襲撃2
陽海を部屋に送り届けた後、俺は月に向かって飛ぶ。
緩やかに羽ばたきを続けるにつれて眼下の光が遠くなる。
空気が薄くなり、外気が急速に冷えていく。
空の上というのはこういう風になっているのか。
結構高くなったのに、星や月はそれほど近くなったようには感じない。
どれほど高く飛んだなら、あの星々に手が届くのだろう。
陽海に聞いたら教えてくれるだろうか。
たった今別れてきたばかりなのに、もう話したいことが出来たことに小さく笑う。
俺はきっとこれからも、何か新しいことを知っても、何か不思議に思うことが出来ても、真っ先に陽海の顔を思い浮かべるのだろう。
陽海。
俺を受け入れて、一緒に暮らしてくれた人。
俺に、いろんなことを教えてくれた人。
その陽海を怖がらせ、傷つけるモノがいるのなら、俺はどんな手を使ってでも陽海のことを守りたいと思う。
それが、俺に関わったことで生じたモノならばなおさらだ。
「…………」
暗い紺碧の空を見上げて、俺は小さく息を吐く。
あのよくわからないモノから感じたのは、俺自身にとてもよく似た気配だった。
正確には俺の一部、だろうか。
物心ついたとき。
俺が俺であるとのの自覚と、俺としての思考が始まったときから当たり前のように俺の傍らにあった気配だ。
感覚としては、香りに近い。
ふとした瞬間に鼻先を漂うことでその存在に気づくものの、普段はあまりにも近くに長くあるせいで意識の底に埋没する。
その結果、俺はこれまでその気配についてを深く考えたことがなかった。
特に何か害があるわけでもなく、あまりにも長く傍にありすぎた故にすでに俺自身との境界すら曖昧になっていたからだ。
だが、今回初めて、俺はそれによく似た気配をあの奇妙なモノから感じた。
アレは、なんなのだろう。
どうして俺と似た気配を帯びていたのだろう。
何かしら、俺とアレには共通点があるのだろうか。
ただアレを俺の世界から排除するだけなら、きっと簡単だ。
俺が望めば、俺に纏わりつくその気配を切り離すことも出来るだろう。
そして二度とアレが陽海の前に姿を現さないようにすることだって出来る。
俺にはそれだけの力があるし、そうしたならば今後も変わらず俺は陽海と今まで通りの生活を続けることが出来るだろう。
だが、俺は知りたいと思ってしまった。
俺に纏わりつくあの気配の正体を。
そして、俺自身のことを。
この機会を逃せば、俺は俺についてを知らないままになってしまうかもしれない。
それは厭だな、となんとなく思った。
これまでだって、俺自身のことをなんとなく知りたいと思うことはあった。
だがそれはそれほど切実な欲求ではなかった。
俺は俺一人で完結していたし、俺の世界には俺しかいなかった。
この世界にやってきて、陽海と出会って。
俺はたくさんのことを知った。
陽海から、学んだ。
他者と触れ合う温もりや、言葉を交わす喜び。
そして、自分のことを知る大事さもまた、陽海から学んだことの一つだ。
陽海は陽海自身のことをよく知っているからこそ、自分とは異なる他人のことにもよく気づく。自分の形を知っているからこそ、他人への合わせ方も知っているのだ。
俺は、まだ自分のことを知らない。
自分がどういう形をしているのかを、知らない。
だから、知りたい。
これからも陽海と生きていくために、俺は俺のことを知りたい。
「――……」
深く、息を吐く。
今なら、俺はあの気配を追える。
アレがどこから来たものなのかを、手繰ることが出来る。
アレは、何なのだろう。
俺は、何なのだろう。
すぅ、と息を深く吸う。
冷えた清涼な空気が身体の中をめぐる。
次元の壁を割るのには、多大な力を必要とする。
一度目、俺はあの何もない世界から抜け出すのにかなりの力を使った。
あれからしばらく。
俺の中に満ちる魔力はほぼほぼ回復している。
それに、今回は二度目だ。
前回よりも、上手に壁を越えられる自信はあった。
壁を全部壊そうと思うから余計な力が要るのだ。
細く、鋭く練り上げた魔力でもって、穴を穿てば良い。
俺だけが通り抜けられるような、微かな穴を。
空気が、渦を巻く。
肉眼には見えない穴が奈落めいてぽかりと口を開ける。
