22.ソヴィエトロシアではバターを揚げ物で包む
ロシアで揚げ物が登場するのはとても遅かった。そもそも料理書自体も1779年に出版されたセルゲイ・ドルコフツェフの料理書「簡単な料理ノート」が最初になる。以降、何人かが料理書を書いたが、料理書のタイトルは大体が経済的という言葉で修飾されていた。料理書を書いていたのはいずれも知識人だから、この傾向は近代イタリアの状況と似ているだろうか。彼らの民族主義的イデオロギーの方向性は自由と独立ではなかったが。
帝政ロシアはその人口と広い国土によって発展しているように見せかけられていたが、イタリア同様、諸外国と比べて産業構造的に遅れていた。中産階級はピョートル1世の改革以来、非常にゆっくりと増加していたが、彼らのための労働力が自由の無い農奴であった為に、1860年代までは一部の産業を除いてまだ貧弱だった。
民族主義より求められていたロシアの料理書は、1816年に出版されたワシリィ・リョーフシンの料理書「ロシアのキッチン」によって実現する。内容にはサワークリームのようなロシア伝統だけでなく、ドイツやフランスの要素、ポーランドリトアニアや、東アジア、トルコ辺りの影響も窺える。
この料理書の中には、少量の油で揚げるアラジィやシルニキのレシピがある。
アラジィはクレープ風のブリヌイと違ってパンケーキ風の菓子で、濡れ手で生地を掴み取り、2,3個ずつバターで揚げ、温かいうちに糖蜜をかけて食べる。チーズを混ぜ込むものも有る。
1852年出版のイグナティオ・ラデツキーによる「一年の食事」にはポザルスキーコトレーティのレシピが初めて登場する。
これは「鶏のフィレ肉を切り取り、皮を取り除いて洗い、ミンチにする。バターをフィレ肉の真ん中に突っ込み、塩胡椒を加えて混ぜる。パン粉、溶き卵、パン粉の順でつけてから、バターを溶かしておいた鍋の中に入れる。両面が良い色になったら出来上がり」という。
1861年に出版されたエレーナ・モホロヴェツの料理書「若妻への贈り物」は、帝政期において最も人気を博した。ただし女性による料理書は、エカテリーナ・アヴデーエワが1840年代に4冊ほど書いているようだ。帝政ロシアの識字率はとても低かったから、どちらも裕福な層向けとして機能していた。
「若妻への贈り物」の最初の版には、アラジィやポーランドの揚げ菓子ポンチキがある。
「人参のアラジィ」は「大き目の人参5本を摩り下ろし、卵2個を加え、アラジィを作れる程度のバッター液になるように小麦粉を加える。鍋で油を熱して、いつものように揚げる」という。
また「リンゴ入り生地のポンチキ」は「9-12個の小さなリンゴの皮を剥き、芯を抜いて、空洞になったところにジャムを注ぐ。卵黄6個と砂糖6匙を白くなるまで混ぜ、卵白6個を加えて小麦粉6匙を振りかける。リンゴをこのバッター液につけて、バターとラードを半々に混ぜた油を沸騰させたところに入れる。リンゴが茶色くなったら穴あき杓子で取り出して、砂糖とシナモンをふりかけ、シロップかサバイヨンソースを注いで完成」
揚げるカツレツは多く登場する。フランス風のコートレットだけでなく、挽肉やポテト、魚肉を潰して揚げるものもカツレツと呼んでいた。
「七面鳥か鶏のコトレーティ」はポザルスキーコトレーティに手間を加えたもので、仕上げにマッシュルームとトリュフで作ったソースを注ぐ。
他に骨無し肉を使うドイツの揚げ物シュニッツェルもある。
「若妻への贈り物」には当初、1500種類のレシピが書かれていたが、1917年の最後の版では3000種類に増加する。
ポテトカツレツは、ポテトコロッケに改名されただけでなく形状も変わった。カツレツが小判状(カツレツの形)にするのに対して、コロッケは小さなボール状にして揚げる。つまりフレンチでクロメスキと呼ばれるものになる。
