表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
揚げ物語  作者: そらが
21/24

21.中華料理の成立

 19世紀は中国の料理にとっての転換期だった。1860年に起きた戦争の後、清では英書を中心に輸入と翻訳が行われるようになる。主要な翻訳は自然科学系だったが、料理書も訳された。


 1866年頃に中国で最初の西洋料理書「造洋飯書」が出版される。中国に無い料理については現在の翻訳とは異なり、パイを「排pai」、ア・ラ・モードを「阿拉馬a la ma」と直訳している。同様に揚げ物として直訳で弗拉脱(フリッター)托納熾(ドーナツ)が紹介されている。

 フリッターは「鶏卵4個を割って卵黄と卵白を分け、卵黄に牛乳3杯を加える。小麦粉1斤をボウルに入れて、卵黄を加えて攪拌し、塩を加え、続いて卵白を加えて混ぜてフリッターにする。鍋にラードを注ぎ、沸騰したら1匙ずつフリッターを入れていき、揚げる。食べるときにはシロップを加える」

 ドーナツは「バター12両、砂糖12両、牛乳6杯、鶏卵4個、酵母1匙、好みの味付けの香料を混ぜて、小麦粉を加えて饅頭の厚さに整えて、暖かいところに置いて発酵させ、半寸の厚さになったら碁石の塊になるように切り分けて、沸騰した油で揚げる」

 中国の西洋料理店は1860年創業の香港太平館が現在も残っている。元は広州市にあったという。上海にも有ったようだが、1876年出版の滬游雑記によれば、少なくともこの頃の上海では中国人の庶民は西餐を利用しようとしなかった。


 西洋料理の技法は20世紀初頭には理解されていたようで「食譜大全」をはじめ何冊かの中華+西洋料理書が出版された。

 ところで1917年出版の「清稗類鈔」にある調理法は1912年出版の「食譜大全」と異なり、中華風のアレンジが加えられている。

 その中にある揚げ物「炸豬排」は「わき腹の肉から骨を取り去り、長さ3寸、幅2寸、厚さ半寸の塊に切り取り、小麦粉を十分につけてから、鍋に大量の油を入れて揚げる。食べるときには自分のナイフで小さく切り分けて、胡椒と醤油をつけて食べる」というからトンカツっぽい何かのようだ。ナイフを使って食べるから洋食由来だろうから折衷料理に見える。既に洋食の料理書が何冊も出ているのだから、洋食を理解せずにレシピを作ったというわけではないだろう。

 とはいえ1917年出版の「烹飪一斑」にある洋食はどれも西洋風の味付けだし、1922年出版の「家庭常識万実全書」にある「炸排骨」は随園食単の「排骨」に似た中華風の素揚げ。

 1948年出版の「食譜秘典」にある「炸猪排」も同様である。一応、溶き卵と米粉で作ったバッター液に肉をつけて揚げるものはあるが、溶き卵とパン粉を使って揚げるのは1966年の「大衆菜譜」からになるようだ。

 一般的な中華民国の揚げ物は醤油などで味付けしてから素揚げにして、米粉や豆粉によってとろみをつけた酢と醤油とネギのソースを加えて少し加熱するもので、調理法を「溜」という。ソースには砂糖や胡麻油、黄酒、塩、生姜の何れかを加えることが有る。


 また1917年出版の「家庭食譜」にて中華料理書では初めて調味料の分量が書かれた。西洋料理には触れられていないようだが、使用する調理器具の中には洋風の皿やオーブンが書かれている。

 揚げ物には例えば「春巻」があり「主な材料は春巻きの皮半斤、霜降り豚腿肉1斤、韮の芽4両(またはマコモ2両)。まず春巻きの皮を買って来て、これをこしきで半熟に蒸す。出来るだけ広げて裂き、その後で肉を上に置く。肉はそれぞれ薄切りにして細長く切り、水で洗って鍋に入れ、火が通るまで炒め、そして黄酒を加えて蓋をして、香りが出てきたら蓋を開けて、醤油と水少々を加え、再び蓋をする。十分焼いたら味を確かめ、砂糖を少し加えて、鮮味を持ち、肉がグダグダになったら掬い取り、韮の芽や醤油などを和えて、肉絲が出来上がる。これを春巻きの皮で包んで、油を入れた鍋で再び煎る。両面が黄色くなったら良く、これを食べると非常に味わいが強い」という。