「行って、きます」
口の中で小さく呟いて、俺は微かな気配を頼りに次元の隙間へと身を潜らせた。
くん、っと。
それは、何か軽く引っ張られるような感覚だった。
儀式の間にて、『災厄』との繋がりを手繰り寄せようとしていたエレハルドは、予想外のことにバランスを崩して水の中で小さく蹈鞴を踏む。
ぱしゃり、と水音の跳ねる音に、エレハルドは小さく瞬いた。
『遠見』の術式に限らず、瞑想状態にある魔術師は一種のトランス状態に陥っていることがある。エレハルドもそんな魔術師の一人で、柔く目を伏せ、水の中に佇み、鋭く研磨された第六感において『災厄』の気配を追いかけていると周囲の音が聞こえなくなることもしばしばだった。
基本的にそれが仕事でもあるエレハルドであるもので、その状態にあるところを邪魔されることは珍しい。
とはいえ、エレハルドの賢人としての立場を思えば、火急の用件で現実に引き戻されることはなくもないことだ。
ゆっくりと意識をこちら側へと引き戻すように瞬きを重ねる。
足元に揺蕩う水面が弾く光が、チクチクと網膜に甘やかな棘のように刺さる。
眠っていたわけではないものの、夢想の世界から引き戻されたかのような倦怠感に息を吐きながらエレハルドは背後を振り返る。
そして、「え」と小さく声が零れた。
エレハルドの背後には、誰もいなかった。
女官は入り口近くの壁際に控えている。
エレハルドの服を引けるような距離には、誰もいない。
「―――」
それでは、今エレハルドの袖を引いたのは?
それとも、袖を引かれたと思ったこと自体が錯覚だったのだろうか。
そういうことも、稀にある。
基本的に魔力の流れというのは目には見えないものだ。
魔術師たちはその目には見えないエネルギーの流れを、研ぎ澄ました第六感でもって感じ、術式によって操り、数々の不思議を成し遂げる。
その目には見えないものの第六感でもって察知する魔力を、魔術師たちは脳内で図に起こす。目には見えないそれを、見えるものとして頭の中に思い描くのだ。
そうした修行の果てに、卓越した魔術師は『脳内に図として起こす』という工程を省いて強い魔力の流れを『視る』ことが出来るようになる。
エレハルドもそうだ。
肉眼で世界を見ていても、ある程度はコントロールしてそこにある魔力の流れを重ねて見ることが出来る。
第六感でもって感知したモノを、他の五感、この場合は視覚に重ねることが出来るのだ。
そして、それはその逆もありうる。
つまり、本来なら魔力の流れとして感知した動きを他の五感によるものだと錯覚してしまう、というようなことだ。
だとしたなら――…、今エレハルドが感じた『袖を引かれるような感覚』は一体何だったというのか。
ぞわり、と背筋が冷える。
背骨に沿って這い上がる、未だかつて感じたことのないほどの冷気。
ガチガチと鳴る耳障りな音が、身体の震えによって自分の歯が立てている音だと気づいたのは音を認識してから一、二拍遅れてからのことだ。
「エレハルド様?」
壁際に控えていた女官が異変を察知したのか、エレハルドへと声をかける。
今にも魔法陣の中に足を踏み入れてきそうな彼女に向けて、エレハルドはパニックに陥りかける思考に懸命に歯止めをかけつつ制止を示すべく手を向ける。
「大丈夫、だから」
大丈夫ではない。
どう考えても、大丈夫といえるような事態ではない。
だが、彼女には他に急いでしてもらわなければならないことがある。
「急いで、ゲーティア殿を呼んできてくれ……ッ」
「ですが」
「緊急事態なんだ。頼む」
「――…わかりました」
額に脂汗をじっとりと浮かべたエレハルドの声に、彼女はその緊急性の高さを察したのか、気遣わしげにしながらもすぐに儀式の間を後にする。
それを見送って、エレハルドはほう、と深く息を吐く。
身体に力が入らない。
気を抜いたら、ぐにゃりと膝が折れてしまいそうだ。
背骨のあたりが薄ら寒く、指先やつま先といった身体の末端の感覚が遠い。
未だかつて経験したことのない異常だ。
流行り病で寝込んだ時の感覚に似ているような気がしないでもないが、それでもここまで急激に症状が悪化するようなことはなかった。
何が、起きている?
