06.中国中世のイスラム様式
北宋代の料理書には唐代と同じく揚げ物は殆どない。
レシピがあるのは僅かに「中饋録」の中の「糖榧方」と「鵪鶉茄」くらいで、前者は「白麪──捏ねた小麦粉を発酵させ、熱湯で溶いて生地にして、榧子の形に切る。十分な油で揚げてから、砂糖と小麦粉を半々に混ぜたものの中に入れてこれを纏わせる」とある。
これは古代中国の揚げ物を踏襲しているようであるが、小麦粉を使っている。当時は良く好まれていたという。
後者は「瑞々しい茄子を細切りにして、沸騰した湯で湯掻いた後、水分を抜く。それから塩、醬、サンショウ、ディル、フェンネル、甘草、陳皮、杏仁、小豆を粉末状にして茄子と混ぜ合わせ、乾燥させてから蒸して、保管する。用いるときは、熱湯に浸して煮戻してから胡麻油で揚げる」
市民文化を描く「東京夢華録」には肉や魚の炒め物があるものの、揚げ物の姿は殆ど見つからない。ただ一つ蟹の揚げ物があり、これが最初の「炸」料理になるのだろう。しかし飯屋のメニューなので、実際はわからない。
唐の長安と宋の開封では、その人口差はあまり無い。
しかし北宋の政治機構を支えたのは中産階級から輩出される士大夫や彼らと癒着する商業者であり、彼らの旺盛な消費能力に加えて、市場町の整備による全国への市場の拡大が、北宋の文化と経済を発展させた。都市の料理は遠隔地の物産を取り入れて、豊かなものへと変化する。
そして行政機関の移転により官僚たる士大夫層も南に移り、彼らと密接に繋がる商業者も杭州に移住する。労働者は近郊の農村からその少ない収入を補填する為に集まり、都市化は再び行われた。物産は南方の物が主体となるが、幸いなことに宋代の物産の多くはもとより江南に依存していて、胡麻油や菜種油もその内に含まれる。
南宋の時代に入ると、「市肆紀」には炒め物や煎り物が幾つか見られるし、「夢粱録」には多くの油炸料理が登場する。油炸とは、油でからっと揚げる料理で「夢粱録」の中でも「油炸春魚」「油炸蝦魚剗子」辺りは漢字から想像すると、小魚の揚げ物と、魚や海老のすり身の揚げ物だろうか。
そのほかフグの揚げ物やガチョウの揚げ物など色々と挙げられている。多くが魚なのは、昔から江南では魚食が多い他に、この頃から魚の養殖が始まったためだろう。
また「武林旧事」「繁勝録」「玉食批」にも牡蠣やレンコンの揚げ物など油炸料理の名称が見られる。他に「都城紀勝」には「煠[食+秋]剗子」という料理がある。「煠」は「炸」と同義だから、これも揚げ物だろう。字面からして何かのすり身だろうが、判らない。[食+秋]が鰍という意味ならドジョウになるのか。
これらはいずれも献立集や飯屋のメニューでしかなく、調理行程は書かれない。
レシピが書かれているものは「山家清供」であり、「牡丹生菜」の項目に、南宋高宗の憲聖皇后の好んだ料理の一つとして「牡丹の花びらに、粉末状の穀物を塗してラードで揚げる」ものがある。ここでは「揚げる」を表現するとき「煠」という字を使う。
この字を使うのはもう一つあり、その「通神餅」は「生姜の薄切りと細切りのネギを、それぞれ硝湯で湯がき、甘草の粉末少々を混ぜた小麦粉と和える。そして少量の油で揚げる」という。
宋代において明文化されたレシピは少ないが、これまでと比べてずっと多くの揚げ物が史料の中に認められるのは確かで、唐宋間の大きな変化であるかのように見える。
またレシピ自体は殆ど残されていないのは確かだが、そもそもレシピのある料理書がまだ少ない。
中国で多くの揚げ物レシピが登場するようになるのは元代からである。
一応元代のレシピから魚の揚げ物を見てみると、例えば「飲膳正要」にある「薑黃魚」は、「コイ十匹を用意し、鱗を剥ぐ。小麦粉二斤、豆粉一斤、コリアンダー二両を用意し、塩を用いて味を調え、小麦粉や豆粉、コリアンダーを塗りつけ、少量の油で揚げる。生姜二両を用意して細切りにし、コリアンダーの葉と胭脂で色を染める。また細切りにして炒めた大根とネギで味を調える」という。
そのほか、先で触れたレンコンの揚げ物について「飲食須知」では「米粉をつけて揚げる」と書く。
元代において統治の簡易化目当てに導入された血統主義的な社会階級の固定化は、風土に馴染まない税制や法制と共に各地で征服王朝の崩壊を齎したのだが、この僅かな時間続いた世界帝国において、中国では国際色豊かな料理書が生まれた。
