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揚げ物語  作者: そらが
16/24

16.双頭鷲のシュニッツェル

 ハプスブルクの料理は、特徴的な要素と言う意味合いにおいて、17世紀前半の長い戦争が終わってから始まった。

 1686年にウィーンで出版された「料理と薬の本」は、多くの面で16世紀(第8部分)からの強い継続性を示す。しかしアーモンド入りのクラプフェンとストラウベンのほか、新たな揚げ物として、ラードで揚げる鶏料理「バッケンヒューナー」がある。

 これは「鶏と動物の腿肉を叩き、水に一晩漬けてからビネガーを振り掛け、小麦粉を塗してラードの中で揚げる。そして熱したラードで焼いたパセリを添える」という。

 ウィーン料理バックヘンドルの前身だろうか。ただしパン粉は使わない。


 1719年に出版された「ザルツブルク料理の本」には「パンのスライスとパルメザンチーズを添えた牛肉のシュニッツェル」がある。

 これは「良い肉塊から切り取ったシュニッツェルを、良く叩いて広げる。塩を振りかけ小麦粉を塗して、油の中で美しい黄色にする。パン粉を塗しておいても良い。薄切りにしたパン、揚げたシュニッツェル、鉢の中で砕いたパルメザンチーズを用意し、スパイスを振り掛ける。チキンスープを注ぎ、煮詰めて出来上がり」という。

 叩いて(シュニッツェル)のようにするシュニッツェルの起源はともかく、オーストリアでパン粉を使って揚げるのはこれが最初の例になる。

 また「小さい雌鶏を四つに切り分けて、溶き卵につけ、塩を加えて再び溶き卵に浸け、パン粉を塗して美しい金色に揚げ、すぐに食卓に出す」という溶き卵とパン粉をつけて揚げるバックヘンドルが登場する。

 この本にはラグーやポタージュ、フリカッセといったフランスの用語が少なからず見えることから、フランスの影響は窺える。とはいえ料理書の中にサーヴィスは書かれておらず、また皿の並べ方やマナーにも触れられていない。そのために宮廷の食事作法においては両地域で大きな隔たりがあった。


 マリア・テレジアの即位した1740年には「役に立つ料理の本」がウィーンで出版された。この中には最初のシュニッツェル料理のレシピが2種紹介されている。一つは前述の「パンのスライスとパルメザンチーズを添えた牛肉のシュニッツェル」で、もう一つは「牛肉のシュニッツェル入りレモンスープ」である。

 こちらは「牛肉からシュニッツェルを切り取り、塩胡椒を振りかけ、小麦粉とパン粉を塗して、油の中で美しい金色に揚げる。鉢の中でバターを溶かして、シュニッツェルを美しく整える。これに薄切りレモンの果汁、葡萄、溶かしたアンチョビ、ミルククリームを加えて食卓に出す」という。

 クラプフェンを少し見てみると「ブランド・クラプフェン」は「ミルクを用意し、新鮮なバターを加えて煮る。スプーンで小麦粉を加えてかき混ぜ、生地を作る。このとき攪拌しても良い。生地を摘み取らずに、火を消して冷ます。卵をゆっくりとかき混ぜ、生地の中に加える。よく混ざったら塩を振りかけて、熱すぎない程度の油の中に入れて揚げる」とある。


 18世紀末には中・下層の識字率の向上に伴い、主婦向けを意識した料理書が多く書かれるようになった。つまり古い慣習を取り止めてフランスのコック長を雇うようになっていた宮廷や金持ちではなく、都市中産階級のための料理なのだが、こちらでも料理名にはフランス語とドイツ語の名が併記されることが有った。ただフランス式サーヴィスは無く、クロケットやベニエのようなものは見当たらないし、どこか中途半端な様子ではある。

 1787年出版のマリア・アンナ・ルディシュによる「実践済み料理書」には、中に具を詰めるシュニッツェルや、挽肉で作るシュニッツェルがある。

 クラプフェンには例えばバター・クラプフェンがあり「小麦粉2.5パウント、バター0.5ポンド、卵2個、ミルククリーム3匙、クローブの粉末、レモン、そしてワインを混ぜて生地を作り、ナイフで四角く切って、型の上に置いてリボン状に結ぶ。鍋でラードを熱し、生地を入れて良い色になるまで揚げる。それから取り出して、砂糖とシナモンを振りかけて出来上がり」という。