脳内にはすでに最悪の想定が成立している。
それを否定するためにも、エレハルドは気力を振り絞って今にも萎えそうな四肢に力を入れてまっすぐに立った。
クリスタル越しに注ぐ、魔力を帯びた光を額に受ける。
『遠見』の術を魂に宿して以来、エレハルドにとって目を閉じるということは恐怖との対面を意味していた。
だが、その行為を今以上に恐ろしいと思ったことはない。
自分が死の淵にあることを自覚したいなどと、誰が思うだろう。
知らぬうちに、最期の瞬間まで幸せな日常が続くのだと信じたまま、何が起きたのかもわからないまま死ねたのなら。
「――……はあ」
息を吐く。
甘い誘惑だ。
けれど、エレハルドはもう十年以上その誘惑と戦い続けた。
恐れを知らないままに命を落とすことよりも、死の恐怖にみっともなく震えながらも抗う術を探す道を選んだ。選び続けた。
だから、エレハルドはこれまでの自分の人生に報いるためにも、目を閉じる。
自分の生涯を、努力を、無にしないために目を閉じる。
「――――」
ばくばくと自分の心臓の音が煩く木霊する。
眼裏に浮かぶのは闇だ。
何も、見えない。
『災厄』とのつながりが途絶えた時の、いつもと変わらぬ状態だ。
深く、深く息を吐く。
己の中が空になるほどに息を吐いて、それから静かに息を吸う。
空になった自分の中を新しいもので満たしていく。
焦りや不安を吐き出して、ひやりした清涼な気配で身体を満たすというイメージだ。
心が凪いだところで、今度は少しずつ意識を額に微かに感じる熱感へと集中させていく。そして、慣れ親しんだ『災厄』の気配へと魔術で編んだ繊手を伸ばして――
―――くん。
「……ッ!」
エレハルドは目を瞠る。
眼裏に映像は浮かばなかった。
ただ薄暗い闇が広がっただけだ。
だが、確かに。
確実に、反応があった。
これは間違いなく、あちらから辿り返されている。
ついに、『災厄』に気づかれてしまったのだ。
エレハルドが『災厄』の気配を辿り、その様子を伺っていたのと同様に、今は『災厄』がエレハルドを探している。
「ぁー……はは、ついに、かぁ」
はは、と小さく乾いた笑いが零れてしまった。
何がおかしかったのかは、エレハルド自身もよくわからなかった。
ただ、なんだか不思議と腹が据わっていた。
もとより、エレハルドと『災厄』の間にある繋がりは双方向のものであることはわかっていたことだ。『災厄』に繋がっている、ということは、『災厄』に繋がれているのと同意だ。だからこそ、エレハルドはずっと『災厄』に見つかることを恐れてきた。
「もっと、慌てると思っていたんだけどな」
エレハルドは口元に苦笑を浮かべて小さくぼやく。
きっと、自分はその恐怖に耐えられないと思っていた。
いざというときが来たら、もしかすると自分は正気を失うのでは、とまでエレハルドは思っていたのだ。
だというのに、自らがもっとも恐れていたはずの事態が現実となった今、不思議とエレハルドの気持ちは凪いだままだった。
未だ実感がわかずにいるだけなのだろうか。
それでも良い。
この緊急時に己の心が折れて、何も出来ないまま終わるよりは良い。
エレハルドは誰よりもこの日が来ることを恐れていた。
幾夜も眠れぬ夜を過ごした。
だが、逆に言えばそれだけこの日に備えてきたのだとも言える。
状況は最低で、最悪だ。
だが、最悪なことが起きるかもしれないと恐れ、怯える時期は終わった。
最悪はもう起きてしまったのだ。
ならば、あとは対処するしかない。
やることは決まっている。
心も、決まっている。
「やるしかないよね」
エレハルドは虚空に指先を滑らせると、何もないはずの場所からするりと己の杖を引き出した。
