05.中国古代の伝統
中国の料理書は、北魏の頃に書かれた斉民要術に始まる。
しかし礼記をはじめ多く古典にも食材や料理の名、作り方は出てくる。後漢代の説文解字や釈名には料理に関する簡単な説明があり、画像石で調理や食事の様子が図示されているので、これらと合わせると良い。
通説において古代中国に揚げ物は無い。
説文解字において、今で言う揚げるを意味する炮は、説文解字によると毛皮を除かずに肉を炙る──直火焼きをするとある。爆は灼と同義、灼は炙と同義だとあるから、火で炙ることだろう。炸や炒の字については書かれていない。
また中国の調理器具に、ギリシャのような手鍋は見当たらない。煮るとき使っていた鉄製または銅製の中華鍋は漢代から登場するが、今のものより底が深く、足が無い鼎の形をしている。多分、釜の形状が最も近い。蒸すときにも専用の調理器具があった。炙る方法は釈名が詳しく、丸ごと火の上で炙るものだけでなく、砂糖漬けにしてから炙ったり、細切れ肉に山椒と豆豉を混ぜ込んでから炙るものなどが記されている。
銅板に食べ物を載せて脂を引いて焼くものもあったようだが漢代には廃れた。
油には松や胡麻、油菜、大豆などの油のほか、動物の脂肪から取ったものがあり、角のある動物の脂肪を脂といい、角の無い動物の脂肪を膏という。或いはそのうち固形の脂肪を脂といい、液体の脂肪を膏という。脂や膏の使用法に、肉に塗って焼いたり、飯にかけるものはあるが揚げるものは無い。
最も近そうなものは礼記の内則編にあり、このときの料理法が八珍の一つ「炮」だという。
それは「豚の腹から臓器を取り出して、代わりに棗の実を詰め、萑を編んでこれを包む。そして草混じりの粘土を塗ってこれを炙り、粘土が乾いたらこれを落とし、洗った手で擦って皮を剥がす。米粉を水に入れて混ぜたものを豚肉に塗りつけ、小さな鼎に入れた膏で煎る。膏は肉が沈むくらい入れておく。大きな鼎で湯を沸かし、小さな鼎をその中に入れて湯煎する。このとき湯が小さな鼎に入らないようにする。三日三晩煮続け、出来上がったら塩辛で食べる」という。100度を超えることは無いので高温の油で揚げることにはならないし、また「炮」は全体の行程を示すのではなく、粘土を塗った後に行う「炙る」行為を示している。
ほかに、小麦粉食品に油を塗って窯焼きにする胡餅は、漢末に中央アジアから伝わる。
資料の一つには、漢代には魚を鍋底に引いた少量の脂で揚げていたと書くものがあるが、史料には見当たらない。魚料理には煎魚つまり焼き魚、竹筒に入れて魚を炙るという蒸し焼き、鍪に入れて煮るもの、塩辛、刺身とかが確認できる。
揚げ物のレシピは、中国では6世紀の斉民要術が最初になる。
そのうちの一つは「作奧肉法」といい、「冬に屠殺した豚の肉から毛を削ぎ、これを焼く。焼けたら温水で洗い、皮を削って臓器を抜き、脂を取る。そして脂およそ一升、酒二升、塩三升を入れて、脂に肉が沈むようにしてから、半日煮る。肉が煮えて水分が蒸発したら、さらに膏を熱して肉を煮る。中から液体が染み出てきたら、細切れの膏を注ぎ入れて沈める。そして食べるときに水煮する」という。
また「鴨の卵を溶いて塩少々を加え、鍋に膏油を引いて煎り、餅の形にする」ものもある。他にも「乾燥させた海苔を油の中で煎った」ものは食べられるが止めておくようにとある。
油で煮るという表現が西洋でも見られるというのは第一部分辺りで書いた。一応煎るものにも触れたが、揚げ物かどうかは判らない。
揚げ菓子としては、「白繭糖法」があり、「米を炊き、熱して清潔にした杵と臼を用いて、米粒が無くなるまで突く。厚さを二分にした餅を沢山作り、日光に曝して乾燥させてから幅二分程度に細長く切る。
これを斜めに切り、両端を尖らせて棗の種のような形にする。さらに乾燥させ、それから膏油で煮る。出来上がったら取り出し、大体五、六枚ずつ集めて丸くする」という。
他に米粉と蜂蜜を混ぜて揚げるものが二つある。その内の一つ「膏環」は「米粉と水と蜂蜜を混ぜ、麺のような光沢を出す。それから手で丸く捏ねてから八寸ほどの長さにして、その両端をくっつけて膏油で煮る」というドーナツのようなもの。
もう一つの「粲」は「同量の蜂蜜と水を和え、米粉と水蜜を加えて混ぜる。また一升分の容量のある竹杓を用意し、下の方に多くの小さな穴を沢山空ける。混ぜたもの五升分を竹杓から鍋に滴らせて、これを膏脂で煮る」
揚げ菓子の材料となる米は江南限定のものではなく「秫米」つまり中国各地で生産されていた高粱の類であり、斉民要術には、粉にするのに最も適している穀物であるという。
中央アジアからパンが伝播し、粉食の始まった漢代に碾き臼が開発され、晋代における水車技術の普及を経て、粉を捏ねて油で揚げる中国最初の揚げ菓子は生まれた。
しかし揚げ物はまだ素揚げだったようだ。
唐代の料理書は散逸を免れたものが何冊もあり、先の斉民要術ほど仔細に書かれていないものばかりだが、その種類は豊富である。しかしその反面、揚げ物は殆ど無い。
資料によると「食譜」にある「巨勝奴」は黒ゴマをかけ、脂と蜜を入れたドーナツだというから揚げ物になる。またほかに「見風消」という料理は「油浴餅」であるというから揚げ物かもしれないが、油を塗ったパンなのかもしれない。
どちらも詳しいレシピは書かれていないし、その材料が米粉なのか小麦粉なのかも判らない。そもそも「食譜」は著者の韋巨源が拝領した料理についての献立集であり、レシピ集ではないからだ。
レシピの書かれている料理書は、どれも医療を目的としたものである。西洋と同様に食は薬であるが、料理に四元素を結びつける西洋古代以来のルールと異なり、中国では気の流れをルールにする。
レシピには煮る料理が最も多いのだが、これは薬膳として主に粥物が食べられていたためだろう。特に「食医心鏡」には大量に見える。
揚げ物がレシピに殆ど無いのも当時の健康論に関わるのだろうか。
「食療本草」では豚脂を利用するときは主に塗り薬──つまり膏薬としてである。一方、照明用には豚脂を使ってはならないため、胡麻油や松脂が用いられたという。