春巻という名は1909年に日本で出版された「日本の家庭に応用したる支那料理法」の方が先に有るが、レシピは大きく違う。

「家庭常識万実全書」ではまた「春餅」という名で春巻があり、家庭食譜の春巻と良く似たレシピだ。1934年出版の「家庭新食譜」では春餅と春巻を別に書いている。春餅は言葉通り餅状にして、春巻は捲く。

 家庭食譜著者の李公耳は1923年に西洋料理書「西餐烹飪秘訣」を書いているが、まだ確認できない。


 民国初期の上海では、大きな経済的発展に伴い中国の各地方の料理店が続々登場した。中国の地方料理自体は清代に生まれていて、同時代の知識人たちによって様々な批評が寄せられている。

 例えば四川料理に触れたものには1909年出版の「成都通覧」がある。どうやら市街で1,2文払うだけで揚げ物を食べることが出来たようだ。レシピは無いが「虾子糕」はオキアミを混ぜ込んだ餅だろうし、「豌豆糕」はえんどう豆を混ぜた餅だろう。どちらも油炸品と説明されているから揚げ物になる。またここで高級料理とされる饊子はつまり寒具で、調理法は以前触れた通り。

 北京、済南辺りの料理書もあるようだが、確認できない。

 他に和書の1911年出版「最近支那事情」には北京、寧波、南京、広東、天津の料理が軽く区別されている。寧波料理の炸八塊は「随園食単」や「清稗類鈔」にある灼八塊と似たようなものだろうか。随園食単のレシピは「若鶏1匹を八つ切りにして、沸騰した油でさっと炒める。油を取り去り清醬1杯、酒半斤を加えて煮込む。水を用いず、強火を用いる」という。「炸」に変えれば揚げ物になるか。


 同時期に、中華の料理書がアメリカで出版されるようになった。中国人のアメリカ移住は1850年代から始まっていたが、当初の仕事は炭鉱夫やクリーニング屋だった。1882年に排斥法が施行されると彼らは再入国できなくなるが、1915年に料理屋での就労が認められると、彼らは料理人として出稼ぎに来るようになった。

 例えばアメリカに移住した中国人チャン・シウウォンは1917年に「中菜指南」を出版している。

 ここにある「炸蝦」は「蝦2ポンドと卵2個とコーンスターチ1匙を混ぜる。塩を加え、沸騰した油で茶色くなるまで揚げる。グリーンペッパーを蝦と同じ位の大きさに切って2分間フライパンで炒めてから、揚げた蝦を加えてよく混ぜる。中華風グレイビーソース(コーンスターチ1匙を冷水少々で溶き、豚肉と鶏肉を煮込んで取った出汁1カップを加えて煮込む。そして醤油、塩、砂糖、胡麻油を加えて混ぜる)をかけて、10分したら完成。パセリを添える」という。

 アメリカ移住者に広東系が多かったためか、揚げた豚肉や鶏肉を、パイナップルや野菜と共に、砂糖と酢による甘酸っぱいソースで煮る酢豚的なものがよく料理書に書かれている。

 例えば「中菜指南」には「波羅雞」として「鶏、パイナップル1缶分、胡椒、セロリ2カップ、生姜1カップを1と1/2インチの長さの細切れに切る。卵2個を割って、鶏肉と混ぜ、次いでコーンスターチと塩を加えて混ぜる。それから沸騰した油に入れて、黄色くなるまで揚げる。パイナップルと胡椒、セロリ、生姜をフライパンに入れて2分間炒める。そこに揚げた鶏肉を加えて良く混ぜ、黄酒1/4カップを加えて5分間加熱する。それから酢1/2カップと砂糖少々を混ぜたスープを加えて、水分が1カップ分になったら完成」

