17.イタリア料理のリソルジメント
1790年、フランス革命の只中、ルイ17世を受け入れつつも中立を保っていたヴェネツィアで、フランチェスコ・レオナルディの料理書「現代のアピキウス」は出版された。膨大なテキストの料理書で、その中には沢山の揚げ物がある。
フリテッレは2種類有り、残りはベニエと書かれる。
フリテッレには米とパスタがあり、どちらも水を加えてペースト状にしてからパンケーキの形に整えて揚げ、粉砂糖を振り掛ける。ベニエは小麦粉か米粉に卵やクリームやミルクを加えてから揚げるし、中身にリンゴやアーモンドなどの具を詰める。
またパン粉を使うエスカロップ──つまり骨抜きのコートレットのベニエのレシピがある。
「乳飲み仔牛肉のエスカロップ」は「エスカロップを胡桃程度の大きさに切り、冷たいブイヨン、ビネガー、玉葱のスライス、粉々にしたパセリ、ローリエ、ニンニク2片、タイム、バジル、塩胡椒と混ぜる。2時間漬けた後、乾かし、小麦粉と溶き卵に漬け、美しい色に揚げる。小麦粉と溶き卵につける代わりに、卵につけてからパン粉で包んで揚げても良く、出来上がったら炒めたパセリを添える」
他にラム肉や子ヤギの肉にパン粉をつけて揚げることがある。普通の牛肉だったり鶏肉、兎肉にはパン粉をつけずにバッター液に浸けて揚げる。
そしてフランスやドイツよりも早くにポテトのクロケットのレシピが登場する。
「じゃが芋を使ったイングランド風クロケット」は「じゃが芋3ポンドを灰の中で焼く。それからナイフで砕き、モッツァレラチーズ、バター1/2ポンド、塩、胡椒、ナツメグと共に鍋に入れ、火にかけてペーストになるように調理する。それから鍋の蓋の上でこれを広げ、モスタッチョーリのように菱形に切るか別の形に切り、溶き卵と共にラードでカリカリに揚げる。そしてアントルメ、またはイングランド風牛ロース、もしくはローストビーフと共に食卓に出し、グレービーソースに浸す」
つまり近世末期イタリアにおいてグレービーソースが即ちイングランド風という扱いになっている。
イングランドには一種類のソースしか無いという誰某の評は多少不正確だったとはいえ、他所ではそう看做されていたのだろう。別にクロケットがイングランドに無くても良い。
他にもじゃが芋のベニエやフライが有る。
じゃが芋のベニエは「鍋に火をかけ、2,3個の灰の中で焼いたじゃが芋をナイフで砕いて足し、剣玉の玉と同じくらいの大きさの卵と共にかき混ぜる。仕上がったら幾つかの卵を一度に加えてペーストのようにする。続いて鍋の蓋の上に転がしてスプーンでベニエのような形にする。熱すぎない程度のラードの中に、何個かずつ入れて良い色になるまで揚げる。揚がったら取り出して、砂糖を振り掛ける」という。
フライの方は「じゃが芋をスライスにしてから水に浸けておく。そして使うときに取り出して小麦粉を塗して、バターの中で揚げ、すぐに食卓に出す」
1803年にローマで書かれたヴィンチェンツォ・アニョレッティの「最新節約料理」においてオードヴル用のフリットゥーラ、アントルメのためのベニエとフリテッレが分けられる。
フリットゥーラには鶏肉や魚肉、牛タン、脳などのミンチを酢漬けにしてからバッター液や小麦粉をつけて揚げるもの、スライスして小麦粉をつけて揚げるもの、仕上げにパルメザンチーズを塗すものが有る。
それに対してベニエとフリテッレは明らかに菓子で、多くの場合甘味を中に詰めるか、仕上げに砂糖を振り掛ける。ここでもパスタや米を使うものがフリテッレとして扱われ、それ以外がベニエになる。
1826年にミラノで出版されたアントニオ・オデスカルキによる「素朴な料理人、つまり簡単で節約的な料理」以来、イタリア料理書には揚げ物の項目が作られた。またベニエが無く、果物やアーモンドを加えて作るフリテッレには砂糖を塗して仕上げる。
