塩おにぎり
俺は、自分がいつ生まれたのかを覚えていない。
気が付いたら、俺は一人で荒野に立ち尽くしていて、なんだか腹の奥がきゅうと痛むような気がした。
それが、一番最初の記憶。
腹の奥が、きゅう、と痛んだ。
最初は、それが何なのかが俺にはわからなかった。
何故そんな風に感じるのかすら、俺には全くわからなかった。
今まで感じたことのない、不思議な感覚。
七転八倒するほどではないものの、気が付くときゅう、と痛む。
特にやることもないので、俺はその理解できない痛みを抱えたまま延々とその辺りを歩きまわってみた。
からっからに乾き、ひび割れた大地には他の生き物の形跡は全くなかった。
ただ、地平線まで同じ景色だけが続いていた。
それでも、何か違うものがあるかもしれないと思ったから、俺は歩くことを止めなかった。
止める理由がなかったので、歩き続けた。
どれくらい歩き続けただろう。
目の前にようやく変化が現れた。
足跡だった。
俺以外の何かがここにいる、と思うと嬉しくて、俺は早足にその足跡を追いかけた。
どれくらい、追いかけ続けただろう。
俺は唐突に理解した。
これ、俺の足跡じゃないか???
どうやら俺は、その世界を踏破して一周回って戻ってきてしまっていたようだった。景色が全く変わらないもので、気づくまでに時間がかかってしまったのだ。
それに気づいた瞬間、きゅう、と腹のあたりで悲鳴のような音がした。
驚いた。
自分の身体の中からそんな音がするとは思ってもみなかったのだ。
もしかしたら、音が鳴るのが妙な痛みの原因かもしれないと思った。
音が鳴る、というのはそれだけの隙間が体の中にあるから、なのだろう。
ならば隙間をなくせば音は鳴らなくなり、この妙な痛みもなくなるのではないかと閃いた。
ばりばりがりがり。
手あたり次第に周囲にあるものを齧って呑み込んでみれば、腹の奥できゅうきゅうと鳴いていた何かがおとなしくなったような気がした。
よし。
ぐるりと世界を一周する足跡に垂直になるように、俺は再び歩き出す。
今度は景色が変わった。
ぶすぶす、と変な煙を上げる沼があった。
手を浸してみると、少しピリリと痛んだ。
驚いて手を引いたが、二度目は全く痛まなかったので気のせいだったのかもしれない。どろりと濁った水面には、ぼんやりと映る影が見えた。
水中に何かいるのかと期待したものの、どうやら俺自身の影が映っているだけだったらしい。がっかりだ。
どうせならもっとよく見たいと思ったが、沼の表面からは絶えず煙が発生しているせいでそれは叶わなかった。がっかりだ。
腹がきゅう、と鳴いたので、とりあえずその沼の水を飲み干すことにした。
ごびごび。ごびごび。ごびごび。
腹の辺りがどんよりと重くなると、その代わりのようにきゅうきゅうとした痛みは薄れていった。
よし。
俺は何もない世界を見てまわりながら、腹がきゅう、と痛む度にその辺のものを口に入れた。
ばりばり。
がりがり。
俺の牙はどんなものでも噛み砕いたし、俺の爪はどんなものも抉り取ることが出来た。腹の中に物を詰めれば詰めるほど、そのよくわからない痛みは遠のくようだった。だから俺は、なんでも腹に詰め込んだ。
乾き、ひび割れた大地も、謎の煙を上げる沼も、変な色をした海も。
その世界にある未知を塗りつぶし、既知のものは片っ端から腹の中に詰め込んでいった。
ばりばり。
がりがり。
ごびごび。
気づいたら、俺のいた世界はすっかり空っぽになってしまっていた。
困った。
俺の立っている大地ぐらいしか残っていない。
困った。
これは困った。
腹がきゅうきゅうと鳴く。
何か、腹に詰め込まなければ。
何かで満たさなければ。
そんなわけで。