 1941年出版の「広東風家庭中華料理」にはエッグロールもある。春巻のレシピの書かれた料理書も幾つかあるが、味付けにはオイスターソースでは無くソイソースを使う。


 一方、日本では1870年代に華僑が料理店を出すようになったときには、とても評価が低かった。当時の料理書では卓袱料理という扱いで、どれも家畜肉を使わない和食風。

 中華料理といえるのは1909年に出版された「日本の家庭に応用したる支那料理法」からのようだ。料理名も中国語だし、また中華料理書で見たような料理も有る。

 揚げ物の名を探すと「炸丸子」「溜酢鶏」「炸銀魚」「春巻」「炸大蝦」などがある。調理法のテキストは国会図書館デジタルアーカイブで公開されているから一々書き出さない。

 ただここにあるように溶き卵と小麦粉(メリケン粉)を混ぜて揚げる方法は、中華風の揚げ方ではない。天麩羅のようにして揚げることに慣れていた当時の日本人向けにアレンジしたのだろうか。日本の中華料理店では、営業主が日本人のときもあったが、コックには中国人が雇われた。1910年には有名な来々軒が創業するが、ここに勤める中国人コックたちも日本人向けの料理を作るのに頭を悩ませたという。

 1920年代頃には、中華料理が持て囃されるようになる。それまで中華料理店は小汚いとか油っぽいとか評されていたのだが、評価の向上に伴って中華料理書も多く出版されるようになった。和食・中華・洋食の三種を一冊に纏めることも多かったから、三大料理みたいに扱われた。

 1926年の関東大震災で中華街が大きな被害を出した後、新たに訪れた華僑たちは主に床屋や仕立て屋、そして人気が出つつあった中華料理屋を始めた。

 料理書では「から揚げ」が和食扱いされている。味付けしてから素揚げにする竜田揚げも見えるが、むしろこちらの方が中華風に近いように思う。酢豚には、片栗粉を使う良く知られたものと、豚肉を揚げないものがある。 戦時及び戦後初期を飛ばして1950-60年代になると、横浜中華街の料理店は再び増加し始める。この頃から支那料理ではなく中華料理と呼ばれるようになった。

 1959年出版の「中国料理」を見たところ、酢豚だけでなく油淋鶏のレシピもある。他にも片栗粉を塗して揚げた豚肉にケチャップを使った甘酢餡をかけたりする。

 春巻にオイスターソースを使うのが伝わったのはもう少し後だろうか。70年代の料理書なら確認できる。


 中国では、1950年代からは各地の中華料理を整理した「中国名菜譜」が出版される。大体良く知られた基本的なものはここにあるようだが、書籍が無いので確認できない。和訳も有る。

 そして文革期には「大衆菜譜」だけがプロレタリアートの規範的な調理法となった。

 ここにある揚げものは例えば「糖酢古老肉」で「唐辛子5銭を縦半分に切り、種を取って洗う。筍を洗ってオリーブの形に切る。豚肉から皮を剥いで洗い、十字に切れ目を入れてから指筋1個半分の大きさのオリーブ状に切る。塩に15分浸けてから溶き卵を加えて絡ませ、澱粉2両を加えて混ぜる。鍋に油2-3斤を入れて沸騰したらすぐに豚肉を入れ、金色に揚がったら取り出す。ついで筍を鍋に入れて少し揚げてすぐに取り出す。鍋に油を少々入れて、大蒜とネギを入れてさっと強火で炒め、唐辛子を加え、糖酢を加える。沸騰したら澱粉2銭を加え、また沸いてきたら豚肉を入れて絡めて完成」という。

 「油条」は「塩3両とソーダ1.5両と明礬3両を水6.5斤で溶き、小麦粉10斤を加えて15分おき、光沢が出るまで水で濡らした手で捏ねる。2時間寝かせてから、細長い形にして、半両程度になるよう短く切り、

二つずつ重ねて木の棒で押さえて長さ7寸に引き伸ばす。油を入れた鍋の中に入れて、ずっとかき回しながら揚げて、金色になったら出来上がり」

 他に「溜丸子」「溜麺筋」「炸猪排」などがある。「炸猪排」は小麦粉と溶き卵とパン粉を使うリブロースの揚げ物だが、予め塩と酒に浸け、ソースには辣醤油や甜麺醤を使う中華風になっている。

 文革の間、他に料理書は出版されなかった。そして改革開放後には出版が再開して旧来の料理が復帰し、また1980年代には再び地方料理に目が向けられ、改めてカテゴリー化された。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