襲撃1
陽海の部屋に、ちょっと変わった同居人が増えたのはしばらく前のことだ。
新年が明けて、しばらくして。
陽海は、周囲が未だ新年の浮ついた空気を漂わせる中淡々と日々を送っていた。
年始年末といえど特別なことは何もない。
せいぜい、年の暮れにコンビニでインスタントの年越しそばを買ったぐらいだ。
今年の正月、陽海は実家には戻らなかった。
別に、両親と仲が悪いわけではない。
電話でもしばしば話すし、母の日や父の日、両親の誕生日には欠かさずちょっとしたものを送ったりもしている。
ただきっと、陽海は、ほんの少しだけマイペース過ぎるのだと思う。
陽海は、一人でいることが平気だった。
一人カラオケなんて言葉が一般的になる頃には、一人外食は一通りマスターしていたし、一人でふらっと居酒屋に立ち寄って食べたいものを食べたいだけ食べたいペースで美味しくいただいて帰る、なんてことも平気だった。
むしろ、陽海には一人では外食にいけない、という人の感覚がよくわからなかった。
もちろん、誰かと一緒に時間を過ごすのが楽しいという気持ちはわかる。
陽海にだって友達はいる。
友達と一緒に過ごす時間は好きだ。
そして同じぐらい、陽海は一人で好きなことをして過ごす時間が好きだった。
陽海の友人のほとんども、そんな陽海の考え方を尊重してくれるし、陽海の友人たちもまた一人でいることが平気な種類の人間だった。
例えば、陽海には好きな映画監督がいる。
その映画監督の作品が公開されると、陽海は必ず映画館に見に行く。
そういうときに陽海は友人を誘ったりもする。
それは一人で見に行きたくない、というよりも、その映画の良さを自分以外の人にもわかってほしい、感動を分かち合いたい、という気持ち故だ。
が、だからといって都合よく友人が付き合ってくれるとは限らない。
映画の内容が友人たちの興味を引かないこともあるし、友人たちには友人たちでその時それ以上に情熱を注いでいることがあったりもするからだ。
友人たちに断られれば、陽海は一人で映画に行く。
そして、一人で映画を存分に楽しむ。
逆のことも、よくある。
友人に誘われた際に、気が向けば陽海は乗るし、それほど興味を引かれなければパスをすることもある。
そこはお互いさまだ。
一人でも、いろんな物事を楽しめる。
だから、陽海は一人だった。
一人で、暮らしていた。
一人で暮らしていても、部屋の中に閉じこもっていても、陽海はいつだって外の世界と緩い繋がりを持ち続けていた。
密な付き合いではないのかもしれない。
それでも、繋がりは繋がりだ。
だからこそ陽海は安心して一人でいられた。
そうして、暮らしてきて。
そうして、生きてきて。
ある日、陽海はベランダで未知との遭遇を果たした。
何か物音がしたような気がして、覗きこんだベランダにその生き物はいた。
闇の中でもなお、微かな光源を弾いてぬらりと光る漆黒の鱗。
艶の輪郭にはグリーンの強い虹色が滲み、まるで黒真珠のようだ。
そしてその鱗が黒真珠であるのなら、陽海をまっすぐに見上げるどこか愛嬌のあるくりっとした双眸は無数の美しい星が散るブラックオパールだ。
美しい宝石だけで作りあげたような見たことのない生き物が、陽海の部屋のベランダで途方に暮れたように佇んでいた。
「……、すごくきれい」
思わず、吐息とともに言葉が零れ落ちる。
大きさは、小型犬程度、だろうか。
見た目は、陽海が知っている生き物の中では、という注釈をつけるのなら、トカゲによく似ていた。
思慮深い眼差しが、まっすぐに陽海を見上げる。
何故だか、隠し事など出来ないような気がした。
陽海の考えていることなど、すべて見通されているような。
だから、陽海は思っていることを素直に口にすることにした。
「私んちのベランダにでっかいトカゲがいる…………」
それが、陽海と彼の出会いだった。
初対面において、彼のことを「でっかいトカゲ」と称した陽海ではあったものの――…彼がただのトカゲではないことはすぐにわかった。
背中にはドラゴンめいた羽が生えていたし、彼はそのうち陽海に対して人の言葉で語り掛けるようにもなったからだ。
少しだけ、マズったなあ、と思った。
未知の存在である彼を恐れたわけではない。
陽海が恐れたのは、他者を自分の生活の中に招くことだ。
それにより、これまでの陽海の快適な日常を乱されるかもしれない、ということだけが気がかりだった。
