襲撃3
しまッた、と思ったのはやらかしてしまった後だった。
言い訳をするのなら、その防御壁の存在には気づいていたのだ。
それは、薄いレースのカーテンのようだった。
複雑な紋様がいくつものパターンで繋ぎ合わされていて、うっすらとその世界を覆い隠してしまっている。
その紋様の一つ一つが、魔力で編まれた意味を持つ術式であるあたり、きっと、誰かその世界の者が別世界からの侵入者を警戒して用意したものだろう。
俺や陽海の世界にも、俺がかつていたあの何もない世界にもこんなものはなかったことを考えると、俺が行こうとしている世界では世界の壁を超える、という概念がそれほど珍しくないのかもしれない。
それにしても、見事な術式だった。
うっすらと燐光を帯びて世界を覆い尽くす術式は一種の芸術品めいている。
これほど大掛かりなものを用意するには時間も根気も要ったのではないだろうか。
俺は別段喧嘩をしにいくつもりではない。
俺や陽海にちょっかいを出さないようにと話し合いをするつもりでいるし、万が一話し合いが成立しなかったとしても事を構えるつもりはない。
今目の前にあるのと似たような壁を俺と陽海のいる世界にも用意してしまえば、こちらの世界の人間も今後手出しをすることは出来なくなる。
だから俺がわざわざここまでやってきた理由としてはただ一つ。
俺自身のことを知りたいからだ。
そのためにも、出来ればこちらの世界の人間の敵意を買うようなことはしたくはなかった。その前提から考えれば、彼らが技術や時間をかけて作り上げたものを壊す、というのは悪手に過ぎる。
そう。
俺にそんなつもりはなかったのだ。
俺はただ、薄く繊細な術式のカーテンの端っこをそうっと捲って静かに忍びこみたかっただけだった。
だというのに――俺がそろっと爪でひっかけただけで、美しい術式のカーテンはほつれ、ボロボロと光の欠片となって散ってしまったのである。
大変不幸な事故だと主張したい。
否、もしかすると侵入者がいた場合、こうして砕け散ることでその世界のものに警告を告げる仕組みであったのかもしれない。
そうだと思う。
たぶんそういうものだ。
うん。
そんなわけで、俺は考えていたよりも派手な侵入を果たしてしまったわけだった。
侵入と同時に重力が俺の足を掴んで地表へと引き寄せる。
ぐらりと傾いた身体を立て直し、俺は空に佇む。
空は、蒼い。
陽海の世界と同じ色だ。
だけれども、空に輝く太陽の傍らにはもう一つ、漆黒の天体が並んでいた。
大きさは太陽の四分の一ほど、だろうか。
まるで黒子のように、太陽の傍らにぽつんと浮かんでいる。
なるほど、異世界だ。
ここは、俺の知らない世界だ。
「―――、」
そのはず、なのに。
俺は、ここを知っている。
この空気を知っている。
この世界を、知っている。
初めて見るはずのもの、初めて感じるはずのものに、驚くほどの懐かしさを感じた。
ここが俺の本来の居場所なのだと、空気の香り、世界に満ちる魔力の気配が強烈なまでに訴えかけてくる。
視線を、地上へと下ろす。
栄えた都市なのだろう。
美しく整えられた庭園と、豪奢な建物が広がっている。
そして、そんな中一際高い塔の屋上に、一人の男が立っていた。
これほどの高所だというのに、庭園には美しい緑が溢れ、色鮮やかな花々が競うように咲き誇っている。
周囲に他の人間の気配はない。
一人、その男だけが俺を見上げている。
深い藍の、夜空を彷彿とする装束を纏った男だ。
綺麗に撫でつけられた明るい栗色の髪に金の冠を戴き、空と同じ色をした双眸に強い意志を宿して俺を見上げている。
ああ、彼だ。
理屈抜きに、そう直観が告げていた。
俺が感じていた視線の正体は彼だ。
彼こそが、俺の感じていた気配の正体だ。
だからこそ、彼もまたこうして俺がやってくるのを待っていたのだろう。
