04.近世初期の南欧
14世紀の料理人はタイユヴァンを除き殆ど名前が分かっていないが、15世紀以降の料理書の名の知られた書き手は殆どが王侯貴族に仕える料理人だった。 調味料の分量を明記していないことは、味が料理の色合いに比べてそれほど重きを成していなかったと見ることも出来るし、それが料理人組合の中で継承する技術であり秘匿されるものであったということでもある。
わざわざ大量と書き加えられる砂糖は使用量の桁が違ったか、或いは砂糖が高級品であるが故にあえてケチらないようにするための方便だった。
グーテンベルクの活版印刷は知識の共有を可能にし、16世紀に入ってからヴィアンディエのように著名な料理書が出版されるようになる。しかし相変わらず技術は料理人から料理人へと継承されるものであったし、殆どの大衆はそのような出版物とは無関係だった。料理人にとっての教科書は彼らの先任であり、料理書は副読本の地位に甘んじ続けていた。
印刷術によって最も恩恵を受けたのは、それまでどうにかして写本を手に入れようとしていたブルジョワである。
求められていた料理書の写本は、彼らの数に対して不十分な量しか無かった。
しかし王様の真似事をするためにより信頼できるものが必要とされたにもかかわらず、
印刷物の内容は不正確だったし、秘匿された分量を知る料理人そのものの確保がより重要だった。
詳細なレシピの書かれた料理書は、印刷物が登場してから一世紀後、組合に守られたフランスではなく、イタリアで登場する。
ローマのプラティナが書いた料理書或いはガストロノミー本「高潔なる愉悦と健康について」は、
料理書としては一番早く1475年に印刷された。だが、彼の料理に対する健康理論を除くと、そのレシピはマルティーノのものに似ていて揚げ物はあまり見つからない。
ただ16世紀のイタリア料理はこの書の理論に牽引されたという。その結果かどうかわからないが、多種多様なフリッターがイタリアで生まれた。
16世紀前後には西欧でも新たに何冊かの料理書が書かれたが、あまり進展は見られないし「新しい料理書」にフリッターは見当たらない。一方、南欧では地域性のある新しい料理書が書かれるようになる。
前回触れなかったポルトガルには15世紀末から料理書が登場する。
それには「焼いた鶏肉を適当な大きさに切り、溶き卵につけてからバターで揚げる。またパンを薄切りにして、溶き卵につけ、これもバターで揚げる。そして砂糖の中で一緒に転がし、ボウルに乗せ、再び砂糖とシナモンを振り掛ける」ガリンナ・アルバルダーダがある。
それまでは肉を細切れにしてから揚げていたが、ここで塊の肉を揚げるものが初めて現れたことになる。しかしそれは果たして進歩の結果だったか。
他の地域の料理にガリンナ・アルバルダーダに類するものは確認することが出来ず、この半世紀後にポルトガルのマリア・デ・ギマランイスが書いた私的な料理書の中に同名のレシピが見える。
16世紀初頭、スペインの料理人ルペルト・デ・ノーラが記した料理書には、幾つかの菓子類のフリッター、それもカタルーニャ風のものが見られるが、肉類の揚げ物は殆ど見られない。
例えば「よく篩った小麦粉を捏ね、幾つかの卵を混ぜる。そして指位の厚さにスライスしたチーズを上下に乗せ、豚脂と共にフライパンで揚げる。ひっくり返すときには即座に火を消す。油に獣脂を使うときはフリッターのようになる。出来上がったら砂糖を上に置き、温かいうちに食べる」ものがある。
肉類を使うものは鶏のレバーを使ったフリッターだけがあり、「まず鶏の肝臓を木炭で焼いてからすり鉢で磨り潰す。続いて適度に水で薄めた白酢にローズウェーター少々を加え、肝臓の量に適した量のトーストを浸す。そして肝臓と共に磨り潰し、また肝臓二つ分につき卵一つを肝臓と同量のパンとチーズと共にすり鉢に入れて磨り潰す。それから乾燥させたミントを軽く炙って、すり鉢に入れて混ぜ、全部混ざったらスパイスを適量入れる。フライパンに豚脂または香ばしさが欲しいなら油を入れて、沸騰したら御玉一杯分ずつすり鉢の中の具を入れていく。具が金色になったらフライパンから取り出し、皿に載せる。これにシナモンや砂糖を乗せるのが望ましい」とある。
他方、同時期のイタリアの料理人ジョバンニ・ロッセッリの「晩餐」には、ハーブ入り、米入り、リンゴ入り、クリーム入りなど十四種のフリッターがあり、それらの具に加えてニワトコの花やローズウォーターを混ぜたりする傾向が見える。