陽海は、これまで一人で暮らしてきた。
一人が心地よかった。
陽海にとって一人暮らしの部屋は陽海の城で、そこに他人が交わるなんてことは今までなかった。たまに友人が訪ねてくることはあったものの、どれほど親しい友人といえど生活を共にすればそれなりの気遣いが必要になる。
たまに、であれば構わない。
けれど、それがずっと続くのだと思うと陽海は自らの生活に他者を迎えることに対して積極的にはなれずにいたのだ。
けれど、なし崩し的に始まった彼との共同生活は陽海が思った以上に上手くいっていた。
彼と一緒に食べるごはんが美味しい。
何を食べても珍しがり、喜んでくれる彼と一緒だと、食べ慣れたはずのものが陽海にとっても新鮮に感じられるのだ。
帰宅したときに、「おかえり」と言ってくれる声もまた嬉しい。
陽海は大学への進学をきっかけに一人暮らしを始めた。
そろそろ一人暮らし歴も十年の大台に乗る。
実家にいたころは習慣のように口にしていた「ただいま」の一言を、最近めっきり言わなくなっていたことに気づかされたのも彼と暮らし始めてからのことだ。
久しぶりに声にだした「ただいま」と、それに応える声に胸の中がほっこりと温かくなった。
今日も、陽海が帰ったら彼は「おかえり」といって迎えてくれるだろうか。
そんなことを思いながら、陽海は夜道を急ぐ。
今日は週に何度かある、出勤日だ。
仕事についての打ち合わせが長引いて、すっかり遅くなってしまった。
時間的にはまだ22時を過ぎた頃合いなのだが、この時間帯になると住宅街からは驚くほどに人の姿がなくなる。
――と、そこで。
じじっ……じじっ………
羽虫の羽ばたきのような音をたてて、進行方向にある街灯がちかちかと点滅していることに気づいてしまった。
灯る光はもう随分と弱弱しくなっていて、次に消えたらもうそのままになってしまいそうなほどだ。
その光景に、陽海が昨夜見たホラー映画のワンシーンをすぐさま連想してしまったのは当然と言えるだろう。
あまりにもシチュエーションが似すぎていた。
映画だと、あのチカチカと今にも力尽きそうに瞬く街灯の下に、薄気味悪いモンスターのシルエットがぼんやりと浮かび上がるのだ。
そんなことを考えて、いやいやまさか、と否定して進めかけた歩がぴたりと止まる。
――…アレは、何だろう。
チカリ。チカリ。
暗から明へ。
切り替わる瞬間、微かに、うっすらと、光に一瞬だけ何かの足が見えたような気がした。
「いやいやいやいやいやいや」
自分に言い聞かせるように声に出すものの、足裏はまるで縫い付けられでもしたかのようにアスファルトを踏みしめて動こうとしない。
理性よりも早く、身体が危機感を察してしまったかのようだ。
チカリ。
薄闇に地面に立つ四足が見える。
野良犬、だろうか。
それにしては大きすぎる。
それにしては不鮮明すぎる。
まるでこの世のものではないかのように、チカリチカリと瞬く光の下に浮かび上がる獣の姿は不明瞭だった。
胴に繋がっているのだろう、と思われる部分から先が見えない。
街灯の下に何か四足の巨大な獣がいるのに、その足だけが見えているような不自然さだ。
そろそろと街灯の下にいるように見える獣を刺激しないように最低限の動きで陽海は目元を擦る。
何かの見間違いならこれで消えてくれないかと思ったのだが、手を下ろした先にも獣の足は未だ消えずに残っている。
何か悪趣味な悪戯だろうか。
誰かがよくできた偽物の獣の足を、街灯の下に設置でもしたのだろうか。
じゃ、り。
そんな現実逃避を嘲笑うように、獣の足が一歩前に出た。
爪を備えた足裏がアスファルトを踏みしめる音が響く。
ぞわり、と一気に背中が冷たくなった。
五感のうち、一つが陽海を騙そうとしているならまだ良い。
何かおかしなものが見えているだけならば、見間違いだ、幻覚だと自分に言い聞かせることが出来る。
けれど、幻覚の動きに合わせて音までしてしまったら、ダメだ。
急に、馬鹿げた幻覚が現実味を帯びる。
陽海に危害を加えうる現実の災難として危機感が増す。
得体の知れない脅威を前に、頭の中が真っ白になる。
大声を出したら、近隣の住民が気付いてくれるだろうか。
こういう時、警察に電話しても良いのだろうか。
自分の見ているものがそもそも自分でも信じられないというのに、それを誰かに説明できる自信がない。
もしも声をあげて、人を呼んで、あの獣が陽海の目にしか見えていないモノだったら?