ゆっくりと彼の眼前へと降下する。
トン、とつま先が地に着く。
それでもまだ彼の目線がだいぶ下にあることに気づいて、俺は完全なる人の形を取ることにした。
少し、目線が下がる。
だが、それでもなお彼は俺よりも一回りほど小柄だった。
目の前で俺の形が変わったことに、少し驚いたようにその空色の双眸が瞠られる。
「すまない。驚かせただろうか。あと、アレも壊して悪かった」
「▽▼◇$§Γ¶」
彼が口を開くものの、その唇から発せられる音は俺には意味が取れなかった。
きっと、俺の言葉もまた彼には伝わらなかったのではないだろうか。
当然だ。
ここは、異世界だ。
日本語が通じるはずもなかった。
陽海に出会ったときにしたのと同じように、目の前にいる人物へとピントを寄せる。
その口から出た音と、彼が伝えようとしていた意図とが分析されて重なって――
「お言葉を解さぬ不作法をどうか許して戴けますよう」
おお、聞き取れた。
聞き取りやすいほろりとした声音だ。
だが、その声音も今は多分に緊張を含んで尖っている。
俺に向けられた言葉自体も、随分と硬い、ような。
「これで、言葉がわかるだろうか」
「―――」
彼がまた、驚いたように双眸を瞬かせる。
どうやら彼にも俺の言葉が聞き取れるようになったらしい。
これで良い。
俺は先ほどの謝罪の言葉をもう一度繰り返そうと口を開きかける。
が、先に動いたのは彼の方だった。
すッと彼は膝を折ったのだ。
その場に片膝をつき、頭を垂れる。
片手は胸に添えられ、もう片手は軽く拳を作った状態で地面に触れている。
何かの儀式だろうか。
こういうのを、陽海と一緒に見た映画の中で見たことがある。
鎧を纏った騎士が、自らの王に対して敬意と恭順を示すためにするポーズだ。
が、それを彼が俺に対してして見せる意図がわからない。
なんだなんだ。
何事だ。
顔を伏せたまま、彼の固い声音が言葉を紡ぐ。
「偉大なる星蝕の王よ」
「―――」
俺は思わず背後を振り返った。
俺の後ろにその「星蝕の王」とやらがいるのかと思ったのだ。
が、俺の背後には誰もいなかった。
「……………………」
ということは、俺がその「星蝕の王」なのだろうか。
そんな肩書は初耳だ。
「御身におきましては、我らが愚行にお怒りになられるお気持ちは察して余りありますが、どうかその怒り、第八代アルテイト帝国皇帝、エレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアの首一つでご寛恕請うわけにはいきませんでしょうか」
頭を伏せたまま粛々と言葉を紡いだ彼が白い項を晒す。
え。
俺は思わず硬直した。
人の文化の中で、お礼やお詫びの際に金品のような価値のあるものを差し出すことがある、というのは知っている。陽海と見たテレビや映画の中でも何度か見たことがあるシーンだし、帰宅が遅くなった際の陽海が、遅くなったお詫びです、とちょっとしたお菓子を買ってきてくれたもあった。
だから、謝罪を受ける際に何かを差し出される、という状況については理解が及ぶ。
そして現在、確かに俺は彼が妙なモノを寄越して陽海を怖がらせ、あげく怪我までさせたことに関しては怒っている。
だから彼がそれを反省して謝るというのならその気持ちを受け取るつもりもある。
だが、その証に首を差し出される、というのは想定外だった。
何かこう、どうぞご自由にお切り取りください、という風に差し出されてもどうしたものなのか。はい受け取ります、と切り取るわけにもいかない。
そもそも、人というのは首から上がなくなっても大丈夫なものだったろうか。
わりと死ぬような気がしているのだが。
それとも、この世界の人間は首を失ってもちょっと困る程度で終わるのだろうか。
それ故に、謝意を示すために首を差し出す風習だとかが存在している?