木の枝が幾重にも重なり、ねじれたように絡み合うそれは、杖となっていても木としての生命を終えていない不可思議を宿している。
一振りの杖であり枝であり、大樹でもある。
手のひらになじむ、ひやりとした感触。
最初は冷たかった掌と杖の接点に少しずつじわりとした熱が生まれる。
こうして杖を手にして、実践的な魔術を組むのは随分と久しぶりだ。
ぱしゃん、と水を散らしてエレハルドは杖の石突部分を床に向けてしっかりと立つ。
深呼吸とともに一息で己の魔力を組み上げる。
イメージは、網だ。
この世界への侵入を阻む網であり、鋼だ。
組み上げられた魔術が、エレハルドの魔力に呼応するように虚空に光の魔法陣を描きだす。
一つ、二つ。
虚空に浮かぶ魔法陣が次第に増えていき、それぞれの魔法陣が曼荼羅のように重なり、繋がり、少しずつ大きくなっていく。
一度組み上げてしまえば、あとは術式が完成するのを待つだけだ。
じわじわと広がりゆく魔法陣を眺めて一息ついたところで、背後から低く落ち着いた声音が響いた。
「エレハルド殿、火急の用件だと聞いたが――…これは、一体何事かね」
「『災厄』がこちらに向かっています」
「ッ……!」
エレハルドの短い報告に、流石のゲーティアも平静を保てなかったのか小さく呼気が跳ねた。
「その術式は?」
「こちらの世界を覆う壁を構築しています。どちらかというとカモフラージュ、目隠しのような意味合いの方が強いですが」
すでに儀式の間を埋め尽くした魔法陣は、壁を透過して外へ外へと広がり続けている。
強度としては、エレハルドやゲーティアクラスの魔術師であっても、破るには数時間から数日はかかるであろうという凝りようだ。
だが、それでも『災厄』には当然届かない。
それはわかっている。
だからこそ、エレハルドは魔力の分配を純粋な強度よりも隠匿に傾けて術式を構成している。
「少しは、時間稼ぎになるかと。術式自体に自己増殖機能と自己修復機能を組み込んでいるので、そこを破壊されない限りは再生と増殖を繰り返すようになっています。増殖、修復に必要な魔力も自己生成するようにもしていますが、スピードをあげたい場合は外部から魔力を供給するようにしてください」
「―――……」
世界を包む術式は、放っておけばそのまま幾重にも重なって増え続けるし、当然重なれば重なるほど効果は強力になる。
そんなエレハルドの説明に、ゲーティアは若干呆気にとられながらも頷いた。
この年若い魔術師は、己の組み上げる術式がどれだけ規格外であるのかを正しくは認識していないのだろう。
確かに同じものを作れと言われればゲーティアにも真似出来ないわけではない。
ただ、それは「真似をすれば」だ。
一つ一つの魔法陣自体はゲーティアにも問題なく組める程度のものだ。
だがそれを複雑に組み合わせ、一切の無駄なく適切に繋ぎ、一繋ぎの魔術として発動させるセンスは、エレハルドならではのものだ。
見事の一言に尽きる。
「そしてこれ以降の『災厄』対策をゲーティア殿に一任したく」
「――それは、どういう」
「私は、ここで『災厄』とこの世界の繋がりを消します」
至極、あっさりと言われた言葉だった。
ゲーティアは目を瞠る。
『災厄』とこの世界の繋がり、というのはすなわち、エレハルドの魂に刻まれた『遠見』の術式だ。
それを、消す。
それだけなら構わない。
『遠見』の術式は数百年前に『災厄』を異界に封じて以来、この世界で最高峰の魔術師の魂に刻まれ、継がれてきた大事な術式だ。
だがそれも、『災厄』がこちらに来ないかどうかを監視するためのものだ。
その繋がりを辿って『災厄』がこちらに戻ろうとしているのなら、この正念場に置いて『遠見』の術式を惜しむのは本末転倒でしかない。
