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揚げ物語  作者: そらが
23/24

23.多分これが一番古いと思います

 インド北西部には遥か昔から揚げ物があったように見える。もしかしたら医学書スシュラタ・サムヒタは多分揚げ物に触れる最古の料理書だろうが、書かれた年代は遅くとも紀元前3世紀頃であること位しかわからない。

 この本の英訳(抄訳?)の中には「プパリカ」や「アプーパ」という揚げ菓子が有る。

 「プパリカ」は「ロングペッパーの粉末と砕いたケツルアズキ、サリ米と小麦と燕麦を等量用意して混ぜ合わせ、澄んだバターで揚げる。そして砂糖を加えた牛乳を加える」という。

 澄んだバター「ギー」は胡麻油と共に古くからインドで利用されていた。


 揚げ物は、インドからギリシャにかけての広大なヘレニズム世界の何処かで始まったのだろう。しかし互いの文化の影響が現れるのは、揚げ物の出現より遅い。

 インド北西部の領域はアレクサンドロスの東征以前からペルシアの影響を受け続けていて、その後にはマウリヤ朝とセレウコス朝との外交も行われていたが、ギリシャ文化の影響はグレコバクトリアの興盛と共に現れる。一方、インドの学問が中東を経由してヨーロッパに伝わるのはずっと後のことになる。



 11-12世紀頃には南インドの幾つかの王朝で料理のレシピが書かれた。当時はまだジャイナと仏教が共生していたにも関わらず、肉料理は振舞われていた。

 1050年頃に書かれた料理書「ロコパカラ」は菜食主義的で、魚に似せた豆粉の生地をマスタードオイルで揚げるものがある。

 1129年に書かれた「マナソラーサ」には、ペースト状の肉を丸めてから油で揚げたり、肉詰めの茄子を油で揚げる料理がある。

 揚げ菓子には「ミルクを煮て、酢を加え、米粉を足してから捏ねて形を整え、揚げてから砂糖で包む」ものがある。捏ねた小麦粉や米粉や豆粉をギーで揚げて、砂糖や蜂蜜や何かのスパイスを振り掛けるタイプの揚げ菓子はヴァダやアプーパなど他に何種類も有る。


 一方、北インドでは乱立する諸王国がイスラム教国に呑まれていき、揚げ物には中東風にローズウォーターをかけるようになった。

 15世紀に北インドで書かれた「ニマッタナーマ」には、揚げ菓子ラドゥが有り、米粉の生地にギーと塩を加えて球状に捏ねてからギーで揚げて、溶かした砂糖をかけ、そして中東風にローズウォーターを振り掛けている。

 サンブサはサモサと呼ばれていて、幾つかのレシピが有る。

 一つは「ヤギ肉または鹿肉のミンチと玉葱の微塵切りを混ぜて生姜で味付けし、サフランとローズウォーターを加えて色付けと香り付けをする。茄子から果肉を取り出して代わりに挽肉を中に入れるか、薄いパン生地に包んでギーで揚げる」

 また「小麦粉とギーを混ぜて生地を作り、インド風にギーを使って揚げる。薔薇で香り付けして、仕上げに香草、麝香、樟脳、カルダモン、クローブを混ぜた作ったスパイスを加える」包まないものもある。

 中東由来だろうサンブサが、インドではギーを使って調理されたことは判る。

 他に16世紀初頭の別の料理書には、サンスクリット語の揚げパンのプーリや、第1部分にも書いた中東の揚げ菓子ジャレビが載っているようだ。


 こうした傾向は1526年にムガル帝国が成立した後にも継続する。

 1590年にペルシア語で書かれた「アクバルの書」にはサンブサとカリッヤが確認できる。ただレシピを見ると、例えばサンブサは肉、小麦粉、ギー、玉葱、生姜、塩胡椒、コリアンダー、カルダモン、クミン、クローブ、ヌルデといった材料リストと共に20種類の作り方があると書かれているが、調理法自体は書かれていない。