だとしたならば、この世界の文化を尊重するためには彼の首を受け取る必要がある可能性も出てくる。
だが手土産に首など貰って帰っても陽海だって困るだろう。
部屋に首を飾る趣味はないだろうし、今後も飾る予定はないはずだ。
そうなると置き場所にも困る。
首が誠意の証であるのならばそれをこっそり処分したり、部屋のどこか見えないところで埃を被るままにする、というのも申し訳なくなる。
と、いうわけで。
「――気持ちはありがたいが、首は大事にした方が良いと思う」
大事にしてほしい。
お土産が首、なんていう事態は是非とも回避したい。
そんな気持ちで告げた言葉に、何故か彼ははッとしたように顔を上げて俺を見ると、再び深々と頭を下げた。
「我らが大罪、その愚行、この首一つで贖えるなどと思いあがっておりました。国を以て尽くせと仰せならばその御心、広く知らしめるように致します」
「…………?」
なんだろう。
会話は成立しているものの、とことん意図がすれ違っているような気がする。
国を以て尽くす、とは。
「…………」
俺の言葉を待つように、静々と頭を下げたままの彼を前にどうしたら良いのかがわからない。
は、はるみー。
はるみーはるみー。
陽海に助けてほしい気持ちでいっぱいいっぱいだ。
同じ言葉を話しているはずなのに、通訳が欲しい。
俺にもわかる言葉で話してくれる陽海が心底恋しい。
だが、残念ながらここに陽海はいないのである。
俺が頑張らなければいけない。
ええと。
確か彼の名前は。
「エレハルド・ウル・エルデ・ディズーリア」
「はっ」
「俺は、言葉に疎い」
「はっ」
「なので、わかりやすい言葉で、具体的に話してくれると助かる」
「仰せの――……」
言いかけて、途中で気づいたように彼は一度口を噤んだ。
そして、おそるおそる言い直す。
「あなたの言う通りにします」
ありがたい。
これで、随分とわかりやすくなった。
本当にこれで良いのか、という風な困惑が彼の語尾には滲んでいるが、この方がずっと良い。俺はうんうんと頷く。
次は彼の体勢だ。
そんなにも頭を下げられると、顔が見えない。
顔が見えないと、表情がわからないので意図が読みにくい。
「顔を、上げてほしい」
「わかりました」
彼が顔を上げる。
強い覚悟と、決意を秘めた空色の双眸が俺を見る。
「…………」
「…………」
……違うな。
確かに顔が見えた方が話しやすくはなるのだが、不自然に彼の目線が低いのが気になってしまう。
普段陽海が俺を見下ろすのは気にならないし、逆に人型を取った俺を陽海が見上げるのも気にならない。だが、彼のようにわざわざ膝をつくことで見上げられると、何らかの意図があるようで、落ち着かない。
「……その体勢の方が、楽なんだろうか」
「何か問題があるでしょうか」
「わざわざ見上げられると、話をしにくく感じるんだが……」
彼がその体勢の方が楽だというのなら、無理強いをするつもりはないのだが。
彼は俺の言葉に動揺を押し隠すように忙しげな瞬きをして、それからそろそろと立ち上がった。
そしてちらりと視線を背後の四阿へと向ける。
「もしもお嫌でなければですが……こちらの席についてお話する、というのはどうでしょうか」
「うん」
頷く。
たぶん、その方が話しやすいと思う。
彼に先導されるままに、席に座る。
彼はわざわざ一度座っても良いか俺に許可をとってから、対面の席へと腰を落ち着けた。
傍らには何か綺麗な細工の施された茶器が並んでいる。
「お茶をお飲みになられますか?」
俺の視線がそちらに流れたことに気づいたのか、彼がそっと申し出る。
まるで催促したようになってしまったが、この世界のお茶というのも興味深い。
どんな味がするのだろう。
