07.中国明代の唐揚げ
明代の料理書「易牙遺意」には元代の「捲煎餅」とは少し異なる「捲煎餅」が見られる。そのレシピは「羊肉二斤、羊脂一斤を用意する代わりに豚肉を使っても良い。薄く延ばした煎餅の中に入れる他の具にはネギや筍の類を使い、巻き込んでから狐色になるまで油で煎るか、単に焼いて五辣醋を添える」という。
内容からしてイスラム風料理が中国風にアレンジされて、春巻きの前段階へと発展したものといえる。
民族によって社会階級を固定化する元代の身分制度が解体された後、明代における同化政策の推進によって漢化が促され、元代の料理書にあったイスラム風料理というカテゴリも消滅したのだろう。
「居家必用」に書かれていた揚げ物は明代初期のレシピ集「多能鄙事」に幾つか有る。ここにあるレシピは「居家必用」と見比べるとその料理名や説明文は所々違って見えるが、出来るものは大体同じで、例えば「侯讎角予」は「(食是)饠角児」と同一のもの。「蛤兒尾」の調理法の一つは「古剌赤」(つまりこれもアレンジが提案された)、「陌熟魚」は「事林広記」の「両熟魚」などと当て嵌めることが出来る。
少なくともかつてイスラム風と銘打たれていた料理は、多少異なる調理法と共に受け入れられた。そして通説によれば中華料理における揚げ物や炒め物、脂っこさの時代はこの頃から始まる。
肉料理の揚げ物には「宋氏養生部」に「油煎鶏」がある。
これは「まず鶏全体を熱した油で揚げてから、酒、酢、水、塩、花椒を混ぜた汁で煮詰める」もので、資料の一つには唐揚げの起源だという。
また「雲林遺事飲食部」には「黃雀饅頭法」があり、「マヒワの脳と翼、ネギと椒塩を粉々にしてから、腹の中で発酵させ、小麦粉を練ったものでこれを包んで少し細長い形にする。それから蒸して完成。或いは蒸してから布を被して糟を乗せる。そうして一晩寝かせてから、胡麻油で揚げる」
あと「食物本草」の「鴟鵂」の項には「羽毛と臓器を抜いて揚げたものがマラリアに良い」とあるが、この本には素材から療法までおかしなものがあるから仕方ない。
魚の揚げ物は見当たらないが、「宋氏尊生部」などに炒め物のレシピが沢山記されている。炒めてから醤で味付けしたり、小麦粉をつけて炒めたりもしたようだ。
また小説の金瓶梅には、蟹の揚げ物が書かれていて「殻から刳り貫いた蟹肉を、サンショウ、生姜、ニンニク、麹、豆粉で包み、油で揚げてから醤油と醋をかける」料理だという。
レンコンや茄子の揚げ物を含め、宋代にあった野菜の揚げ物も引き続き見られる。「遵生八牋」の揚げ物には「梔子花」「甘菊苖」「蓬蒿」「酥黃獨方」「鵪鶉茄」のレシピがある。
「梔子花」は「梔子花の花を摘み、洗って生臭さを消して、砂糖と塩の入った小麦粉の練り物で糊を作り、花を繋ぎ合わせてから油で揚げる」
「甘菊苖」は「甘草水と長芋の粉で甘菊の苖を繋いでから油で揚げる」
「蓬蒿」は「洗ったレンコンを塩に漬けてから米粉を加えて餅を作り、油で揚げる」といい、元代の「飲食須知」にあるレンコンの揚げ物レシピと比較すると、より詳しくなっている。
「酥黃獨方」は「厚切りした山芋に榧子と杏仁の粉末を加え、小麦粉と混ぜて揚げる」これは宋代の「山家清共」にもレシピがあるが、宋代の物は両面を炒めるのに対して、こちらは油で揚げると記す。
最後の「鵪鶉茄」は宋代の「中饋録」のレシピと同文。
「食物本草」には蓮華草やムクロジといった山菜を揚げる例も見られる。
明代に入ってから炒め物は増え、また本草系の史料に見られるように油を味付け用に使う例が多く窺えるようになる。
油の多用は、油の生産力も影響するか。
明代の初期手工業の発展において搾油業は大規模化する。一つの工場につき数十人程度の労働力が雇用された。絞り粕を肥料として農民に売りつけることの出来る油は、当時の搾取構造の理に適っていた。
また元代の農書には鉄を用いた搾油機が広がりつつあることが示されていて、これはより迅速に油を得られるという。搾油法自体は天工開物に見られる明代の搾油法と大体似ている。それに加えて天工開物では地域ごとの差異を示す。絞る油の原料やそれに基づく利用用途の違いもあるのだろう。
実際の価格は判らないが、これまでより安価になったことは確かだ。
ポルトガル人は1517年に初めて中国を訪れた。資料には「宋氏尊生部」が1508年以前のものだとあるから、肉類の揚げ物、炒め物も西洋由来というわけにはいかず、宋代や元代からの継続性を示すものになる。
また1570年頃には海禁が緩和されて西洋人との取引が行われるようになり、新大陸産の食材が到来するが、明末の料理書「遵生八牋」などから見ても急激な変化というものは訪れていない。
そのほか玉蜀黍やカボチャの古くからの存在は時々提案されるが、西洋古代のカボチャがそうであるように古来からある食材は新大陸産のものとは実際のところ別物で、ただそういったことが忘れ去られただけだ。
最後に様々な揚げ饅頭が登場するので書いておく。
まず「寒具」という米粉でわっかを作って揚げる料理が「食物本草」にある。第五部分で触れた斉民要術の膏環と同じものだろうが、明代のレシピは餅に塩を少々加えてから揚げている。寒食節の日は煙を出すことを禁じていることから、これが食べられていたという。
「遵生八牋」にある「糖榧方」は、宋代の「中饋録」のものと同文。
また同書にある「風消餅」は「もち米二升を粉末状にしてから、四つに分割して一つ一つ水と合わせて餅にする。これらを煮込んでから、二つの餅を一つに合わせる。それから米粉一杯、蜂蜜半杯、酒二つ、同時に白飴を溶かし、薄皮の餅になるように捏ねてから、焦がさないように風を掛けつつ炒める。或いは多少のラードで揚げる。このとき火箸で餅を動かすようにする」というが、唐代の見風消との関連は判らない。
似た名前のものが「宋氏尊生部」の「風消餹」で、「もち米五升を粉末にして、その過半を水飴と混ぜて分厚い餅を作る。持ちの中に穴を開けて豆茎の灰を入れ、水を浴びせてひたひたにして煮て、残りのもち米と共に揉み込んでから乾燥させ、薄餅にする。それから沸騰した油の中で餅を熱し、その縁を箸で挟んで集めて取り出す」という。
「雲林遺事飲食部」にある「糟饅頭」は「もち米で饅頭を作り、艾でこれを包むか、あるいは酒糟を置いた器に布を乗せて饅頭を押しつけてからその布で包み込む。それから布の上に糟を置いて蓋とし、一日寝かせてから油で揚げる。冬なら半月寝かせてから炙る」
「宋氏尊生部」の「芝麻葉」は「小麦粉と胡麻と水を混ぜてから、薄切りにして穴を空け、一方を折り曲げてから油で揚げる」
同書の「甘露餅」は「もち米を磨り潰して捏ね、蜂蜜と水を注いで蒸し、それから切って薄餅にする。これを油で揚げてから、松脂か杏仁油を塗り、白砂糖とハッカをふりかける」