またその中には魚のフリッターがあり、「魚の白身を潰たら、アーモンドを潰して漉す。そして小麦粉少々と砂糖とシナモン、水少々を加えて捏ねる。それから好きな形にして油で揚げる」レシピと、「皮を剥いたアーモンド、骨を除いて魚肉、干し葡萄、砂糖、パセリ、マジョラム、微塵切りにしたスパイスとサフランと共に潰してペーストを作る。それから好きな形にして油で揚げてもいいし、魚の形にして焼いてもいい」というレシピがある。
16世紀中頃に出版されたクリストフォロ・メッシスブーゴの「宴会」にも、ナッツやカボチャやニワトコの花を加える各種フリッターがある。
この書の大きな特徴は六皿分や十皿分の料理に必要な食材の量を記している点にある。
例えば「フリテッレを乗せた薄切りリンゴ六皿分」は、「まず林檎を十回切り、その欠片1リーブラ分を細かく切る。それから皿半分の量の小麦粉を、2オンスの油、3オンスの干し葡萄、ワイングラス1本分の甘い白ワイン、サフラン少々を合わせ、沢山の水を足して粘性が出るまで混ぜる。そしてよく潰してから、油を熱したフライパンに、スプーンで一掬いずつフライパンに入れて揚げる。そして6オンスの切ったリンゴの上に置き、さらに4オンスの砂糖をかける」という。
具体的なレシピの登場は、古典の印刷物から実用的な料理書への進展を示し、ルネサンス料理の優位を導いた。
そのほか焼くとか煮るとかのレシピに加える形でオーブン焼きのレシピが多く書かれている。オーブン自体は古代からあり、中世のブルジョワの家庭にもそこそこに有ったが、西洋ではこの時期にオーブンの所有比率の増大が見られるという。
16世紀の最も名の知れたイタリアの料理人バルトロメオ・スカッピの「オペラ」にも十数種類のフリッターがあり、これまでのイタリアに存在していたフリッターに加え、ローマ風、ヴェネツィア風といった地域色を意識したものがある。
そして鶏のフリッターが有り「二羽分の鳥胸肉を煮てから、半熟チーズ2ポンド、摩り下ろしたパルメザンチーズ半ポンド、砂糖3オンス、卵6個、シナモン半オンスを加えて磨り潰す。それらを混ぜて半熟卵の黄身程度の大きさのミートボールを作る。溶き卵6個と小麦粉2オンスをポットの中に入れ、ミートボールを一つずつそれで包んでいく。それからすぐ、ミートボールを油の中に入れて、揚げる。出来上がったら温かいうちに砂糖を振り掛ける。具には鶏胸肉の代わりに牛や子ヤギの脳を使っても良い」
またカエルのフリッターが有り、「カエルの頭を切り取り、足の第一関節から先を切り払ってから8時間水に浸し、ときどき水を入れ替える。すると膨れ上がって白くなるので、水から取り出してから、両脚を下にして背骨から離れた辺りで太腿を切り、両脚から骨を取り除く。それらに小麦粉をかけて油で揚げ、それから温かいうちに塩を少々振りかける。湯通ししたクローブとパセリを炒めて、ニンニクやパセリ、胡椒、塩と共に和える。これは1564年、教皇ピウス4世にサーヴィスしたものである」とある。
そのほか、魚の揚げ物か炒め物に小麦粉を使う料理を幾つか書かれている。
そこには「新鮮なホウボウに小麦粉をつけて揚げた後、オレンジの果汁と塩をかける」料理や、「ヒメジに小麦粉をかけて揚げ、オレンジの果汁と胡椒と塩をかける」料理、「タラに小麦粉をかけて揚げ、オレンジの果汁、胡椒をかけ、マスタードを添える」料理、「牡蠣に小麦粉をかけて揚げ、オレンジの果汁と砂糖をかける」料理などが見える。
それまでも揚げてオレンジの果汁をかける似たような魚料理はあったが、このときまで小麦粉を塗すことは無かったように思う。しかし実際それが揚げ物なのか、ムニエル的なものなのかは判らない。
15世紀末の航海によって西洋人は大西洋を渡り、それから大陸産の多くの食材は発見及び再発見された。16世紀においてその生産は、玉蜀黍や隠元豆のように素早く広がったたものがあり、またじゃが芋やトマトのように特定の地域に限られたものがあった。
しかしこういったものがレシピに反映され始めるのは、飼料によって育てることの出来る七面鳥とモルモットを除けば16世紀後半から17世紀前後からだった。
バルトロメオ・スカッピの「オペラ」の中には七面鳥のローストやモルモットのパイがある。