例えば「フリッテリ」は「1/4リットルの米にミルクを加え、濃縮するまでとろ煮で減らしていく。飲めるぐらいに冷めたら、2ダースのアーモンドを加えて、米のようになるように砕く。それらをボウルの中で混ぜたら、その半分より少し多い程度の薄力粉、3つ程度の卵、塩少々、白ワイン、適量のミルクを加える。全部混ぜ合わせて、硬すぎず柔らかすぎない程度に調節し、必要ならレモンピールを半分加える。それからバターで揚げるために、平均的なティースプーンでフライパンの中に少しずつ注いでいく。トルテッリを作るようにして、ひっくり返しながら良い色になるまで揚げる。出来上がったら取り出して、粉砂糖を振りかけて完成」とある。
そして揚げるコートレットがイタリアの料理書の中でようやく登場し「牛肉、子牛肉、豚肉または羊肉のコートレット(骨付きリブロース)を切り取って準備し、よく叩いておく。それからバターと少量の油を入れたケーキ型を用意して、コートレットを揚げるときのためにパン粉に浸す。揚がったら、そのままもしくは何らかのソースをかける」という。
多分、これが後のミラノ風コートレットを示すのだろう。ミラノ風コートレット自体は1134年から有ったといわれるが、名称からの推定である。以降もマルティーノやスカッピのレシピを参照して起源を主張するが、調理法はこれ以上に今のコートレットとは離れている筈で、また見た感じ揚げていなかった。
1829年に出版されたジョバンニ・フェリーチェ・ルラスキの「ミラノの新料理書」において、フリットゥーラはリソルと共に揚げ物の項目に、ベニエやフリテッレは揚げ物ではなくお菓子の項目に入る。
他に少なくとも「簡単で制約的で健康的な、フランス、リヨン、プロヴァンス、ドイツ、そしてイタリア風の料理」「季節毎の節約的で健康的な料理」が出版されているが、目立った揚げ物は無いように見える。
当時、まだイタリアでは中産階級は多くなかったが、苦難を乗り越えて自由と独立を目指すという当時の文芸の表象に倣い、節約という言葉はよくタイトルに用いられていた。
ナポリでは1839年に「料理理論」が出版される。両シチリア王国の傘下にあったこの都市でも自由の兆しはあったが、まだ果たせなかった。
著者のイッポリート・カヴァルカンティは貴族であるが、1839年の日々の食事リストに金曜日や四旬節で無いにも拘らず魚料理が度々振舞われていることを見ると、庶民的で控えめである。
レシピの方ではベニエではなくフリテッレが再び使われる。傾向はミラノの料理書と異なり、小魚やコーヒー、クリーム、栗、リンゴ、桃、洋ナシを使うものや、ローマ風と称される、オレンジのすりおろしを加えるものがある。
ロシア式サーヴィスもイタリアの料理書で初めて紹介されているが、フランス式サーヴィスの紹介と比較すると、あまり重きは置かれていない。
第一次独立戦争を経た後の1854年、サヴォイア王家の料理人ジョバンニ・ヴィアラルディは、その料理書「料理の規則」の冒頭でフランスとロシアの両サーヴィスを紹介し、ロシア式ならば食事を出す順序、フランス式では食べ物毎の配置規則を提示する。カヴァルカンティのものと同様、貴族向けの料理書だが、格が違うためかメニューは派手である。
揚げ物には、フランス風のビルロアや、パン粉を使う魚のフライ、牛の口蓋クロケットに、ロシア風クロケットや挽肉と野菜入りのクロメスキ、そしてフィレンツェ風カエルや魚のフリットゥーラ、ジェノヴァ風胸腺肉のフリットゥーラ、ミラノ風子牛肉のコートレットのフリットゥーラなどのイタリアの揚げ物が見える。