 またマリア・アンナ・ブッフヴァルトによる1804年の料理書「肉料理と断食日の新しい料理書」のレシピには、オブラート・ヴルストという油の中で揚げるソーセージがある。

 「まず胃袋を細かく刻む。ラードを用意して、熱し、よく刻んだパセリを入れ、そして濡らしたパンを加えてかき混ぜる。それから胃袋を加えて煮て、小麦粉少々を加え、そして牛肉のブロスを注ぎ、胡椒を加えて沸騰させる。少し経ったら冷まして、卵黄をその中に入れ、かき混ぜる。そして作りたいソーセージの大きさに合わせて生地を切り、ソーセージと共に胃袋を充填し、溶き卵の中に浸け、パン粉を振りかけ、ラードの中で茶色く揚げる」という。

 「油の中で(或いはバターの中で)」揚げるという表現は、少なくとも17世紀には有った。「肉料理と断食日の新しい料理書」においてクラプフェンの製法は区別されていて、油の中で揚げる一般的なクラプフェン(スプリッツ・クラプフェン)と、オーブン焼きにするアイス・クラプフェンが分けて書かれた。



 オーストリア帝国に移行した後は、ドイツ諸邦がナポレオン戦争の影響で郷土意識が強くなるのに伴い、その地名の名を関した料理書が出されるようになったのと同様に、オーストリアでもティロル、リンツ、グラーツ、シュテッティン、そしてボヘミアなど帝国諸領域の料理書が見られるようになる。ただしハンガリーの料理書は昔からあったようだ。

 料理は基本的にウィーン料理のヴァリエーションで、時々ウィーン料理同様にフレンチの要素が混じる。

 例えばチェコ人マグダレーナ・ドブロミラ・レッティゴウァーが、1826年に書いた「ボヘミアとモラヴィアの家庭料理本」にはよく叩いて揚げるシュニッツェルの他に、子牛の足肉のスライスに小麦粉と溶き卵、パン粉を塗して揚げるものがあり、レモンの薄切りを上に添える。他にカリフラワーやクネードルを揚げる。

 ハンガリー料理のランゴスは、第12部分で触れたトルコの揚げ物ラランガのヴァリエーションで、17世紀頃の到来といわれる。勿論、ウィーンでも食べられていた。また鶏のラーントットつまりバックヘンドルのような揚げ物がある。チュルゲという揚げクッキーもあり、いつ頃からか判らないが、傾向はウィーンの揚げ菓子に近い。


 ウィーンでは都市中産階級が、宮廷の官僚主義からの排斥や経済的・社会的抑圧を背景にして、ささやかな文化の指導者となる。極めて男性的な文化だったというが、料理文化は彼らの料理人だけでなく、バックヘンドルという揚げ物名を最初に採用したマリア・エリザヴェータ・マイクスネルのように、主婦によっても牽引された。

 1824年に出版された「良い料理の指南書」にポテトコロッケがあり、カレームの料理書より少し早い。

 これは「じゃが芋のペーストを指くらいの大きさに捏ねて、塩をかける。それから溶き卵につけ、パン粉をまぶして熱したラードで揚げる」という。

 また「最新のあらゆる料理または大ウィーンの料理書」にはプンシュクラプフェンやチョコレート・クラプフェンがあるが、どちらも揚げない。


 1855年の「ドイツ料理またはイタリア料理のための完全なティロルの料理書」にはカイザー・シュニッツェルを含むいくつかのシュニッツェルがあるが、いずれも揚げない。

 揚げるものの中には牛のレバーや足のスライス、そして鶏肉の揚げ物とソーセージとリソルがある。

 鶏肉の揚げ物「ゲバッケンヒューナー」は「洗った鶏を用意して、1時間水に浸けた後、四つの部分に切り分ける。塩を振りかけ、小麦粉を加えてかき混ぜる。小麦粉は多く入れすぎないようにする。そして半量の水と混ぜた溶き卵に浸け、パン粉を塗してラードの中で手早く揚げる」