だから、エレハルドの『遠見』の術式を消す、という判断についてはゲーティアが口を挟むことはない。
だが、今後の『災厄』対策をゲーティアに一任する、というのは。
それはすなわち、エレハルドの死を意味しているのではないのか。
「卿は、ここで死ぬつもりか」
「はい。いや、この非常時に死に逃げるつもりはないんですよ。ただ、その方が確実なので」
はは、とエレハルドは何でもないことのように苦笑を浮かべる。
ちょっとした罰ゲームを引き当ててしまったような何げなさだ。
むしろ、ここで死んでゲーティアに全ての責任を押し付けることになってしまうことに対して申し訳なさそうにすらして見せてている。
「私の魂に刻まれた『遠見』の術式を打ち消す方法ならあるんです。ですが、『遠見』の繋がりから『災厄』がすでに私の魂の在り方を感知している場合、術式が消えても私自身を探してこちらに来てしまう可能性があるんです」
「…………」
エレハルドの魂には、『災厄』を監視するための『遠見』の術式が刻まれている。
今のところ、『災厄』はそのエレハルドとの繋がりを辿っている。
それは細く長い糸を少しずつ手繰る作業に似ている。
『遠見』の術式を切るというのは、その糸を切るということだ。
そうなれば、『災厄』は糸を辿ってエレハルドに辿りつくことは出来ない。
だがもしも、『災厄』がエレハルドの魂のありようを、そのか細い魔力の繋がりから既に見出していたのなら。
『災厄』は見知ったエレハルドの魂の形を探す、という方法でこの世界に渡ってくる可能性がある。
だからこそ、エレハルドは少しでも可能性を低くするためにも魂ごと消す方法を選ぼうとしている。
「だが、卿が死んだとしてすでに卿の在処としてこの世界が認識されていた場合、卿の死は無駄なものとなるぞ」
「その可能性も、あります。ですが、ここで私の命を惜しんでこの世界を危険に晒すよりはここで最小の犠牲を払うのが最善かと」
「…………」
それは少しだけおかしな会話だった。
世界のために犠牲となってくれとゲーティアがエレハルドを説くのではなく。
犠牲となるエレハルドが、ゲーティアに己が犠牲となることの意味を説いている。
「だから、私はここで退場します」
ちらり、とエレハルドは魔法陣へと視線を向ける。
すでに儀式の間を満たした魔法陣の変化はここからは確認できない。
だが、おそらく今も世界を覆うべく広がり続けているはずだ。
この術式こそが、エレハルドが現時点で出来る最大の守りだ。
やれることはやった。
遺せるものは遺した。
後は、魂の痕跡ごと『遠見』の術式を消すだけだ。
エレハルドは、は、と小さく息を吐いて杖を強く握りしめる。
そして、ゲーティアへと背中を向けた。
覚悟は決まっている。
だから、最期の瞬間まで怯むことなく自分のやるべきことをやるつもりではいる。
けれど、もしも万が一、最期の一瞬に少しでも死にたくないと思ってしまったら。
ほんの少しでも生への執着を見せてしまったら。
そんな姿をゲーティアに見せることが、エレハルドには我慢ならなかった。
細やかな意地だ。
あくまでも最期まで冷静な、賢人の長として相応しい姿でありたいと思ったのだ。
それなのに、ゲーティアは低く静かな声でエレハルドへと問うた。
「ご家族に、連絡を取らなくても良いのか」
「―――」
この野郎、と低く罵るような声が漏れそうになるのをエレハルドは唇を噛んでなんとか堪えた。
それは、為すべきことを為すためにエレハルドが考えないようにしていた事だ。
自分の死はまだ受け入れられる。