陽海は、目に見えない何かを見て騒ぐ要注意人物としてこのあたり一帯の人たちに認識されてしまうことになる。
そうなればこれまで通りの生活を続けるのも難しくなってしまうのではないだろうか。
「……っ」
陽海は小さく息を吐いて、ぎゅ、と手を強く握る。
彼と一緒にのんびり近所を歩いて回るお散歩。買い食い。買い物。
そのどれもが、陽海にとっては守りたい大事な日常だ。
――と、そこで陽海はハッと気づいた。
いや、思い出した。
『トカゲさん、あの映画のモンスター出てきたら、トカゲさん勝てます?』
『勝てると思う』
『なら安心ですね』
『任せてほしい』
そうだ。
陽海には、彼がいる。
陽海の言うことを信じてくれて、この状況をなんとかしてくれそうな彼が。
陽海はカバンの中からスマホを取り出すと、Skypeを起動する。
そして――…彼に通じる通話ボタンを、押した。
陽海が遅い。
もともと今日は遅くなるかもしれない、と言ってはいたものの、本当に遅い。
外はもう真っ暗だし、時計の長針もすでに10を過ぎている。
そわりそわりとする気持ちを宥めながら、俺は手元に開いたままの本のページをぱらりとめくり――…プーパーペーポーポー、と俺を呼ぶ電子音が聞こえたのはちょうどそんな時だった。
音は、パソコンから響いている。
俺はこの音を知っている。
外にいる陽海が、俺と連絡を取れるように、と用意してくれたものだ。
ばさりと羽ばたいて、パソコンの前まで移動。
パソコンを操作するならば、人の形の方が都合が良い。
椅子に座りながら右手でマウスを操作し、左手でスタンドマイクを手元に寄せる。赤い通話ボタンをぽちり、とクリックすると同時に、ざざりとノイズ混じりの音が聞こえ始めた。
『……っ、……』
陽海の荒く弾む息遣いが聞こえる。
「陽海?」
『……ッ! トカゲさん!? 良かった、繋がった!!』
機械を通して響く陽海の声は、なんだか酷く焦っているようだった。
その声音に滲む緊迫の色に、ちくちくと心が不安にささくれ立つ。
「陽海、どうかしたのか。大丈夫か」
『今、近くにいるんですけど、何かヘンなのがいて……!』
「変なの?」
『助け……あッ!!』
陽海の短い悲鳴と同時に、ガシャンと耳障りな音がしてその声が途絶える。
「陽海! 陽海!」
呼びかけても返事はない。
陽海とのつながりが、途絶えている。
以前陽海に教えられた通り、俺の方から陽海へとかけなおしても見るものの、陽海は応えない。
「―――」
陽海は、近くにはいると言っていた。
それなら。
俺はがらりとベランダへと続く窓ガラスを開けると、外に出た。
陽海を探す。
探す。
探す。
陽海の気配なら、よく覚えている。
姿形も、柔らかな体温も、俺を呼ぶ声も。
探すのに必要な条件は、全て揃っている。
「――見つけた」
すぐ、近く。
このマンションの、すぐ横の路地だ。
そして、確かに陽海の傍には変な気配があった。
ざらざらと掠れた不完全な気配。
それが、陽海を追いかけている。
そこまでわかれば十分だった。
俺はトンと地面を蹴り、次いでベランダの手すりを蹴って空へと飛びあがる。
背から生じるのは皮翼だ。
ばさりと羽ばたき、風を切る。
「もう……ッ!」
いろんな意味で陽海は泣きそうだった。
スマホを取り出して、彼に連絡をしようとしたところまではうまくいっていたのだ。
彼に助けてもらう。
そこまでは良い考えだった。
けれど、陽海のスマホが彼へと鳴らしたコール音を聞きつけたのか、街灯の下にいた得体の知れない獣が動き出してしまったのである。
背後から迫る足音から逃げるように走りだして、そんな中で彼へと助けを求めた。
そして。
その直後、陽海は見事にすっころんだ。
職場への出勤だからと、珍しくヒールのある靴を履いていたのが敗因だ。
いつも通りのスニーカーだったなら、逃げ切れたかもしれないのに。
手にしていたはずのスマホは、転んだ拍子にどこかへ行ってしまった。
ガシャン、と厭な音を聞いた気がするので、もしかしたら壊してしまったかもしれない。
修理代も馬鹿にならないのに!!!