「子牛肉のコートレットのフリットゥーラ」は「指程度の厚さの14個の良いコートレットを切り取り、神経、皮、脂身を取り除いて、軽く叩き、そして良い感じの形に整え、また指三本程度の長さの骨に切って洗う。溶き卵3個、塩少々、胡椒をコートレットに塗るが、骨には塗らないよう注意する。パン粉をよく塗し、鍋の中の澄んだバターの中に入れる。強火で揚げ、一度ひっくり返す。良い色に揚がったら取り出して、皿の上で骨を立てて12個のコートレットを円形に配置し、王冠のようにする。ソースを少々かけるか、アスパラガス、豆、エンダイブ、ヒメスイバ或いはピューレを添え、温かいうちに食卓に出す」という。
ベニエは12種類有るが、その内2つ──オーブン焼きにするものがフリテッレと注釈されているようだ。ベニエの中身にはそれぞれレモンピール、シナモン、栗、ジャム、リンゴ、洋ナシ、オレンジ、桃かアプリコット、ラズベリーかストロベリー、モッツァレラチーズを使っている。
例えば「ベニエ・ア・ラルマンド」という揚げ菓子は「小麦粉60グラム、砂糖100グラム、レモン果汁、塩一つまみ、そして少なくとも3/5リットルのモッツァレラチーズを混ぜ、少し柔らかい感じのペーストになるまで30分以上ゆっくり煮る。量が減ってきたら、卵黄3個、バター45グラムを加え、布で漉し、砕いたマジパン30グラム、レーズン100グラム、正方形に切ったシトロン30グラムを加える。バターを塗ったケーキ型の中に入れて冷まし、捏ねて、パン粉をつけて揚げる」とある。
1861年、イタリアは一部を除く形で独立し、5年後にヴェネツィアを、9年後にローマを加えると、首都はトリノから一時的な首都フィレンツェを経てローマに移った。新興のブルジョワ層はまだ薄かったが、王国は彼らの導きによって立ち上げられ、統一性の無い統一国家が生まれた。
そうしたブルジョワジーの一人ペッレグリーノ・アルトゥージは、1891年にイタリアの諸地域のレシピ集成「料理の科学」を出版する。
「料理の科学」は統一というイメージを料理とそして言語上の意味合いで後押しし、その後のイタリアで最も支持されて長く読まれた料理書になった。
料理書を見ると、アントルメにはコートレット、そして魚料理の章にはタラなどのフライがある。
そして揚げ物の章には二枚のコートレットの間にベシャメルソースを挟んで揚げる挟みカツや、ローマの祝宴料理カスタニョーレ、イタリア風ドーナツのチャンベッラ、ドンツェリーネのレシピが紹介されている。
「コストレッタ・インボルティッテ」は「乳飲み子牛肉のコートレットか、鶏または七面鳥の胸肉を薄切りにして、良い形になるように叩いてから押し潰す。乳飲み子牛肉ならば赤身肉170グラムで骨抜きにしたものを6,7個用意する。バターでゆっくり炒めてから、横に置いておく。小麦粉70グラム、バター20グラム、ミルク2dlでベシャメルソースを作り、火を消して塩を足し、パルメザンチーズ1匙と卵黄を加えてよく混ぜる。出来上がったら、薄切り肉に、油に浸したテーブルナイフの刃で均等にコイン程度の厚さに塗って、両側から薄切り肉で覆って挟む。そして卵入りミルクセーキに浸けてから、パン粉を塗して、油かラードで揚げる。レモンの薄切りを添えて完成」
「カスタニョーレ」は「卵2個、水2匙、ベーキングソーダ2匙、バター20グラム、砂糖20グラム、塩一掴みを用意する。鍋の中に卵黄、砂糖、ベーキングソーダ、水、塩を入れる。軽く混ぜ合わせてから小麦粉とバターを加え、手で捏ねてペースト状にする。生地を寝かせて膨らませてからクルミ大の大きさの砲丸を作って、ゆっくりと揚げる」
1877年に一昨年の選挙で公約に掲げられていた初等教育法が施行されると、どん底の識字率は19世紀の末に漸くまともになり、女性の手による料理書はそこでやっと書かれるようになる。
そしてイタリアの比較的庶民的な料理は、工業化に伴って出現しつつある中間層、そして下層の上澄みによって育まれていった。