俺は随分長いことかけて喰らい尽くした世界の最後の一口を齧って終わらせた後、別の世界に移動することにした。
――ディズーリア歴345年。
初代ディズーリア王が建国してより345年、ルーテニル大陸の約六割を占める巨大帝国アルステイトはその日、未だかつてないほどの混乱に見舞われていた。
北方と東方の蛮族が手を組み、ラインダンスを踊りながら迫ってきたとしてもこれほどの混乱にはならなかっただろう。
「エレハルド様、駄目です、イズミアルの水鏡でも〝星喰い”、確認できません!」
「ええいっ、それでも神聖大国か!! エルティミアの観測機は!?」
「見失ったそうです!」
「ああもう!!」
完全にテンパった伝達担当官たちの声に、エレハルド、と呼ばれた男がぐしゃぐしゃと栗色の癖ッ毛をかき混ぜる。
「考えろエレハルド・ウル・アレンシア! 僕はアルテイト帝国を代表する最高位の賢人だぞ……!! こういうときに活路を見出してこそじゃないか!?」
そう呟く声音は周囲に聞かせるためのもの、というよりも己自身に言い聞かせるためのものといった意味合いが濃い。
「そうだ。そうだよ。僕は天才だし。大丈夫。大丈夫。ちょっとしたトラブルだって。魔素に乱れが生じて観測装置に揺らぎが発生してるだけだって。しばらくしたらちゃんと映るだろうし、〝星喰い”だっておとなしくしてるはずだs」
「エレハルド様それ現実逃避です!!!」
「知ってるよ!!!!」
悲鳴のような部下の声に、エレハルドがこれまた引き攣った声音で切り返す。
言われなくとも、それが現実逃避に過ぎないことは誰よりもエレハルドがよくわかっていた。
ぎゅ、と眉間に深い皺を刻んで目を閉じる。
いつもであれば牢獄世界とも呼ばれる異界が浮かぶはずの眼裏には、ただの闇しか浮かばない。ひたすらに暗く、まるでそこに何もないかのように黒一色で塗り潰されている。
いかに魔力を注いでも、浮かぶ色に変わりはない。
そして何度確認したところで、かつて牢獄世界と呼ばれていた世界に繋がっていたはずの魔力の糸が、今はただ空しく虚空を漂っていることを知覚するだけに終わるのだ。
エレハルドにとって、それは地獄だった。
目を閉じれば、当たり前のように眼裏には牢獄世界が浮かびあがる。
荒廃した草木の生えぬ乾いた大地。
見るからに有毒だとわかる濁った空気に、腐りはてた沼。
命を育むことなど未来永劫にあり得ないその空間に、滑りを帯びた漆黒の巨躯がのたうつ。
それは賢人たちによってエレハルドに授けられた祝福であり、呪いだった。
エレハルドは牢獄に閉ざされた怪物を見張る看守の一人だった。
長いことずっと、その地獄を見つめ続けた。
きっと死ぬまでそれが続くのだろうと、思っていた。
いつか、眼裏に刻まれた地獄から解放される日を、夢見てすらいた。
けれど。
けれど。
それがこんな形で実現することはちらっとすら望んでもいなかった。
「まさか僕の代で〝星喰い”が逃げ出すなんて……!」
呻く。
ぐしゃぐしゃにかき混ぜられた栗色の癖ッ毛は、すでに見るに堪えないほどに乱れきっている。
〝星喰い”
それは、かつてこの世界に生まれ落ちるはずだった災厄につけられた名前だ。
この世界を創ったと言われる女神、ズーィルガルシアがどんな気まぐれによってこの怪物を生み出したのかは、誰も知らない。
まるで、この世界を滅ぼすために生み出されたかのような『災厄』。
その『災厄』が生まれ落ちることを察知した偉大な魔術師たちは、『災厄』に備えるための賢人会議を招集したと言われている。
優秀な魔術師であり、司祭でもあった賢人たちは持ちうる知識のすべてを結集させた結果――…、何をどうしたところで、この『災厄』を倒すことは叶わないと悟った。
ならば『災厄』が生じる前に干渉してしまおう、という案も出た。
