15.古典フランス料理の完成
未完の「19世紀フランスの料理」は、カレームの弟子アルマン・プリュムレによって1843-1845年に続きが書かれた。揚げ物はこちらの方が遥かに充実している。
「子牛のミラノ風コートレット」は「子牛のコートレットを基本的なやり方で味付けしてから、澄んだバターにつけ、そして軽くパン粉をつける。それから卵4個を溶いて濾過したものにつける。続いてパン粉とパルメザンチーズを半々に混ぜたものを準備し、コートレットにナイフで良く塗りつける。食卓に出す20分前に、ソテー用の鍋を用意して、押し付けないようにして澄んだバターの中で揚げる。一度だけひっくり返し、美しい金色になったら取り出し、油分を抜いてドミグラスソースかトマトソースで装飾し、牛ヒレ肉のソテーに添えるマカロニのように、マカロニを添える」という。
既にこれまでの部分で触れたように、揚げるコートレットは前世紀から存在していた筈だが、現代において今の所認知されている揚げるコートレットはこれが最初にされている。
他に子羊や子牛の胸腺肉のビルロワ、タラやボラ、カワカマス、カワメンタイ、鯉のアングレーズがある。
例えば「タラのアングレーズ」は「6匹のタラを取り出し、パセリ、エシャロット、塩胡椒、タイム、ローレル、オリーブオイル2匙、レモン2個の果汁にこすり付け、何度か叩きつけて味付ける。食卓に出す20分前に、食材に貼りついた調味料を取り去らないようにして無く水分を抜く。小麦粉をつけ、溶き卵につけて、弓状に形作りながら2つのポットの中で軽くパン粉をつける。それから最初の一匹をポットの中に入れて、軽くかき混ぜながら揚げる。良い色になったらすぐに取り出して、残りの五匹も次々と揚げていく。それからトマトソースかペッパーソースを全体にかけて完成」という。
つまりアングレーズ(イギリス風)にパン粉をつけて揚げるのだが、そもそもアングレーズという名の定義は厳密には定まっておらず、第10部分で触れたものを含む色々な料理法やソース──即ちソース・アングレーズに用いられている。
クロケットはカレームの書いた第1-3巻までは料理の添え物として一部が触れられているだけだったが、プリュムレの書き加えた4,5巻ではクロケットのレシピは16種類と多い。
とりあえず列挙すると牛の口蓋、きのこと雌鶏、トリュフと雌鶏、牛ヒレ肉スービーズ風、トリュフと牛肉、子牛の脳味噌、子牛の胸腺ディーノ風、トリュフとヤマウズラ、雌鶏ドーファン風、ヤマウズラのドーファン風、フォアグラ、舌平目、ロブスター、ポテト、宮廷風ポテト、卵のクロケットがある。
また小さいクロケットのような揚げ物「クロメスキ」のレシピが2つある。
一つは雌鶏のクロメスキ、もう一つは鶉のクロメスキである。語感からしてロシア風の呼び名だろう。カレームの書いた部分では「プチ・クロケット」という形で、小さいクロケットの添え物を提案しているが、プリュムレは多分これの名にロシア語を採用した。
19世紀中頃に出版されたロシアの料理書を見ると、幾つかの著名なロシア料理と共にフランスからの影響を受けただろうクロケットがあるが、クロメスキは見当たらない。
そしてポテトフライのレシピがある。
「芋のフリェッテ」は「オランダ産の黄色いポテトを用意して、よく綺麗にする。ラードか油を45分ほど温めてから、火を消さずにポテトを油の中に入れて揚げる。鍋の底にくっつかないように穴あき杓子でときどきかき混ぜる。ポテトが浮き上がってきたら間もなく出来上がりだが、色ずくまでかき混ぜ続ける。いい感じのカリカリ具合になったら金笊に取り出して油分を取り、平皿に乗せてバター2オンスと塩をかける。炒めたパセリを添えて出来上がり」という。