是非、と頷くと、彼は丁寧な所作でカップへとお茶を注ぐ。
薄く、黄色がかった色合いだ。
花のような香りがする。
「毒見をした方が良いでしょうか」
「毒見?」
毒見、というのはその飲み物や食べ物に毒が入っていないかどうかを確かめる行為のことだ。
「必要ないと思う」
俺は首を横に振る。
慣れない異世界での飲食ということで気を使ってくれているのだろうが、どんな毒であれ俺に効くとは思えない。
何せ、かつていた世界の毒沼を飲み干し、乾いた大地をばりぼり喰らって平気だったのだ。今さら、何か妙なものを食べたり飲んだりしたぐらいで具合を悪くする、というようなこともないだろう。
「過ぎたことを言いました」
深々と頭を下げて、彼が俺へとお茶のカップを差し出す。
早速手に取り、一口味わう。
温かなお茶だ。
ふわり、と口の中に広がる花の香り。
味わい自体は、あっさりとしている。
陽海が淹れてくれる紅茶とは違って、渋みや苦みのようなものは感じられない。
瑞々しい花の香気と、微かな甘みのある優しい味わいだ。
陽海も気に入るのではないだろうか。
「美味しい」
「気に入っていただけたのなら良かったです」
「ありがとう」
しばし、静かにお茶を味わう沈黙。
「…………」
「…………」
さて。
どこから話をしたものだろう。
聞きたいことは幾つもある。
だが、何から話をしたら良いのかがわからない。
ちらり、と彼の様子を伺う。
彼もまた、何から切り出したら良いのかを迷うように視線が泳いでいた。
「…………」
「…………」
よし。
頑張って話しかけよう。
「星蝕の」
「あの」
俺と彼の声とが重なった。
しまった、と言いたげにサァアアアアと彼の顔色が青ざめていく。
「お言葉を遮るとは何たる無礼、申し訳ありません……!」
がったん、と椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった彼が、何かの競技かな、と思うほどの速度で地面に膝をついて頭を下げる。
「…………」
なんだろう。
先ほどから薄々察してはいたのだが、もしかしなくとも俺は彼に怯えられているのではないだろうか。
何故だろう。
陽海と違って彼には比較的人間に近い姿で最初から接しているつもりなので、それほど怖がられるようなことはしていないと思うのだが。
「エレハルド・ウル・エルデ・ディズーリア。お前は俺が怖いのだろうか」
「っ……」
地面に膝をついたままの彼の肩がびくりと震える。
「偉大なる御身を前にして恐れを抱かぬ者がありましょうか」
「…………わかりやすく」
「あなたはすごく強いので、怯みます」
――なるほど、すごくわかりやすかった。
「良いか、エレハルド・ウル・エルデ・ディズーリア」
「はっ」
「俺は噛まない」
「…………はい?」
「もちろんそれは食べるなら丸飲みにするぞという宣言でもなければ、それ以外の方法で酷い目に合わせるという予告でもない。誓っていい」
この場合俺は何に誓えばいいのだろうか。
「陽海に誓う」
「――――」
勝手に誓われている陽海にはなんとなく悪いような気もするが、俺は嘘をつくつもりはないし、相手が陽海にならなおさらだ。その陽海に誓うのだから、彼に危害を加えるつもりなど俺にはないのだ。信じて欲しい。
ハルミとは。
と言いたげな顔をしていた彼であったのだが、誓う先が何であれ、俺の言葉に嘘はないということだけは信じてもらえたらしかった。おそるおそる、といたように立ち上がったエレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアが、膝の辺りを払って再びテーブルに着く。
それを見届けた後、俺は注意深く、今度こそ彼と発言が重なってしまわないように気を付けて口を開いた。