自分の命を犠牲にして世界を守ることに対しては平静でいられる。
だが、エレハルドの死がその両親に残すであろう傷には、その痛みには平気ではいられない。
己自身が被害者になる分には、構わないのだ。
それが自分で決めたことであるのなら、どんな傷も、犠牲も、エレハルドは耐えられる。
だが、そのつもりもなく誰かを傷つけるのは、どうしたって心苦しい。
それがエレハルドにとって大事な人間ならなおさらだ。
そもそもこの年になっても独り身でいたのは、こういう結末を迎えうることを常に頭の片隅に置いていたからだ。
もしも妻が、子供が、愛すべき人がいたならば、エレハルドはいざというときに己の身の保身を考えてしまったかもしれない。
先ほどゲーティアが口にしたように、『遠見』の術式だけを消して様子見をするという選択肢を選んでいたかもしれない。
それが怖かったから、エレハルドは独りを選んだ。
生涯をかけて『災厄』と見つめあう人生を選んだ。
だから、自らの命ごと『遠見』の術式を消しさるというより確実にこの世界を守るための手立てを取ることが出来た。
それ、なのに。
「…………」
『遠見』の術が不完全なおかげで暗く静かな眼裏に、年老いた父母の顔が浮かぶ。
エレハルドが賢者の長として選ばれたことを家族の誉れだと無邪気に喜んでくれた姿と、その後窶れいくエレハルドに何故止めなかったのかと悔やむ姿と。
両親には、喜んだままでいてほしかった。
息子のあり方を誇りに思ったままでいてほしかった。
そう出来なかったのは、エレハルドの弱さだ。
『災厄』と繋がるという重圧に負けたエレハルドの弱さが、両親を悲しませた。
だから、エレハルドは両親とも距離を置いた。
それ以上悲しませたくなかったからだ。
賢人の長としての役割を継いだ時点で、エレハルドは彼らの息子ではなくなった。
彼らの息子のままではいられなかった。
喉の奥に熱いものがこみ上げる。
震えそうになる声を凛と張る。
「構いません」
「――…そうか」
返事は短かった。
ゲーティアに、押し殺した声の震えは見抜かれなかっただろうか。
エレハルドは振り返って確かめたいような気持ちになるのを堪える。
もし、振り返って。
ゲーティアがエレハルドを憐れむような顔をしていたならば、きっとこのぐちゃぐちゃな感情に歯止めが利かなくなる。
エレハルドは静かに息を吐く。
もう、振り返らない。
やることは決まっている。
為すべきことは決まっている。
そう自分に言い聞かせながら、エレハルドは杖に意識を重ねる。
一刻をも争うこの時に、これ以上迷いたくはなかった。
後ろ髪を引かれる気持ちを振り切って、むしろそんな未練から逃れようにエレハルドは己を殺すための術式を編む。
人は、自らを殺そうとするとき、自然と怯むものだ。
十の力でもって己を殺せる人間は少ない。
だからエレハルドは、目の前の杖に己の命を重ねる。
―――この杖は、我が身。我が命。
愛用の杖に己の命を託し、そこに死のイメージを引き寄せる。
殺すのは己ではなく、杖。
そんなオブラートを一枚挟むだけで、術式が十全に働く。
枯れる。
萎れる。
尽きる。
腐る。
崩れる。
幾重にも重ねられる呪詛に杖が先端から色を変え、生気を失い、からからと乾燥してパラパラと土に還って水に溶けていく。
それに合わせて、視界が緩やかに霞む。
手足が重い。
身体の末端の感覚が遠い。
音が聞こえなくなる。
匂いがしなくなる。
足元を浸す水の冷たさが。
額に降る光の熱が。
全てがなくなって、エレハルドと外界の輪郭が曖昧になって――手の中にあったはずの杖の感覚がぼろりと崩れて土塊と変わるのと同時に、エレハルドの世界は暗転した。
「…………?」
