は、自分たちが何をしたのか、そしてこの塔で何が行われているのかを正しく理解したようだった。
ガタガタと四人の足が震える。
先ほどまでは怒りに赤く染まっていた顔から血の気が失せて、白々と青ざめる。
彼らもまた、星蝕の王の持つ魔力が全く感知出来ていないというわけではないのだ。
ただ彼らは、自分たちの都合の良いように、その恐ろしい力の持ち主が彼らの招きに応じて、彼らと話をするためにこの世界にやってきたのだと思い込んでいた。
そんな都合の良い願望を真実だと、今この瞬間まで信じていた。
「う、嘘だ……」
「嘘じゃあありませんよ。そんな嘘ついて私にどんな得があるって言うんですか。ああ、あなた方、王にお会いしたいのでしたね。さあ、行きましょうか。そこで自ら確かめればいい」
エレハルドの言葉に、ひぃ、とひきつった悲鳴が上がる。
「どうしてくれるんだギレク……!」
「あなた達のせいよ……!」
「私は命じられただけです……!」
「……………」
エレハルドは、ようやく正しく状況を理解し、己と同じ立ち位置――頭を垂れて首を差し出し、慈悲を乞わねばならないポジション――に立ったことを自覚した四人へとにっこりと笑って見せた。
底知れぬ怒気と、侮蔑、そして殺意の籠ったいっそ場違いなほどに華やかで嗜虐的な会心の笑みだった。
「――王は、お怒りです」
エレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアが、少し時間をくれと言ってからしばらくが経った。
時計がないため、正確なところはわからないがおそらく十分程度、というところだろうか。少しばかり退屈だ。庭の花木を眺めて回ろうかとも思ったものの、勝手に席を離れて歩きまわるのも悪い。
紅茶を飲み干し、のんびりと空を眺める。
ひらひらと見たことのない鮮やかな緑の蝶が、鼻先を掠めるように飛んでいく。
平和だ。
と、そこで何やら人の気配が近づいてくるのを感じた。
はたりはたりと蝶が逃げていく。
少しだけ惜しむ気持ちで見送って、俺は視線を先ほどエレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアが消えていった階段へと戻した。
「――……?」
やってきたエレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアは一人ではなかった。
エレハルド・ウル・ディズーリアを先頭に五人が俺の前へとやってくる。
最後尾についていた黒衣の男は、恭しいお辞儀をするとそのまま下がっていった。
残されたのは、エレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアと、その後ろに控えた四人だ。まさの老若男女、といった四人組だが、何故だか四人とも揃いに揃って、顔色がよろしくない。今にでも卒倒しそうな顔色だ。
「星蝕の王よ」
エレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアが俺の呼びかけながら地面に膝をつく。
それに合わせて、その背後にいた顔色の悪い四人組もまた慌てたように地面に膝をついた。だが、こちらはエレハルド・ウル・ディズーリアとは異なり、両膝を地面につけたまま、さらにそこから上体を地面へと伏せるという状態で停止する。平たい。
何だろう。
これは一体どういうことだろう。
ぱちぱち、と瞬いているところで、エレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアが口を開く。
「恐れながら――…こちらの者どもが、御身を煩わせた原因でございます。本来ならばお手を煩わせることなくこちらで処断すべきかとも思いましたが、まずは御身の御意向を伺いたく」
「…………わかりやすく」
「穴の空いた犬をそちらにやった犯人を捕まえてきました。こちらで処分もできますが、まずはどうしたいかを聞きに来ました」
なるほど、わかりやすい。
エレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアが慌ててこの場を後にしたのは、あの現象の原因に心当たりがあったからだったらしい。
どうしたいか、という漠然とした質問に、俺は指先で顎を撫でて考えこむ。
別段、彼らにしてほしいことはない。
ただ、もう二度と陽海を脅かすようなことはしないでほしい、というぐらいだ。
ああ、そうだ。
「アレは、何だったんだ?」
「あの犬は、あなたにメッセージを伝えるためのものでした」
地面に伏せたまま動こうとしない四人に代わって、エレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアが応える。
「メッセージ?」
「はい」
言われてみれば、納得する。
確かにあの穴だらけの犬は何か人の声のようなものを発してはいたし、陽海に対しても近づこうとはしていたものの傷つけようとはしていなかったように思う。
と、いうことはアレは不幸な事故だった、ということになる。
アレは陽海や俺に害をなすことを目的にしたものではなかった。
「――あ」
ふと、思い出す。
「もしかして、あの犬の前には人の形をしたものも送ろうとしていなかったか?」
俺の質問に、地面に顔を伏せたままの老人の背がびくりと跳ねた。
「王の問に疾く答えよ」
エレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアが促す。
「仰せの通りに御座います。偉大なる御身をお迎えするための使者ともなれば獣風情に務まるはずはなく……人の身を構築しようと致しましたが上手くいかず、あのような形になった次第で御座います。御身の慧眼に恐れ入りました」
「…………」
ちら、とエレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアに視線を向ける。
彼はすぐに俺の意図を汲んでくれた。
「あなたの言う通りです。あなたを迎える使者として人を送ろうとしましたがうまくいかなかったので犬の形をしたものにしました、とのことです」
ふんふん、なるほど。
だからあの犬が表れる前触れのように、俺にはパーツの欠けた人のようなものがうっすら見えていた、というわけなのか。
そう納得はするものの、今度は別の疑問が沸き起こる。
彼らは何故、俺を迎えるための使者を送ってきたのだろう。
「なんで、使者なんか送ろうと思ったんだ。俺は、『災厄』なのだろう?」
首を傾げる。
この世界を滅ぼすものとして予言されたモノ。
それが俺だったはずだ。
そんな俺をどうして彼らは呼び戻そうとしたのだろう。
自殺でもしたかったのだろうか。
それなら申し訳ないが、俺はその期待には応えられないし応える気もない。
「――…彼らは、浅はかにもあなたの持つお力を貸していただこうと考えたのです」
「俺の力?」
「あなたはとても強い力をお持ちです。その力を貸していただければ、不可能はありません」
「そうなのか」
「はい」
「ふぅん」
俺は鼻を鳴らす。
俺がこの世界を滅ぼせるだけの力を持っているからといって、彼らは俺を追放した。
だというのに、その力を頼りにするために呼び戻そう、だなんて。
それは、少しばかり。
「―――都合が良すぎないか」
「ひッ!」
幾つもの悲鳴が重なった。
伏せたままの頭の下で嗚咽のような音が響く。
何かどこからか水音が聞こえたような気すらしたが、深くは追及しないことにする。
跪いたままのエレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアもまた、より一層深く頭を下げた。
「何をもって償えば、彼らの愚かさを贖うことができましょうか」
「わかりやすく」
「どうしたら許してくれますか」
「…………」
考える。
やっぱり、二度と関わってほしくない、ぐらいしか思いつかなかった。
「ンー……俺や陽海に、変なちょっかいを出すのはやめて欲しい」
「わかりました。そのように、広く皆に知らしめ……否、皆に伝えます」
「ウン」
「また、私の魂に刻まれたあなたを見張るための術式はすぐに排除いたします。これでそのつながりを辿ってあなたの元に辿りつく、ということは出来なくなるでしょう。ですが、また同じようなことを考える馬鹿が表れ、馬鹿が馬鹿なりに工夫して何らかの手段でもってあなたに辿りつくことがあるかもしれません」
エレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアが念入りに「馬鹿」と口にするたびに、その背後で平たくなったままの四人組の背中がひぐひぐと震える。
もしかしなくとも、これ、俺以上にエレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアの方が怒っているのではないだろうか。
「もしそのような事が起きてしまった場合には――…はお手数ですが、私にご連絡をいただくことは可能でしょうか。こちらですぐに、対処させていただきます。もちろん、あなたが自分で処理してくださっても構いません。ただ、あなたに対してあなたの望まぬことをするものがこの世界にいたとしても、それが決してこの世界全員の悪意ではない、ということを御心にとめておいて欲しいのです」
「わかった」
頷く。
例えそれが俺に対する恐怖からだとしても、エレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアは俺に対して常に誠意をもって応対してくれている。
それならば、この世界のことは彼に任せてしまおう。
ここは、本来俺が生まれるはずだった場所。
本来であれば、俺が深く関わるはずだった世界。
その縁は、一度は彼らが俺を追放するという形で失われた。
だが、それでも因果の果てに俺はこうして戻ってくることになった。
ならば今後も、こういうことがあるのかもしれない。
が、今はもう十分だ。
早く、陽海に会いたい。
おうちに帰りたい。
「――よし。俺は、帰る」
「わかりました。王よ、最後に一つ」
「ウン?」
「この者たちの処断もこちらで下しても構わないでしょうか」
「任せる」
丸投げた。
エレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアのあの怒りようから考えて、彼らがもう二度と同じ過ちを犯すことなど考えもしない程度には十分な罰を与えることだろう。
それだけわかっていれば問題ない。
「エレハルド・ウル・エルデ・ディズーリア」
「はっ」
「お茶、美味しかった。御馳走様でした」
そう挨拶を残して。
俺は背に皮膜翼を構成すると、ゆるりと羽搏いてその場を後にした。
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