賢人たちはその『災厄』が生まれ落ちるに至る因果を丁寧に読み解き、運命の流れを変えようと試みた。
だが、それも徒労に終わった。
『災厄』が生まれ落ちるという予見を、賢人たちは変えることができなかった。
諦念が賢人たちを包みかけたとき、一人の魔術師が口を開いた。
いっそ、ここまで強固に『災厄』が生じることが運命づけられているのなら、それを利用することは出来ないか、と。
それは思いがけない発想の転換だった。
『災厄』がこの世界に生まれ落ちることが、そこまで確実な未来として約束されているのなら。
そしてやがて生まれ出るであろう『災厄』を殺すことが出来ないのなら。
ならば生まれ落ちたその瞬間に仕掛けることで、未だ『災厄』が目覚める前に、『災厄』をどこか遠くに封印することは出来ないだろうか。
賢人たちは、その案に賭けた。
これまでいかに『災厄』を避けるか、もしくは『災厄』を殺す方法を探すかに向けていた情熱は、それ以降『災厄』が出現するポイントを探すこと及び、『災厄』を転移させるための術式の研究へと絞られた。
転移のための術式に目途がついた後は、数ある異界の中から生物が生存するのに一番不適だと思われる場所を選び抜くべく賢人会議は紛糾した。
『災厄』を送り込む世界の条件はただ二つ。
ひたすらに過酷な環境であること。
そして他の生物が存在しないということ。
どれだけ過酷な世界であったとしても、そこにすでに他の生命体がいた場合は、『災厄』を送り込む先としては不適切とされた。
何故なら、『災厄』を送り込むことで世界間の戦争などにでもなれば、逆に困ったことになるからである。
やがて条件に叶う異界が選定され、『災厄』を迎える準備は万端に整った。
訪れた約束の日――…
多くの人々が恐怖とともに空を見上げる中、時空を捻じ曲げ、禍々しいほどに強大な魔力がこの世界へと顕現した。
それを迎え撃つのは賢人の名を背負う世界有数の魔術師たちだ。
一斉に唱えられた術式はまるで無数の羽虫の飛び交う羽音のように重なり響き、空には重たく幾重にも魔術紋様が刻まれた。
術式の負荷に耐え切れず、幾人もの魔術師が命を落としたとも言う。
それでも彼らは、顕現した『災厄』を封印するために己が命を燃料に術式を回し続け――…『災厄の誕生』を受け入れつつも、それと同義だと思われていた世界の滅亡を回避して見せた。
かくして、予言は叶った。
『災厄』は確かにこの世界に顕現し、なおかつこの世界の魔術師では倒すことが出来なかったのだから。
それから数百年。
賢人たちの集いは今代に続き、遠き異界に幽閉された『災厄』を監視し続けてきた。
優秀な魔術師の魂に『遠見』の魔法を刻み、その身こそを監視装置となしたアルテイト帝国。
女神からの神託を受けるための水鏡にかの『災厄』を映すイズミアル神聖王国。
精霊魔法と機械との融合を基盤に発展したエルティミア国では、『災厄』を監視するための観測機が開発された。
そうして、ルーテニル大陸を代表する三国による監視の中、『災厄』は何百年にも渡って何もない煉獄めいた異界を喰らいながら生きながらえた。
そして――……鋭い爪で乾いた土を切り裂き喰らい、毒沼を、酸の海を飲み干すその生き物を、いつしか監視人たちは〝星喰い”と呼ぶようになったのだ。
ここで、一つの疑問が浮かぶ。
果たして――……"星喰い”が今いる異界を喰らいつくしてしまったら?
その答えが、今、だ。
異界に繋がっていたはずのエレハルドの『遠見』の術は今はもう何も映さない。
伝達担当官たちからの報告によれば、イズミアルの水鏡も、エルティミアの観測機も何も映さなくなったのだという。
『災厄』を閉じ込める檻は、消えた。
では、その中にいた『災厄』はどこへ?