なんて悲鳴を心の中であげる。
転んで思い切りアスファルトに打ち付けた膝も死ぬほど痛いのに、そんなお財布に受けるダメージのことを考えてしまったのは、この未だに信じられない現実から逃避するためなのかもしれない。
踏んだり蹴ったりだ。
じわりと眦に熱いものが滲む。
それでもなんとか立ち上がろうとする。
膝に赤いものが滲んではいるものの、動く。
まだ、動ける。
逃げられる。
再び走り出そうとして、その間際、何かに誘われたように背後を振り返って、ひッ、と小さな悲鳴が喉奥で潰れた。
そこにいたのは、バケモノだった。
形としては、陽海が最初に足から想像したように犬に似ているかもしれない。
もさもさと生えそろった豊かな毛並み。
色はくすんだ黒だ。
は、は、と息を弾ませ、緩く開かれた口元からはぼたぼたと唾液が滴っている。
だがしかし、その生き物は陽海が知るどの犬よりも大きかった。
全長で言うなら、馬サイズとでも言えばいいのだろうか。
そして何より異常なことに――バケモノと呼ぶのに相応しいことに――、その獣は穴だらけだった。
まるでレンコンか何かのように、その生き物には無数の穴があった。
イキモノの身体に、ぽっかりと空いた穴。
穴の向こうには、ごくごく普通に景色が見えている。
動物の写真に、無造作に穴あけパンチで穴を空けたかのような。
陽海の目には致命的に映るそんな欠落を帯びたイキモノが、自らの不具合に気づいてすらいないかの態で陽海の後を追ってくる。
「ア”……ア”ア”………」
ぼたぼたと涎を落とす獣の喉から零れるのは、濁った人の声のような音だ。
琥珀色の双眸は硝子玉のようで、陽海を見ているのかどうかも定かではない。
どこからどう見ても、立派なバケモノだ。
穴だらけのバケモノが、地面にへたり込んだままの陽海の元へと距離を削る。
覆いかぶさるように陽海へと顔を寄せる。
ぽた、と滴った唾液が陽海の腿の間に落ちる。
「……っひ、」
嗚咽めいた悲鳴が勝手に零れる。
恐ろしくて目を閉じたいのに、魅入られたかのように目がそらせない。
呆然と見上げる先、ぼこりぼこりとバケモノの顔に空いた穴の向こうに月が見える。丸い、月だ。煌々と輝く、白い月。
そして――…そんな月に、翳りがさした。
「――あ」
影は、あっという間に大きくなる。
ぱち、と陽海が瞬いた次の瞬間には、何かとんでもなく大きな音がして陽海の上に覆いかぶさっていたバケモノの姿が真横へと吹っ飛んでいった。
代わりにトン、と陽海の前に降り立ったのは見知らぬ男だ。
いや、見知らぬわけでもない。
背に生えた黒々と大きな羽には見覚えがあるし、鋭い爪を携えた男の下肢を覆う鱗の色合いにも馴染みが深い。
月明かりを弾く艶にトロリと滲む虹色。
「ト、」
「陽海、無事か」
トカゲさん、と呼びかけるより先に、その腕の中にひょいと抱き上げられた。
ぎゅうぎゅう、と陽海の無事を確認するように抱きしめる腕の力が強い。
声を荒げてこそいないものの、彼の声には切迫した焦りと、不安が強く滲んでいる。
陽海は彼のそんな声に弱い。
安心させてやらなければ、と思ってしまう。
大丈夫ですよ、と言いたくなる。
が。
が。
見上げる。
陽海を見下ろす男の顔は、酷く端正だ。
目元に浮かぶ黒い鱗すら、男を飾り立てる宝飾品のように見える。
彫りの深い顔だちは表情が薄く硬い雰囲気を漂わせているものの、まっすぐに陽海を見下ろす星空を閉じ込めたような色合いの双眸にはわかりやすく不安が滲んでいる。
「陽海」
応えを欲しがって、彼が陽海の名を呼ぶ。
低い声音が切実さに掠れる。
大丈夫だと、応えてやりたいのは山々だ。