俺は小さく首を傾げた。
手繰っていた気配が、消えた。
幾つもの異界を超えて、次元の狭間にて俺は立ち往生する。
これは困った。
帰る場所はわかっている。
陽海の元へなら帰ることが出来る。
だが、ここまで来たのならば俺はあの気配の正体を知りたい。
さて、どうしようか。
少しだけ考えて、決めた。
消えてしまったのなら、戻せばいい。
アレが何なのかはわからない。
アレの正体を知るのは後回しだ。
仕組みも、理屈も、全部すっ飛ばしてしまおう。
ただ、俺が知る状態に戻してしまえば良い。
「ッ、………は、」
まるでしばらく息を止めていたことに今この瞬間気づいた、というようにエレハルドは小さく息を吐いた。
そして、自分が呼吸をしているという事実にぎくりと身体が強張る。
急激に五感が戻ってくる。
半身がじっとりと冷たい。
ひたひたと水が布を浸し、肌にまで届いている。
どうやらエレハルドは儀式の間に倒れているらしかった。
だが、どうして。
あの瞬間エレハルドの呪詛は確実に己の生命活動を止めたはずだった。
それなのに、どうして。
あの場にいて、それを阻めるような者がいたとしたらゲーティアだけだ。
くらくらと眩むような怒りに突き動かされて、エレハルドは重い瞼を持ち上げる。
「一体、何故……!!」
こんなことを、と罵りかけた声は喉の奥で潰れた。
ゲーティアは、確かにエレハルドの傍らにいた。
倒れたエレハルドの頭の下に膝を差し入れるようにして、半身抱き起こすような態で
ゲーティアはエレハルドを見下ろしていた。
だが、その顔を見てエレハルドは己の見当違いを思い知っていた。
静かな、冷徹な印象すら人に与えるゲーティアのその双眸に浮かんでいたのは、明らかな恐怖と動揺の色だった。
「ぁ――…」
その色に、理解した。
わかってしまった。
エレハルドは、失敗したわけではない。
確かにあの瞬間エレハルドは自らを殺すことに成功した。
そして、ゲーティアもまた確かにそれを見届けた。
阻んだのは、『災厄』だ。
かの『災厄』は、この世界への手がかりであるエレハルドを失うことを良しとしなかった。その事象を赦さなかった。
一度止まった心臓を。
枯れ、萎れ、尽きて、腐り、崩れた命の形を、再生して見せた。
エレハルドは『災厄』の手から死をもってすら逃れることは叶わなかった。
もはや、死ぬことすら許されていない。
これほどの力を語るのに、もはや『災厄』などという言葉は生ぬるい。
神だ。
神話で語られるに相応しい御業だ。
エレハルドは、ゆっくりと身体を起こす。
今この世界を覆おうとしている術式も、『災厄』を前にしてはただの児戯に等しい。
『災厄』を阻むことはおろか、目隠しにすらならないだろう。
『災厄』は必ずここに来る。
必ず、エレハルドを見つけ出す。
これほどまでに圧倒的な力の差を前に、エレハルドら人に出来ることはない。
おとなしく頭を垂れ、恭順を示し、慈悲を乞うことしかできない。
「ゲーティア殿」
ゆらり、とエレハルドは幽鬼の如き様相で立ち上がる。
否、一度確実に死んだのだから、まさにその通りなのかもしれなかった。
「至急、離れの迎賓塔の支度を。私は、そこで『災厄』を迎えます。また、これより陛下、クレシオラス・エルデ・ディズーリアの皇帝権限を剥奪。私、エレハルド・ウル・アレンシアが第八代アルテイト帝国皇帝、エレハルド・ウル・エルデ・ディズーリアとして緊急即位することをこの場にて宣言。その旨の通達もお任せします」
「―――、」
エレハルドの宣言に、ゲーティアは口を挟まなかった。
ただ静かに、御意、と小さく答えた。
これは、決められた手順だ。