例えば「事林広記」や「居家必用」には、イスラム料理が紹介されている。そしてこの中には、小麦粉の皮で包んで揚げる料理が登場する。資料の一つはこれを春巻きの元祖だという。それは「卷(捲)煎餅」といい、「薄く延ばした煎餅を用意し、胡桃、松の実、桃の種、ハシバミの実、若い蓮の実、干し柿、煮たレンコン、銀杏、芭攬の実を細かく刻み、煮た栗を半分に切って、蜜と白糖を和えて、羊肉と生姜のみじん切り、塩とネギを加える。これを具にして煎餅で巻いて、油で揚げる」料理である。煎餅は所謂煎餅ではなく、水で溶いた小麦粉を薄く延ばして鉄板焼きにしたものだから柔らかいので巻くことが出来る。また「事林広記」の方には、揚げずに炒めてもよいとか、幾つかに切って蜜に浸して食べても良いと加筆されている。
中東の料理ということを意識して第一部分を振り返ると、これはサンブサの類型であるように見える。
ただ包んで揚げることや羊肉とナッツ(胡桃)という素材は同じだが他は異なる。 一応、中国にも蒸し物ならば粉末状の穀物の皮で包む料理として、唐代にはワンタンが既にあり、また餃子があったという説もあるが、獣肉を揚げる例はこれまでに無い。
また「古剌赤」という「鶏卵、豆の粉、酪を混ぜて煎餅にし、白糖の粉末と松の実、胡桃を乗せてその上に煎餅を置き、3,4層これを重ねたら油と蜜を混ぜたものに浸して食べる」ラウズィナに似た多層菓子が見える。しかしこれは揚げていない。
ジャレビに近いものとして「即你疋牙」があり「綠豆の粉に小麦粉を混ぜて糊状にしてから油で揚げる」或いは「豆粉の代わりに小麦粉、蜜、水飴、花、水を混ぜて揚げる」という。これは語感からもアラビア起源のように感じる。となると花はローズウォーターになるのか。
国際色の豊かさならば元代に限ったことではなく、唐宋の頃でも西方からの来訪者があったことは知られている。それは商人だったり、さほど高くない地位の官僚だったり、或いは移住民だったりして、漢代から中国に少なからず影響を与えていた。にも関わらず元代になってからイスラム風料理が登場するのは、モンゴルの政治機構が彼らに依存したものだったためだろう。
元代のペルシア人には、彼らが昔からモンゴル人と協力していたという理由だけで高官の地位が与えられていた。そして当時のモンゴル人が漢化を禁じた結果、ペルシア人と漢人との文化交流は希薄だった。そのために中国の料理書にイスラム料理というカテゴリが創出され、ペルシア人の料理様式は中国風に染まらずに保たれた。
前述の他にもマトンの揚げ物が見られるようになる。羊肉食はモンゴル人の影響と見る資料もあるが、そもそも羊肉自体は古代から中国で食べられている。とはいえ少なくとも揚げ物はイスラムの影響だろう。
元のペルシア人が書いたとされる「飲膳正要」には幾つか少量の油で揚げる羊肉の珍味レシピがある。
「河豚羹」は「羊の脚一本とソウカ五個を用意する。これらを茹でた後に濾して細切りにし、白い部分を取り去った陳皮五銭と細切りにしたネギ二両、調味料の塩と醬を加えて混ぜる。そして小麦粉三斤を皮にして包んで河豚のような形にしてから少量の油で揚げる。それからスープまたは清汁の中に入れて塩で味を調節する」
「薑黃腱子」は「熟成させた羊の脛肉一個、肋骨二本、豆粉一斤、小麦粉一斤、サフラン二銭、クチナシ五銭を用意し、塩を用いて調味料を調節し、脛肉に塗りつけて少量の油で揚げる」
「派餅兒」は「脂肪を除いて良く潰した羊肉十斤、アギ三銭、胡椒二両、ロングペッパー一両、コリアンダーの粉末一両を塩で味で調節し、捏ねて餅にする。それから少量の油で揚げる」
どれも西洋よりずっと早く調理に必要な分量を書く。
アラビア風でない揚げ菓子類には「居家必用」の「盞酪焦油」があり「小麦粉を糊状にしてから、厚みのある煎餅を作る。それから焦がさないように両面を弱火で焼いてから取り出して、蜂蜜を加える。そして再び厚みのある餅の形に捏ねて、熱した餡子を包み、花の模様に型押しして、十分な油で黄色く揚げる。或いは型押しせず、手で丸めてから揚げる」
似たように餡子を入れる揚げ餅には「円焦油」や[食+是]饠角児がある。
また「事林広記」の「素灌肺」は、「熱した小麦粉の塊を切り、杏酪、升麻、生姜汁、塩、醬などを注いでから、緑豆の粉末の中で転がす。それから油で揚げて、先の注いだものを混ぜた汁に合わせる」という。
さらに肉や魚を避ける精進料理の中にも揚げ物が進出し、「両熟魚」という魚の形をした長芋の揚げ物だったり、小麦粉と豆粉、松の実だけを使う揚げ物「甘露餅」が書かれている。