ソヴィエトロシアが成立した後、「美味しく健康的な料理書」は1939年に出版され、ブルジョワジー向けの料理書から取って代わった。
レシピを見ると、確かにモホロヴィツの提案する贅沢で大量の料理とは違い、物資さえあれば大衆食堂で実現できた。
ここには「じゃが芋を茹でて潰す。乾燥させたマッシュルームを洗ってから水分を拭う。マッシュルームを微塵切りにして、バターで炒める。玉葱の微塵切りを炒めて、塩胡椒で味付けして加えて、混ぜる。生地の中にじゃが芋とマッシュルームを入れて半月状に包み込む。このピロシキを溶き卵につけ、パン粉で包んで、バターで全面を揚げる。マッシュルームソースにつけて食卓に出す。ソースはマッシュルームのブイヨンにサワークリームかトマトペーストを加えて作る」という溶き卵とパン粉をつけて揚げるピロシキがある。
またポザルスキーコトレーティを含む肉や挽肉のカツレツや、小麦粉と卵とサワークリームを混ぜ合わせて作るバッター液に浸ける魚肉の揚げ物の他に、カボチャや人参など野菜を使うカツレツやコロッケが幾つか見える。
キャベツを使ったシュニッツェルは「キャベツ1kgを用意して、一番外の葉と芯を剥がして、調理を始めるまで塩水に浸けておく。漉して全ての水分を抜き、葉を取り分けて、木槌またはナイフで形を整える。小麦粉1/2カップで包み、溶き卵2個につけ、パン粉1/2カップで包んで、バター3匙で両面を揚げる。食卓に出すときは、サワークリームかサワークリームソースを片面にかける」
他にポンチキ、アラジィ、そしてトワロージニキという揚げ菓子がある。
これは「チーズ500gを篩にかけてボウルに入れ、小麦粉1/4カップ、砂糖2匙、塩少々、バニラエキス1/2匙、卵1個を加えて混ぜる。よく混ざったら小麦粉を振りかけて、丸太のような形になるよう転がす。大体10個くらいの生地に切り分けて、また小麦粉で包み込んで、油を入れて熱した鍋で全面を揚げる。茶色くなったら取り出して、もし必要なら粉砂糖を振りかけ、果物のシロップを加えたサワークリームを添える」
ウクライナ飢饉と大祖国戦争を経て、1950年代には離乳食や療養食が書き加えられた。1960年代からはスターリンの引用が削除された。
1980年代までに300万部以上の売り上げを記録したという。党員数に比例するような売り上げである。上記のレシピだけだとあまり無理の無いレシピのようにも見えるが、ソヴィエトロシアの計画経済はいつも供給物資を大いに偏らせていたし、1980年代の終わりには物が無くなり、名物の行列もなくなっていたという。
1960年代にイギリスで書かれたロシア料理書にはチキンキエフが登場している。
「鶏胸肉4個を用意する。胸肉に溶けたバター1/4オンスを塗りつけ、固形バター1/2オンスを真ん中に乗せる。塩胡椒を振りかけて、バターを包むようにして鶏肉を丸め込み、人参のような大きさと形状にする。両側が開いてバターが出てこないように固く閉じて、冷蔵庫で2時間冷やす。パン粉を用意して広げておき、まず胸肉を溶き卵につけ、その後にパン粉につける。もう一度、溶き卵とパン粉につけて、しっかり付着するまで30分かそれ以上、冷蔵庫で冷やしておく。深底の鍋を用意して、沸騰した油の中で5分間胸肉を揚げて完成」
チキンキエフは1970年代の日本の料理書にもあるから、料理自体はそれ以前のものだろう。
ロシアの揚げ物は、あまり歴史を感じさせない。
料理書を書く文化的エリート層の出現は比較的遅く、また王侯貴族はその食事を外国人コックの調理に依存していた。そのため料理書の翻訳自体は17世紀頃には既に行われていたものの、19世紀に至るまで彼ら自身が伝統的な料理法を書き記すことは殆ど無かった。
ロシア料理は大体フランス風か中央アジア的なものばかり有名だし、料理の歴史的背景には19世紀以降に彼らが料理書を作るときに生み出された伝説が頻繁に混ざりこみ、頻りと混乱を招いていた。