「探せ……! 〝星喰い”を見つけ出すんだ……!!」
随分と、たくさんの力を使ったような気がする。
世界の理を捻じ曲げ、次元の壁をぶち抜き、何かすごい無理を通した気もする。
気が付くと、俺はどこか知らない場所にいた。
ぱち、と瞬く。
暗い。
が、それはべったりと塗り潰すような闇ではない。
どこか薄ぼんやりとした暗がりだ。
あくまで、どこかに光源のある暗さだ。
すん、と鼻を鳴らす。
不思議な匂いがした。
少し、酸っぱいような、煙いような匂いと、ほんのりと甘い匂いような。
初めて嗅ぐ匂いだ。
匂いの元は、白い箱の中に入った黒々とした土だった。
すん。
匂いを嗅ぐ。
ほっくりと甘い。
こんな匂いを嗅ぐのは初めてだ。
すんすんすん。
この匂いは、好きかもしれない。
鼻の頭が触れるほどに寄って、匂いを味わう。
白い箱の中には土があるのに、地面はただただ硬く、のっぺりとして味気ない。
それから、空を見上げる。
俺が以前いた場所はどんよりとけぶるようにぼやけた赤い空が広がっていたものだが、ここの空は暗かった。
澄んだ黒、とでもいえばいいのだろうか。
確かに暗くはあるのだけれども、澄んでいる。
そこにちかちかと小さな光が瞬くのは、随分と綺麗だと思った。
あの光に向かって飛んだなら、いつしか光の元まで辿りつくことも出来るのだろうか。
早速試してみようかとも思うが、それは今自分の足元にあるこの世界を探索した後からでも良いだろう。
俺はゆっくりと歩きだそうとしたところで――……、しゃ、っと何かが滑るような音がした。それと同時に、光が差す。
続いて、がらり、と何かが動く気配と音。
「…………」
「…………」
俺がいる位置から、一段ほど高くなった位置に、「人間」がいた。
初めて見るはずなのに、何故だか俺にはその生き物が「人間」なのだということがわかっていた。
ひょろりと細く、頼りない生き物だ。
ただ、なんとなくサイズ感がおかしいような気がする。
「人間」というのはもっと小さくなかっただろうか。
俺が見上げるような生き物ではなかったような、気がする。
…………気のせいかもしれない。
なんと言ったって、俺は「人間」を、というか自分以外の生き物を見るのは初めてなのだから。
「〇■▽д§¶Θ」
人間が、何か言う。
なんだろう。
何を言ったのだろう。
じ、とその人間の口元に意識を集中させる。
「――――」
きん、と。
ズレていた波長が、目の前の生き物に重なるような感覚。
そうして俺は、初めて、自分以外の生き物の声を、意志のある言葉として認識することになる。
「すごい」
柔らかな声音だ。
風が吹き荒れる音とも、得体のしれない沼がごぽごぽと沸き立つ音とも違う。
生き物の温もりを感じさせる音だ。
否、これが声、というのもなのだろう。
うっすらとどこかにしまわれていた知識と、体感とが重なっていくような不思議な感覚。
肌の上に感じるくすぐったい細やかな気配は何だろう。
見上げる。
俺を見下ろす人間と、視線が重なる。
ああ、そうか。
これが『見られる』ということか。
それと同時に、俺は理解した。
前の世界にいたときに感じていた、ちくちくとした違和感。
身体に纏わりつくような気配の正体もまた、『視線』であったのだと。
どこからか、俺を見ている者がいたのだ。
俺は、見られていた。
悪意と、害意と、敵意をもって、見られていた。
「…………」
今、俺を見るこの人間の目に悪意はない。
敵意はない。
嫌悪はない。
けれど、俺を見ているうちにこの人間にも俺を恐れる気持ちが沸くのだろうか。
俺を、厭うのだろうか。
ゆっくりと、人間が口を開く。
「私んちのベランダにでっかいトカゲがいる…………」
…………。
………………。
……………………。
たぶん。
なんとなく、だけども。
俺は「でっかいトカゲ」ではないと、思う。
しばらく見つめあった後。
その人間は俺と視線を合わせるかのように屈みこんだ。
「そこ、寒くない?」
「寒い」というのは気温の状態を差す言葉だ。
気温が低くて、好ましくない状態のことを「寒い」というのだ。
そういう意味で俺が現在の気温に不便さや不快さを感じているかという意味でとらえるなら、否、だ。
この程度の気温なら、適温の誤差の範囲内と言える。
だから、回答するならば「寒くない」と答えるべきなのだろう。
が、俺がそう答えるより先にその人間は言葉を続けた。
「あー……、さっむい。窓開けてるとやっぱり冷えるなァ」
この人間にとっては、この気温は「寒い」らしい。