 以降18世紀まではペルシアの料理書が用いられた。

 ムガル帝国時代の料理書「アルワン・エ・ネマト」にはペルシア語の揚げ肉団子(コフタ)が登場する。史料が無いからサルマ・フセインの「皇帝の食卓」に頼ると、「リザ・コフタ」は「羊の挽肉500gに、玉葱の微塵切り、塩と黒胡椒を混ぜて、16個の肉団子に分割する。フライパンでギー2カップ分を熱して、肉団子を金茶色に揚げてコフタを作る。……(略)グレイビーソースを作って肉団子に絡めて完成。ミントやバジルを添える」という。

 卵を挽肉で包むナルギシコフタは、wikiではスコッチエッグの元と看做されているが、料理書からは確認できない。



 ポルトガル人は1498年にインドに到来し、1510年にはゴアに定住した。新しい食材の採用はこの頃から始まる。この地域だけは牛肉や豚肉、そしてチュロスを食べるようになった。

 ほかにオランダやイギリスの影響は主にベンガルやアッサムなどインド北東部で見られる。あとはフランス人の植民地ポンディシェリにフランス風の料理が採用された。


 19世紀半ばからはイギリス人のエリートによってインド料理の本が出版されるようになった。

 一応第11部分で触れたようにインド風カレーは1747年のイギリスの料理書に登場するが、これは炒めた鶏肉にターメリックと生姜と玉葱とバターと塩胡椒で作ったソースを絡めるもので、インド料理とは異なる。

 1849年出版の「インドの家庭料理」は英語で書かれた最初のインド料理書のようだ。インドに滞在するイギリス人向けのもので、おまけのようにインド料理が紹介されていて、コフタや揚げないバグラヴァが確認できる。

 例えば「コフタケバブ」は「挽肉と玉葱をフライパンの上でギーを使って炒め、塩とコリアンダー、水少々を加えて、水分がなくなるまで熱する。玉葱、生姜、牛脂、アニス、小麦粉を用意して、挽肉と混ぜ、鉢の中で磨り潰す。カレーの材料、バターミルク、卵白を加えて、混ぜ合わせて適当な大きさのボール状にして、残ったギーで揚げる」

 1926年にはロンドンにインド料理のレストランが初めて誕生し、1930年代に料理書が作られた。ここには挽肉のコートレットや米粉を使ったフリッターなどがあり、インド風というイメージに基づいてターメリックやクミン、唐辛子などのスパイスを多用している。


 19世紀から20世紀初頭までインドの諸語で書かれたインド料理書が出版されていたが、全く読めない。


 インド出身者によってインド料理が諸外国に紹介されるようになるのは戦後からで、イギリスに移住したインド人サヴィトリ・チョードゥリーが1954年にインド料理の本を出版した。調味料にイギリスで手に入る代替品を使ったレシピだが、ナルギシコフタやプーリのレシピがある。

 ナルギシコフタは「鍋を熱して挽肉を入れ、玉葱の微塵切りと大蒜、塩、ターメリック、ガラムマサラ、チリパウダーを加える。弱火で30分ほど煮てから、豆粉を加えて15分煮る。肉が柔らかくなったら乾かし、出来る限り磨り潰して捏ねる。卵をボウルの中で溶き、置いておく。ミルクカード1匙と溶き卵少々を挽肉に混ぜて、再び捏ねる。卵を茹でて、冷やして皮を剥く。挽肉をいくらか取り出して、平らにして、ゆで卵1個をその中に置いて、挽肉で包み込んで、コフタのような形にする。底の深い鍋を用意して、脂を入れて煙を出す。コフタに溶き卵をつけ、両面が中火で金茶色になるまで揚げて、油分を切って浅い皿の上に置く」

 プーリは「小麦粉を篩にかけ、乳脂肪に塩を加えて熱し、手で擦り取り、それから温水を少しずつ加えて固い生地を作る。生地を小さく切り取り、ボール状にする。小麦粉を少々足して捏ねる。残りの生地も同じようにして、それぞれのボールは間隔を空けて置いておく。底の深い鍋で油か脂を熱して、煙が出てきたら、中火でプーリを一個ずつ手早く揚げる。途中で箆を使って少し縁を押し込み、またプーリの上に熱い油を掛けると良い。プーリが膨らみ、両面が金茶色になったら取り出し、油分を切って温かいところに置く。全部揚がったら、温かいうちに食べる」という。多分、元々は小麦粉ではなく米粉か豆粉を使っていたのだろう。


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