「ポテトの公爵夫人風ベニエ」というのもあるが、こちらはキクイモを使う。
政変が何度起きても、料理の進歩は続いた。そもそも料理人たちが外国に赴くのは近世から行われていたことで重要な変化ではなかったし、最初の革命が起きる前から現存の老舗レストランはあり、利用する飽食ブルジョワはその力を保ち続けた。
1848年にはそれまで積極的に押し広げてきた格差の大きな歪みが実体化する。そして秩序を回復するという名目によって支持を集め、その実現によって迷走を約束された第二帝政は1852年に成立する。
この頃に書かれたジュール・ブルトゥイユの「ヨーロッパの料理人」にはリンゴのクロケットやパイナップルのベニエがある。
リンゴのクロケットは「中くらいのリンゴ(レネット種)の皮を剥いて種を取り除く。小匙1杯の水、刻んだレモンの皮、シナモンの欠片と混ぜる。味がついたらシナモンを取り除き、砕いたリンゴと同量のパン粉を加えて、グーズベリーかチェリーのジャムにつける。生地が良く混ざったら、いくつかのボールを作る。ボールを溶き卵につけ、パン粉で包んで揚げる。いい感じの色に揚がったら取り出して、大量の砂糖を振りかけて完成」
カレームの弟子ジュール・グッフェが1867年に出版した「料理の本」は、家庭料理と祝宴用料理の二章立てになっている。
前者には、これまでに書いたベニエ風ポテトフライと薄切りポテトフライや、カレイやタラやニシンのフライ、牛や羊や米のクロケットがあり、イラストには皿の上に俵のように積み重ねられた30個のクロケットが描かれている。
祝宴用料理の方はより豊富で、ポテト、兎肉、鶏、シビレ、ロブスター、エイ、ヒラメ、雉肉、フォアグラ、そしてミラノ風にパルメザンチーズを使うクロケットがあり、鶏、海老、鮭、シビレ、雉のクロメスキがある。ポテトにはソースを使わず、魚介類にはヴルーテソースを使い、他はエスパニョールソースとアルマンドソースを使い分けている。
パン粉を使わない揚げ物には「ア・ロルリー」があり、例えば「プーレ・ア・ロルリー」は「2匹の鶏のフィレ肉を取り出して、5つのピースに分け、鉢の中で塩胡椒、レモン果汁、パセリ少々、玉葱半分のスライスと混ぜる。それから揚げるためのバッターつまり溶き卵と小麦粉を混ぜたものにつけ、カリカリになるまで揚げる。仕上がったら取り出して、皿の上の布で油分を抜き、パセリを添える。トマトソースかポワヴラードソースと共に食べる。同様の方法で、雉や鳩や兎などのロルリーを作ることが出来る」という。
牡蠣のロルリーは牡蠣のフリッターと同様、ヒラメのロルリーは酢漬けにしてから揚げる、アンチョビのロルリーはミルク漬けにしてから揚げる。
また牡蠣のビルボワがある。
これは「軽く煮てから、二つの皿の間で少し潰し、切断しないように切込みを入れて牡蠣を開く。1/4インチ程度の厚みに減らしたヴルーテソースを用意して、卵とバターで厚みを増やす。それから牡蠣をソースにつけて、冷めるまで皿に置いておく。冷めたら卵とパン粉をつけて熱いラードで揚げる。布の上に置いて油分を抜き、卵とバターを加えたヴルーテソースと共に食卓に出す」
お菓子のフリェッテにはアーモンド入りのカスタードと、オレンジ入りカスタードがある。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の料理人で、一皿ずつ温かい料理を出すロシア式サーヴィスをフランスで導入したユルバン・デュポアが1868年に書いた「あらゆる地域の料理」には、その名の通り各国の揚げ物がある。