なるほど。
確かに、この人間のいる明るいところからは随分と温かい空気が流れ出ている。
逆を言うと、こうしている間にもこちら側の冷気が人間の元に向かっているはずなのだが、どうしてこの人間は冷気を遮断しようとしないのだろう。
「そこ、寒いでしょう。ほら、こっちにおいで」
招かれた。
どうやら、この人間は俺も寒い思いをしている、と認識しているらしい。
そして、俺を温かな空間へ招いてくれようとしている。
のそり。
一歩、踏み出してみる。
人間の様子を窺う。
「おおー、動いた。お前、肉食? 咬む?」
咬まない、と、思う。
咬む必要を感じない。
俺が動いたことに、人間は何か喜んでいるようだった。
「おいでおいで、ほら、こっち」
招かれるまま、人間のいる一段高い位置に上がる。
腕をかけて、ぐいっと体を持ち上げただけで、頭上から「おおおー」と感動したような声が降ってくるのがくすぐったい。
俺が人間のいる空間へと入り込むと、背後でからら、と音がした。
透明な壁が今まで俺がいた空間と、今いる空間とを隔てる。
しゃ、と音がして、暗い外を隠すように布が横切った。
人間を見上げる。
「お前はどこから来たんだろうなァ。上の階から落ちてきたんだろうか……。明日にでも飼い主、探してやるから今日はうちでおとなしくしてなね」
言い聞かせるような柔らかな声。
でもたぶん、探しても飼い主は見つからないと思う。
どうやらこの人間は、本気で俺を「でっかいトカゲ」だと思っているらしい。
そんなに俺は「でっかいトカゲ」という生き物に似ているのだろうか。
そもそも、俺自身は自分がどんな姿をしているのか、というのがよくわかっていなかったりもするのだが。
とりあえず、目の前にいる「人間」とはだいぶ違った形状をしている、ということに関しては自覚がある。
人間の肌は少し黄色がかったクリーム色で、ずいぶんと柔らかそうだ。
俺が触れたら、あっさりと裂けてしまいそうに見える。
床ですら、先ほどまでいた地面に比べるとどこか柔らかそうで、油断すると爪がずぶりと沈んでしまいそうな気がする。
じっとしている俺に安心したのか、人間はふいっと俺から目をそらすと、ぱたぱたと動き回り始めた。
何か軽やかな素材でできた網目状の箱の中に柔らかな布を敷き詰め、俺の方へと差し出す。
入れ、ということなのだろうか。
そ、と足を踏み入れる。
ふわり、と鼻先をくすぐるのは、なんだろう。
良い匂いだ。
好ましい匂いだ。
ずっと嗅いでいたくなる匂い。
ふわふわと柔らかな布が俺の肌の上を滑るのは、なんだか落ち着かない。
心がそわつく。
こんなにも柔らかなものが俺に触れていて大丈夫なのだろうか。
これもきっと、爪にひっかけでもしたらあっという間に引き裂いてしまうことだろう。傷つけないように、慎重に布の中に身を横たえる。
もしかすると、これが居心地が良い、ということなのかもしれない。
確かに、今のこの状態と比較したならば、先ほどまでいた場所は「寒い」と表現することも出来るだろう。うむ。
「気に入ってくれたなら良かった」
ふす、と小さく笑う声が箱の外から聞こえる。
うん、と頷く代わりに、俺は小さく尻尾を揺らした。
箱や、床を壊してしまわないように慎重に、そっと。
それでも微かにぱたん、と音が鳴る。
嫌がられるだろうか、と思ったものの、人間は楽しそうに笑ったようだった。
「トカゲも機嫌が良いとしっぽを振るのかな。かわいい」
機嫌が、良い。
そうか。
俺は今、機嫌が良いのか。
ぱたん。ぱたん。
尻尾を揺らす。
潜り込んだ布の中は温かで、柔らかくて、良い匂いがして、気持ちまでふわふわとしてくる。
このふわふわとした気持ちが、きっと「機嫌が良い」ということなのだろう。
ピロロラリ、と何か不思議な高い音がした。
なんだろう。
少し、人間の足音が遠くなる。
がぽ、と音がする。
空気に、新しい匂いが混じる。
むわりと蒸せるような、甘いような匂い。
「炊けた炊けた」
炊けた、とは。
そろ、と布の中から頭を出して様子を窺ってみる。
何か台の上に置かれた銀色の箱の中を覗き込んで、人間は嬉しそうにしている。
箱の中から白いものを取り出して、別の器へと移す。
ほかほかと湯気をたてるその器を手に、人間は低い台の前に座りこんだ。
小瓶に入った白い粉、のようなものを手にまぶし、白いものを手に乗せる。
「あちちち、」
小さな悲鳴。
大丈夫だろうか。
そわ、っとするものの、その人間はやっぱりどこか嬉しそうに見えた。