「『星蝕の王』というのは何だろう」
「それは――……」
何かと地面に跪きたがるエレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアを宥めつつ聞き出した話は、いろいろと衝撃的だった。
俺はなんと―――この世界を滅ぼすものとして予言された『災厄』なのだという。
何百年か前に誕生を予見されて以来この世界の人々が何としてでも回避しようとして事象であり、その結果として生物の生存に徹底的なまでに適さない地獄へと送り込まれた『災厄』。
けれど、俺は死ななかった。
彼らが必死に調べあげ、選び抜いた必殺の環境でも俺は生き続けていたし、それどころか俺はその地獄を喰らい始めてしまった。
そんな俺の姿は彼らにはどんな風に見えていたのだろう。
豊かな世界から己を追いやった彼らを恨み、憎み、地獄の檻を喰い破らんとする恐ろしい怪物といったところだろうか。
そうして名もなき『災厄』であった俺を、彼らは『星喰い』と呼び始めた。
『星蝕の王』もその言い換えの一つに過ぎない。
「―――、」
深く、息を吐く。
いろんなことに納得がいった。
俺が感じていた視線や気配は、この世界の魔術師たちのものだった。
彼らは何代にもわたり、俺を監視し続けていた。
この世界に対して不思議な懐かしさを覚えるのも当然だ。
俺はもともと、この世界のモノだった。
この世界に生まれ落ち、この世界に生きるはずのモノだった。
俺はこの世界を知っていたのだ。
生まれ落ちてからほんの数瞬、俺は確かにこの世界に一度は存在していたことをどこかで覚えていた。
ゆるりと視線を持ち上げる。
全てを語り終えたエレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアは、罰を待つ罪人のように静かに頭を垂れて俺の反応を待っている。
彼が俺を恐れる理由も、わかった。
彼は――…、というよりもこの世界の人々は、俺がこの世界を滅ぼすモノだと信じている。そして、それを信じるが故に一度は俺を劣悪な異界へと追いやった。
だから、彼は俺が復讐をしに来たと思ったのだ。
この世界から追いやり、生物の生存には適さない地獄のような世界に送り込まれたことを恨んだ俺が今度こそこの世界を滅ぼすためにやって来たのだと。
酷い、話だ。
俺はそんなことを望んだことは一度だってないのに。
事情を知った今でさえ、俺はそんなことを望んではいないのに。
しんどい。
ただただひたすらに、気持ちが沈む。
何か重苦しい塊を飲み込んでしまったかのようだ。
「―――帰りたい」
しみじみと呟いた。
帰りたい。
この世界こそが、俺の本来の居場所なのかもしれなかった。
何百年か前の誰かが予言したように、俺はこの世界を滅ぼすべく生まれたモノなのかもしれなかった。
だけれども、そんなことは俺には関係ない。
この世界をどうこうしたいなんて気持ちはちっとも沸いてこない。
今の俺はただひたすらに帰りたい。
陽海の元に帰りたい。
俺の存在を恐れず、厭わず、呪わず、受け入れてくれた人の元へと帰りたい。
陽海は、いってらっしゃい、と俺のことを見送ってくれた。
ちゃんと帰ってくるか、と聞いてくれた。
陽海は、俺の帰りを待っていてくれる。
「エレハルド・ウル・エルデ・ディズーリア」
俺の呼びかけに、彼が顔を上げる。
俺の看守であり、俺のために用意された生贄でもある魔術師が顔を上げる。
「俺は、この世界を滅ぼさない」
「ッ」
俺の言葉に、ハッとしたようにエレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアが顔を上げる。