だが、現状陽海はこれまでの人生で遭遇したことのないようなイケメン(※ただし下半身はドラゴン)(※ただし背中に羽生えてる)に抱きしめられているのである。
断じて大丈夫ではない。
大丈夫ではない。
大事なことなので二度言いました。
「―――ええ、っと」
時間を稼ぐように、特に意味のない言葉を声に出す。
それに応じるように、傍らから濁った不明瞭な呻き声が響いた。
「ぁ"………ゥ……ぁ”あ”………」
「……ッ!」
ようやく、脳の再起動に成功したような気がする。
「ト、トトトト」
「トトトトト?」
律儀に彼が復唱する。
違う。そうじゃない。
「トカゲさん!」
「はい」
「アレなんですか!」
「なんだろう」
「えっ」
彼にもわからないらしかった。
のんびりと首を傾げている。
そんなわけのわからないバケモノが未だ目の前にいるというのに、先ほどまでの恐怖がすっかり失せているのは彼が傍にいてくれているからなのだろう。
「陽海にも、見えるのか?」
「見えます……って、もしかして前々からトカゲさんが何もないところをじーっと凝視してたのってコレが見えてたんですか!?」
「いや、コレではないが。似たようなのが」
「…………」
思わず陽海の眉間に皺が寄る。
今まで自分には見えていなかったとはいえ、コレに似たものが自分の部屋にもいたのかと思うと今さらながらに薄気味悪くなる。
ソレは地面に叩きつけられたまま起き上がることも出来ずに蠢いている。
だというのに、吠えるでも鳴くでも悲鳴をあげるでもなく、変わらず人の声に似た不明瞭な呻き声を上げ続けているのが何より不気味だった。
その動きが、次第に緩慢になっていく。
そして、まるでぷつりと糸が切れた操り人形のように動かなくなった。
「…………死にました?」
「…………」
でろり。
「ひえ!?」
地面と接した面から、バケモノの身体が溶けていく。
黒いドロドロとした液体になって地面に広がったバケモノは、そのまま液溜まりの端からうっすらと色を薄くして消えていった。
後には何も残らない。
陽海と、彼が残るばかりだ。
じ、じじじ。
先ほどまで不安定に点滅していたはずの街灯までが、何事もなかったかのように再び明かりを灯す。
春先の風がふわりと吹き抜ける。
薄暗い住宅街。
いつもの夜道だ。
「陽海、帰ろう」
「はい……って、トカゲさん!?」
「ウン?」
はい、と頷いたときにはばさりと羽ばたく音と同時に陽海は頬に風を感じていた。ふわりと身体にかかる浮遊感。
陽海は、空を舞っていた。
幼い頃アニメやら何やらで見て憧れていた空中散歩だ。
慌てて周囲を見やるものの、静かな住宅街に人の姿はない。
おそらく、誰にも見られてはいないのだろう。
高度が増すにつれ人に見られる危険性は上がるが――…暗い夜空に何か浮かんでいるようだ、とは気づいても、まさか半人半ドラゴンの男が女を抱いて空を飛んでる、などとは思うまい。
時間にして、ほんの数分。
まるで魔法のように、あっという間に陽海は自室のベランダに到着していた。
「――……」
足の裏に、地面の固い感触があるのが不思議なぐらいに、気分がふわふわとしている。
未だ夢の中にいるかのようだ。
ベランダで靴を脱いで、部屋へと上がり――…かけてぴたりと止まる。
「トカゲさん」
「はい」
「アレ、いませんよね?」
「いない」
「良かった」
安心して部屋へと上がる。
そして、彼が入ってくるのを待とうとして、彼が部屋に入る気配がないことに気が付いた。
「トカゲさん?」
振り返った先、ふと彼の視線が陽海の膝に落ちる。