 パン粉につけて揚げるリソル「オブラーテン・リソル」は「大きな生地を指三本分の大きさに切り、水につける。冷めたラグー若しくはハッシュを乗せて丸めて、揚げる時に剥がれないようによく握る。溶き卵に浸け、パン粉を塗してラードの中で揚げる」というからリソルというより包み揚げになる。



 ヴィーダーマイヤーは1848年に終わったが、失われたのはそのささやかさで、社会的な分断は残りつつも、経済的抑圧の去ったウィーンでイギリスに強く依存した産業発展が始められた。

 世紀末ウィーンの文化はその結実で、まるで集大成かのように2000品近いレシピを載せた「ウィーンの料理書」が出版される。

 その1883年出版のルイーズ・ゼレスコヴィッツによる「ウィーン料理」において、ようやくウィーナーシュニッツェルや祝宴用(ファッシング)クラプフェンといった、よく知られた揚げ物の名が登場する。バックヘンデルは相変わらずゲバッケンヒューナーと呼ぶ。

 ウィーナーシュニッツェルは簡潔に「1インチほどの厚さに切り取ってから木製の棒で叩き、小麦粉と胡椒を両面に塗す。それから溶き卵に浸け、パン粉を塗して、熱した油で揚げる」とある。

 祝宴用クラプフェンは大量にまとめて作るクラプフェンのことだという。またクラプフェンそのものには、細長くして捻るものや、ブランデーを使うもの、クリーム、チョコレート、エルダーベリー、ラズベリー、アーモンド、インド風のものが列挙される。インド風といってもカレー粉は入れない。

 ウィーン風コートレットのレシピもあり「コートレットに塩ををまぶして、小麦粉につけ、溶き卵に浸けてからパン粉を塗して熱したラードに入れ、穴あきスプーンでひっくり返して一面ずつ揚げる」という。

 一方で、フランスから伝わっただろう大量のクロケットのレシピがあり、魚肉、ラグー、牛肉、卵、じゃが芋、米、ヌードル、栗、フリッタータ、プラムのクロケットが挙げられている。



 最初の大戦において食糧事情はそれなりに考慮された。

 1915年の「オーストリアの戦時料理書」という料理書に於いて、豚肉と牛肉よりも羊肉を薦めること、小麦粉を別の穀物の粉と混ぜて使うこと、保存の効く食べ物の利用、そしてじゃが芋が推奨される。

 例えば「エルトアプフェル・クラプフェン」はそのままじゃが芋のクラプフェンという意味だが「200gのじゃが芋、バター100g、砂糖100g、卵3個、パン粉50g、レモン1個、膨らし粉少々、そして揚げ用の卵2個とパン粉、ラードを用意する。ジャガイモを煮て、皮を剥き、よく潰したら冷ます。バターをよくかき混ぜてクリーム状にし、卵の黄身、砂糖、レモンピールの微塵切り、そして最後に潰したじゃが芋とパン粉、メレンゲ、膨らし粉を加える。生地を30分以上寝かせ、それから指でドーナツ状になるよう真ん中をくりぬく。溶き卵に浸け、パン粉を塗して、金色になるまで揚げる。仕上がったクラプフェンに砂糖を振りかけ、ラズベリーシロップかチョコレートソースをかける」という。


 理想の料理書はほぼ毎日の肉料理を約束したが、戦争は期待より長く続いた。

 パンと小麦の配給制は1915年の末に始まる。ロシアの攻勢によって帝国東部の農業地帯が脅かされた後、1916年の末には新しい公共市場(ナッシュマルクト)がウィーンで設立されるが、それはじゃが芋を求める長い行列と売る物の無い店舗を生み出し、闇市場が必要になった。

 ハンガリーの豊かな穀倉地帯に依存したオーストリア都市部の食糧事情は、1917年には宮廷の背信行為に基づいて不足を来し、翌年の飢えは避けようもなく起きた。カポレットの勝利にも拘らず過大な援軍によってイタリア戦線は膠着し、決定的なバルカン戦線の崩壊後、非ドイツ系諸民族の軍隊は飢餓と故郷──つまり社会主義と民族主義のために離散する。

 オーストリアは降伏し、帝国は解体された。

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