「許して、くださるのですか」
「…………………」
それは難しい問いかけだった。
俺自身、自分の気持ちを分かりかねている。
「……俺は、たぶん、お前たちを許したわけではないと、思う」
俺は彼らの世界を滅ぼそうとは思わない。
でも、だからといって彼らのことを許したわけでもない、と思う。
漠然とだが、それでも彼の問に素直に頷くことは出来なかった。
許すことが出来ていたのなら、こんなにも重苦しい気持ちにはならないはずだ。
重く、冷たい大きな塊が俺の腹の底にどんよりと沈んでいる。
ただ、ひたすらに陽海が恋しい。
あの柔らかな声で労わられたいし、温かな血の通った指先で触れて、撫でられたい。
俺は俺のことが知りたくてここまでやってきた。
そして、知った。
俺はこの世界における招かれざる客だ。
ならば、さっさと帰ろう。
ああ、その前に。
一応、釘は刺しておく必要がある。
「俺に、この世界をどうこうするつもりはない。だが――」
一度言葉を切った『災厄』―――否、星蝕の王はエレハルドを真っ直ぐに見据えた。
混沌を閉じ込めたような複雑な色合いの双眸に、ぞッとするほどの決意が覗く。
空気が、変わる。
対面の瞬間から感じ続けていた膨大な魔力が、エレハルドを焦点にぶわりと大きく膨らみ、収束したかのように感じられた。
酷い、勘違いをしていた。
かの王がこの世界に近づくにつれ感じていたその苛烈なまでの魔力の存在感を、エレハルドは怒り故のものだと思っていた。
本来所有するはずだった世界から追いやられた王の昏き怒りが、重苦しい魔力の圧としてこの世界に向けられているのだと。
だが、そうではなかった。
かの王は、この世界を敵としてなど見てはいなかった。
何故なら、今エレハルドに向けられているものこそが敵意だ。
全身から力が抜けそうになる。
椅子から崩れ落ちそうになる。
それでいて、自らの意志では指先一つ動かすことが出来ない。
はく、と無意識に唇がわななく。
息が、出来ない。
呼吸が、止まる。
この世界に満ちる全てが、大気すらが、エレハルドの敵になったかのような錯覚。
頭の芯が、じりじりと痺れる。
熱いのか、冷たいのかすらわからない。
「今度またハルミを怖がらせたり、怪我をさせるようなことがあったら――…次は、本当に怒る」
星蝕の王は、決して声を荒げたりはしなかった。
それどころか、その声はむしろ淡々と静かに響いた。
けれど、それはこの世界を滅ぼすことも厭わないという宣告だった。
がたがたと震える手指をなんとか握りしめる。
カチカチと鳴る歯を、奥歯を噛み砕かんばかりに噛みしめる。
視線を持ち上げることすら出来ない。
真っ白なテーブルクロスを穴が開くほど見つめながら、エレハルドは口を開く。
「あなたの、お言葉の通りに」
血を吐くような心地でなんとか音にした声は、無様なほどに震え、掠れていた。
それでも、エレハルドの返答に星蝕の王は及第点をつけてくれたものらしい。
エレハルドの魂ごと蝕むような魔力の圧が、すぅ、と引いていく。
少しずつ、指先に体温が戻る。
は……、といつからか詰めたままになっていた息を吐きだして、肺に新鮮な空気を送り込む。
そうして少しばかり落ち着いて、まともな思考が戻ったあたりでふと、気づいた。
――今度また、とはどういうことだ。
エレハルドは確かに、彼の監視を長らく続けていた。
それが煩わしいからやめろ、というのならまだわかる。
だが、かの王は「ハルミを怖がらせるな、傷つけるな」と言う。
ハルミというのは、いつかエレハルドが掠め見た女性のことだろう。
星蝕の王を相手に恐れを抱く様子もなく、気安く言葉と視線を交わし、触れ合う異世界の女性。
その女性を怖がらせ、傷つける?