柔い掌が、ぎゅっぎゅ、と白い何かを握りこむようにして圧を加える。
最初はぽろぽろと崩れがちだったそれは、やがてまるっこい△に成形された。
ころん、と平たい器の上にそれが載せられる。
ぎゅっ、ぎゅっ、ころん。
ぎゅっ、ぎゅっ、ころん。
いくつもの△が、並ぶ。
何故だか、それを見ていると。
きゅう、と腹の奥が鳴った。
新しい世界にやってきて、忘れていた腹の痛みが蘇る。
何かを、腹に詰めたい気持ちになる。
だけども、ここにあるのはすべて目の前にいる人間に属するものだ。
それを勝手に腹に詰めてしまうのは悪いだろう。
「……ん?」
じい、と見つめていた俺と、人間の目が合った。
「もしかして、お腹空いてる?」
お腹が、空く。
どうだろう。
俺は、お腹が空いているのだろうか。
じ、っと考え込んでいる間にも、俺の腹がきゅう、と鳴く。
「…………ぐぬぬ。トカゲって何食べるんだろう。さすがにおにぎりは食べない、よなあ……?」
悩まし気にそう言いながらも、試すかのように人間が俺の前に手のひらに乗せた小ぶりの△を差し出す。
ほかほかと温かな湯気をたてる△。
むんわりと蒸されたほの甘い香りが鼻先を擽る。
あ、駄目だ。我慢できない。
俺はかぱ、と口をあけると、差し出されたその△へと食らいついた。
そのとたん、咥内に広がった感覚を何といったら良いのか。
熱感、はまだわかった。
元いた世界でも、体感したことがある。
こう、地の底にある何かぐつぐつとした赤いものを腹の底に送り込んだとき、似たような感覚を味わった。
けれどそれに続いたもっちりと柔らかな歯ごたえときたら、今まで口の中に放り込んできた他の何とも比較することが出来ない。
もぐ、とかじるにつれて、塊がばらばらと口の中でほどけていく。
一つ一つは小さな粒だ。
ぎゅ、と咬みつぶすとねっちりと舌や歯にくっついてくるような粘りけがある。
そして何より、甘い。
俺は夢中になって、がつがつとその△を腹の中へと送り込んだ。
何かを口にするという行為が、こんなにも楽しいことだなんて今まで知らなかった。
もっちゃもっちゃと咀嚼して、呑み込む。
「……お腹すいてたのか、お前……もう一つぐらい、食べるかな」
ひょい、と△をもう一つ追加で差し出される。
なんだろう。
こんな素晴らしいものを俺にくれるなんて、この人間は神か。神なのか。
二つ目にとりかかったあたりで、もう少しこの△を分析する余裕が出来てきた。
この白い粒粒自体も大変甘くて美味しいのだが、何よりそれを引き立てているのはその表面を覆う味わいだ。
齧りつく。
まず鼻を抜けるのは、ほの甘い蒸した香りだ。
次に、舌先に匂いを裏切るような塩っけのアクセントが触れる。
そのしょっぱさにつられたようにぎゅ、っと白い粒粒を咬みつぶすと、ぶわっとより濃厚な甘みが口の中に広がるのだ。
ずっと、味わっていたい。
不思議だ。
ここに来るまでは、なんでもいいから腹に詰め込んでしまえれば良いと思っていた。腹の底できゅうきゅうと鳴る妙な痛みさえなくなるなら、なんでも良かった。
けれど今は、呑み込むのがもったいないとすら思う。
もっちもっちと味わって、呑み込んで。
人間が俺にくれた二つの△は、アッという間になくなってしまった。
もっと、食べたい。
ちょろ、と人間を見上げる。
「だぁめ。私もトカゲの飼い方知らないけど、たぶん炊いた白米はそんなに食べて良いものじゃないと思う。そんなに味付け濃くないとはいえ、塩も使ってるし。……お腹空いてるみたいだったから、二個だけです。これ以上は、駄目」
ダメ、らしい。
しょんぼり。
くたり、と言葉以上に雄弁に伸びたしっぽを見て、人間がちょっと困ったように眉尻を下げる。
「……アレだ、明日飼い主探して。見つからなかったら、何かお前が食べられそうなもの、探してきてあげるから。ね。今日はもう、おとなしく寝なさいな」
そろ、っと。
その白い指先が、軽やかに俺の鼻先に触れる。
触れる。
肌のぬくもりが、そろり、と俺の肌を、撫でて。
ぞわわわっ、と。
今まで感じたことのないような、震えが波紋のように走った。
自分以外の生き物に、初めて、触れられた。
不快ではない。
ただ、分類できない。
こんなの、知らない。
じんわりと胸の内が熱を持つ、ような。
この感情は、どう名付けられるべきなのか。
今の俺には、まだわからない。
それでも――……腹はもう、きゅうきゅうと鳴いてはいなかった。
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