例えばドイツのヴィーナーシュニッツェル、ベルリン風コートレット、ウィーン風鶏肉のフリトー、アレマンニ風(ドイツ風)ザリガニのクロメスキといったドイツ料理、インド風クロケット、ポーランド風鶏肉のコートレット、ポーランド風キドニーフライ、ロシア風リソルなどが見える。
ヴィーナーシュニッツェルは子牛のヒレ肉を使い「ナイフの背で叩いてから塩胡椒と小麦粉を塗し、溶き卵につけ、パン粉につけて、澄んだバターを使ってフライパンで揚げて、皿に載せる。それからグレービーソースをフライパンで数分煮てから加え、レモン汁と共に添えて完成」
ベルリン風コートレットは「子牛のコートレットを7,8枚に切り揃え、ナイフの背で叩いてから塩胡椒をかけ、溶き卵につけ、パン粉につけて、6オンスのバターを使って鍋に肉を並べて揚げ、仕上がったら取り出して油分を抜いて皿に載せる。皿の両端に塩水で煮たアスパラガスを添え、バターと小麦粉とパン粉を混ぜて少し炒めて作ったソースをかける」
インド風クロケットはイメージと違ってカレーを使わず、茹でた海老と魚の挽肉をきのこと混ぜて生地に包んでから卵とパン粉につけて揚げる。
カレー粉を使うクロケットはデュポアが1871年に出版した「料理の学校」にある。
「七面鳥のクロケット」は「七面鳥の胸肉を小さなダイス状に切り取り、ブイヨンで煮込んでから乾燥させた同量の米と共に鍋に入れる。カレー粉1匙を振りかけて、蓋をする。2カップ分のベシャメルソースを別の鍋に流し込み、混ぜながらとろ煮して、溶かした砂糖を1匙ずつ段々に入れていく。ソースがよく混ざったら、カレー粉1匙とクリーム少々を入れて仕上げる。肉と米を加え、鍋の火を消して、冷ます為に流し台に置く。固くなってきたらスプーン1杯分を取り出してパン粉を撒いたテーブルの上で転がす。コルク抜きの柄のような形にして、溶き卵につける。そして再びパン粉につけ、熱した油の中に投げ込み、良い色になったらすぐに取り出して、油分を抜いて皿に置く」という。
この本にはまたトリュフのクロメスキ、マカロニのクロケット、牡蠣のクロケットなどがある。
第三共和政期の1900年にはミシュランガイドが発行されるようになった。
戦前から戦間期にかけて書かれたエスコフィエの3000近くのレシピを収録した料理書において、イギリス風に揚げるということを、卵とパン粉につけて揚げることに規定している。
基本的な形式はカレームとその後継者たちの料理を引き継いでいるものの、出汁多用の取り止めや、料理法の簡素化によってフランス料理はここで暫定的に完成した。一般的に紹介されるフランス料理の料理法は大体エスコフィエの料理書の中にある。
例えばじゃが芋のフライには、とても細長く切ってから揚げて仕上げに塩をかける「ポム・ド・テール・パイユ」と、今知られているフレンチフライであり表面はサクサク中身はホクホクの「ポム・ド・テール・ポンヌフ」がある。
二度の戦争において、料理人自身が耐えぬくことでフランス料理の高いレベルを維持することは可能だったが、物資の入手困難さゆえに、出すことの出来る全体量は減少し、限られた条件の中で個人的な発想に主眼を置く新しい料理が必要になる。
第四共和制における技術発展に伴い、フランスのある程度の範囲に電波を飛ばせるようになり、テレビを使って広報に勤めるオリヴェら料理人たちによって、当時フランスで数十世帯に1台くらいあった白黒テレビで紹介されるようになった。
第五共和制期に入ると、かつて貴族のもので、次第にブルジョワのものになっていった料理は、その長く激しい変遷の歩みを少し緩め、経済成長に伴うテレビの急速な普及と共にゆっくりと庶民の家庭の中に広がっていく。
次の世紀に入り、前世紀の新しい料理が古めかしくなった頃、地方の郷土料理が何度目かの脚光を浴びた。