そんなことをした覚えはない。
それとも、エレハルドの知らぬところで、混線した『遠見』の術がそのような弊害を齎していたのだろうか。
だとしたならば、それは事故だ。
無実だとは言わない。
術式の暴走が被害を与えてしまったというのなら、その責任は現在その術式を魂に負うエレハルドの落ち度だ。
だが、そこに意図はない。
かの王に弓を引くような心づもりは一切ないのだ。
これは状況を正確に把握する必要がある。
エレハルドは未だ掠れた声を喉奥から絞り出すようにして口を開いた。
「そのお話、もう少し詳しくお聞かせ願えないでしょうか」
「ウン?」
星蝕の王が緩やかに首を傾げる。
続きを待つような仕草に促されて、エレハルドは言葉を続ける。
「その……ハルミ様を怯えさせ、傷つけるようなこと、というのは具体的にはどのようなことが起きたのかが知りたいのです。この世界とあなたの間にある唯一の繋がりは、私の魂に刻まれた『遠見』の術と呼ばれる術式です。
これは本来であれば、あなたのお姿を覗き見るだけのもので、あなたの周囲にいらっしゃる方を怯えさせたり、ましてや傷つけることなどないはずのものなのです。
ですが、あなたが世界を超えたことにより術式は一度途切れ、乱れました。もしかすると、そのために思わぬ影響を周囲に及ぼしてしまったのかもしれません」
エレハルドの説明に、星蝕の王は少しばかり考え込むような間を置いた。
それから、何かを確かめるようにエレハルドへとその複雑な色合いを宿した双眸を向ける。
「犬のような、生き物だった。色は黒っぽい。あと大きくて、穴だらけだ。それが、陽海の前に現れ、陽海を追いかけまわした」
「巨大な穴だらけの、黒犬?」
復唱する。
それは、おかしい。
それは、説明がつかない。
そんな悍ましい生き物は、この世界にも存在しない。
それに何よりも、その現象は『遠見』の術の暴走では説明がつかない。
「その黒犬に、実体はありましたか?」
「あったと思う」
ますます、おかしい。
エレハルドの魂に刻まれた術式はあくまで見るためのものだ。
だから実際星蝕の王が違う次元に逃れ、術を式として成立させていた要素が欠けた後は見えなくなるという形でその不具合が表れていた。
黒犬の怪物が幻覚として現れる、というのならまだわかる。
本来ならばこの術式でやり取りされる視覚情報は、エレハルドが受信する側だ。
だが、術式に狂いが生じたのならばそれが逆転することは考えられる。
エレハルド側の情報が、星蝕の王の側に送られてしまうのだ。
そして本来ならば星蝕の王が受け取るはずのその情報が、何等かの表紙に周囲に幻影のように漏れてしまう――、ということも万が一に万が一を重ねて考えれば絶対にありえないとは言い切れない。
しかし、実体があるとなると話は別だ。
それはもはや、別の術式だ。
「それを、どうなさいましたか?」
「蹴とばしたら、溶けた」
「溶けた」
思わず再びの復唱。
死んだのではなく、溶けた。
それは。
それは、もしかすると。
「その黒犬は、言葉を発しはしませんでしたか」
脳裏をよぎった考えたくもない可能性に、エレハルドの声音に抑えきれない怒気が滲む。その迫力に圧されたように、少しだけ星蝕の王が椅子の上で居住まいを正した。
「言葉ではないが、人の声のような唸り声を上げてはいた」
「そう、ですか」
ははは、とお愛想笑いを浮かべて見せるエレハルドのこめかみには、これ以上ないほど見事な青筋が浮いている。
本当なら今すぐにでも怒鳴り散らしたいし、取り乱したかった。
が、星蝕の王を相手に失礼があってはいけない。
エレハルドはすーはー、と深呼吸をした後、なんとか取り繕った冷静さでもって口を開いた。
「……失礼ながら、少々お時間をいただいても良いでしょうか」
「ウン」
こっくりと寛容にも頷いた星蝕の王の前から丁寧に辞する。
冷静さを保っていられたのは、星蝕の王の視界の外である階下へと続く階段に足を踏み入れるところまでだった。
ばっさばっさと足元に纏わりつくような重厚な装束を蹴散らすようにして全力で階段を駆け下りる。
何が起きたのかが、わかった。
何故星蝕の王がこのタイミングでこの世界に戻ってきたのかがわかってしまった。
キリキリと胃が痛む。
「あのクソ野郎ぶっ殺す……!!!」
らしくもない罵声を低く吐き捨てて、エレハルドは一目散に駆け抜ける。
第八代アルテイト帝国皇帝、エレハルド・ウル・エルデ・ディズーリア、ご乱心であった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
Pt、感想、お気に入り登録励みになっております。
そしてここでご報告を。
かねてよりアース・スターノベルより書籍化が決まっていた『トカゲ主夫。』ですが。
先日、イラストレーターさんが決まりまして!
海島千本さんが担当してくださることになりました!!
わーいわーい!
ラストスパート頑張りますので、よろしくお願いいたします!!