あのバケモノに追われいる際に、転んで強かに打ち付けた膝は、今も血の色を滲ませている。
痛まし気に彼は眉間に皺を寄せて、陽海の足元に跪いた。
ふ、と彼の手のひらが傷口の表面を触れるか触れないかの位置を過ぎる。
彼の体温を微かに感じた、と思った次の瞬間には、じくじくとした膝の痛みがすっかり消えていた。
「え」
視線を落とすと、ついほんの数瞬前まで血を滲ませていたはずの傷口がすっかり癒えている。
痕跡すら、残っていない。
「すごい」
そんなシンプルな言葉しか言えない陽海に、彼は小さく笑ったようだった。
「陽海」
身体を起こした彼が、陽海の名を呼ぶ。
「俺はちょっと、出かけてこようと思う」
「どこに、行くんですか?」
「よくわからない。ただ、アレのいたところだ」
「アレのいたところ」
アレ、というのはあの薄気味の悪いバケモノのことだろう。
つい先ほどの不気味な末路を思い出して、つい眉間に皺が寄る。
「わかるんですか?」
「わかる」
こっくりと彼が頷く。
人の姿をしていても、そんな仕草はミニドラゴンだった頃と変わらなくて、なんだか陽海は小さく笑ってしまっていた。
「たぶん、なんだが。アレは、俺を探しているのだと思う」
「トカゲさんを?」
「ウン。こう、……俺と、何か近いものを感じる」
「いや、全然似てませんけども」
力いっぱい否定する。
彼とあのバケモノの共通点といったら、陽海の知る限りの常識の外にいる、という一点だけだ。
それ以外は似ても似つかない。
「ンー……、でも、たぶん。俺とアレは、同じところから、来た、ような、気が、……?」
「なんでトカゲさんが自信ないんですか」
表情の乏しい整った顔立ちの、眉尻が微かに下がっているような気がする。
陽海としても、別段彼を困らせるつもりはないのだ。
だけど。
ただ、だけど。
――…彼が遠くに行ってしまってそのまま帰ってこなかったら、と思うと、一人暮らしの気安い自由を喜ぶより先に、胸が潰れるような寂しさを感じてしまったのだ。
ゆっくりと伸びてきた彼の手が、そろりと陽海の頬に触れる。
温かな、大きな手だ。
ここ数か月の間、常に陽海のそばにいてくれた温もりだ。
「アレは、陽海を傷つけたし。陽海を怖がらせた」
低い声音に滲むのは、ふつりと滾るような、それでいて静かな怒りだ。
「だから、ちゃんと、話をつけてくる」
「――……」
きっと、何を言っても彼は行くのだろう、ということが陽海にもわかった。
「……トカゲさん」
「はい」
「…………ちゃんと、帰ってきます?」
「…………」
陽海の問に、彼が少し驚いたように瞬く。
「もちろんだ。だから、陽海」
するりと頬から離れる手のひらを追うように、陽海は視線を持ち上げる。
「行って、きます」
それは、陽海が彼に教えた言葉だ。
出かけるときの挨拶。
そう言われたら、
「行ってらっしゃい」
こう、返すのだ。
嬉し気に、彼の口元が緩む。
黒く長い尾も、上機嫌にのたりと宙で揺れる。
それから彼は陽海に背を向けると、トン、とベランダを蹴って再び空へと舞い上がった。
アレがどこから来たのかを陽海は知らない。
彼がどこからやって来たのかも、陽海は知らない。
どれくらい待てば彼が帰ってくるのかもわからない。
けれど、彼が行ってきます、と言って出かけるのなら、陽海はその帰りを待つだけだ。
「いって、らっしゃい」
もう一度、唇の中で小さく呟く。
月明かりを受けて小さく光を弾く彼のシルエットは夜闇に溶けるように、やがて静かに見えなくなった。
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