『災厄』に対峙する人間が賢人の長とはいえどただ人であってはならない。
ただ人の命など、『災厄』にとっては無為だ。
いや、王の命であったとしても、『災厄』にとっては大した意味など持たないのだろうが。
それでも、いざというときに差し出す首が軽くては面目が立たない。
「それと、身支度を整えるための人をよこしてもらえますか」
硬い声音でそう言って。
それから、エレハルドはへにゃりと眉尻を下げて、苦笑を浮かべた。
「どうにかこうにか、見た目だけでも皇帝らしく仕上げてもらわないと」
エレハルドは、迎賓塔の最上階に設けられた空中庭園にてその時を待っていた。
辺り一帯には庭師が丹精こめて育てた美しい花々が咲き乱れ、新緑の若葉を色鮮やかに彩っている。その背後に広がるのは、透けるような美しい青空だ。もう何歩か前に進めば、眼下にはある種の芸術として完成された王城と、それを取り囲む栄えた城下街がたおやかに横たわっている。
迎賓塔、アウルリュラ。
それがこの塔の正式な名だ。
迎賓塔の名に相応しく、この塔は主に国外からの客人を迎えるための場所として管理されている。端的に言ってしまえば、アルテイト帝国の権威を見せつけるための塔だ。
例えば、イズミアル神聖王国の者がこの庭園を訪れたのなら、さりげなく咲き誇る花々の中にイズミアル神聖王国内でよく見られるルミアナの花が咲いているこに気づくだろう。故郷の花で迎えられる気遣いに感心した次に、きっとその人物は気候の異なるアルテイト帝国にてその花を咲かせるための手間を思うことだろう。
それが、アルテイト帝国の思惑だ。
客人を迎えるためにそれだけのことをするだけの余力がアルテイト帝国にはあり、またそれだけの技術と知識を持った人間がいることを見せつける。
そういった仕掛けがこの塔にはふんだんに用意されている。
――とはいっても、今からエレハルドが迎えようとしている相手にはそれが通用するとも思えないわけだが。
涼し気な陰を作る四阿の下に佇み、エレハルドは『災厄』の再臨を待つ。
身に纏うのは、アルテイト帝国皇帝としての装束だ。
豪華に金糸銀糸を織り交ぜた深みのある藍は、本来ならば皇帝にしか着ることを許されない色である。普段は跳ね散らかる栗色の癖ッ毛も、今は丁寧に櫛で撫でつけられ、その上には皇帝であることを示す金細工の冠が乗せられている。
こうしていれば、確かに権威ある皇帝のように見えないこともないのだから、馬子にも衣装とはよく言ったものだ。
エレハルドは小さく息を吐く。
周囲に他の人間の気配はない。
何が『災厄』の気を損ねるかわかったものではないのだ。
その咎を受けるものは少ない方が良い。
すぐ下の階では客人を過不足なく持て成すのに必要な少数の女官と兵士が控えており、その他の人間はすべて離宮へと避難している……はずだ。
そのあたりの指揮はゲーティアが取っている。
今頃はもう各国への通達も済んでいる頃だろうか。
「―――……来た」
小さく、呟く。
未だ空に異変は見られない。
だが、魔術師としてのエレハルドの第六感はすでに悍ましいほどに強大な『災厄』の魔力を感知している。
まるで空が堕ちてくるかのような圧。
青く、蒼く、澄んだ空にエレハルドの編み上げた術式が浮かぶ。
一瞬の均衡。
こちらの世界へと侵入しようと試みる相手に抗えたのはほんの一瞬だ。
ぱちんと呆気なく空を覆う術式は破れ、無残な塵となって世界に散る。
ぱらぱらと降り注ぐ術式の破片が、まるで光の雨のようだった。
そして―――
エレハルドの目の前に、そのイキモノは静かに降り立った。
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