13.近世イタリア──フランス料理の逆襲
17世紀におけるイタリア料理は、イタリア自体の沈滞と様式美に対する保守的傾向によって停滞していたように見える。
経済や社会形態が中産階級の食卓及び料理書に大きく影響するのに対して、上流階級の食卓はこれまでの例がそうであったように、常に贅沢品が得られるために経済的事情は重要でなく、政治が強く影響している。
16世紀初期のイタリアによるフランスへの影響が、当時フィレンツェ経済の衰微が窺えるにも拘らず、プラーティナの印刷物よりもずっと広く知れ渡っているものとして、莫大な持参金や料理人たちを従えてメディチ家よりやってきたカトリーヌ・ド・メディシスに端を発したものであると説明されているように、である。
中産階級を軽視する傾向は近世イタリアにおける印刷物の減少という形で示されるが、これに伴い諸外国と違って料理書の数と種類は殆ど増加せず、また相変わらず一部の富裕層だけをターゲットにし続けていた。イングランドでもフランスでも17世紀には少なくとも20-30冊の料理書が出版されているのに対して、イタリアの料理書で今の所確認できるのは10冊ほどである。
17世紀初頭のイタリア──つまりイタリア・ルネサンスの終着点においてフィレンツェのジョバンニ・ディ・トゥルコ、ヴェネツィアのジャコモ・カステルヴェトロ、そしてナポリのジョバンニ・バッテイスタ・クリスチは、マルティーノやバルトロメオ・スカッピのレシピを引き継ぎ、地域性を含みながらも、みな似たような揚げ物を少しだけ書き残した。
それは例えば以前に書いたカボチャの薄切り揚げだったり、或いはニワトコの花のフリテッレだったりした。そしてフリテッレのレシピが山ほど書かれた16世紀とは打って変わって、揚げ物のレシピは減少する。
1662年、マントヴァでバルトロメオ・ステファーニが「良き調理法」という料理書を書く。ここでもカボチャの揚げ物と、牡蠣に小麦粉をつけて揚げるもののレシピが書かれ、饗宴の食品リストの中に幾つかの既に知られたフリテッレが述べられる。
アントニオ・ラティーニは1692年に出版した「現代の給仕長」において、臓器や魚に小麦粉をつけて揚げる幾つかの料理と共に、11種のフリテッレのレシピを書き上げている。
フリテッレの中身には米、ミルク、ニワトコの花、チーズ等を使っていたり、ヴェネツィア風及びローマ風のフリテッレが書かれている。
例えばヴェネツィア風のフリテッレについて「6ポンドのミルクを、6オンスの新鮮なバター、砂糖3オンス、ローズウォーター1/4オンス、サフラン少々、そして十分な量の塩と共に鍋で茹でる。それから捏ねるときに2ポンド小麦粉を少しずつ中に押し込み、好きなように木製のスプーンを旋回させる。鍋から取り出した後、白い布の上に置く。そして15分間粉砕して、それから銅の大鍋を用意し、木製のスプーンで冷めるまでそれを混ぜ、その後で冷えてきたら、新鮮な卵を一つずつ加えていき、忘れずしばしば木製のスプーンで、流動性が無くならない程度によく混ぜる。終わったら溶き卵の中に15分程度漬け込み、表面を閉じ込めたら15分間暖かい場所でポットの中に置いておき、再び漬け込む。フライパンで油を熱して準備し、まな板の上に卵閉じを置き、良く油を塗った包丁の先端でタリアテッレ風に刻んで、それから揚げ油で揚げる。仕上がったら穴あきスプーンで取り出し、砂糖を振り掛けて温かいうちに食卓に出す」
ローマ風のフリテッレの方にはゼッポレとパッパルデッレがある。
パッパルデッレは「篩にかけた小麦粉、チーズ、卵3個、3オンスの砂糖、1オンスのパン粉を牛乳とオリーブオイルに浸し、混ぜ込んでからフリテッレの形にしてバターで揚げ、仕上がったら熱い内に食卓に出す」
しかし結局の所、バルトロメオ・スカッピの揚げ物技術を引き継いでいるだけに過ぎない。
また鶏の揚げ物として「小さく、または大きくカットしてから小麦粉につけ、溶き卵に浸してから揚げる。レアルソースまたはレモンと砂糖のソースに浸す」ものがある。
溶き卵に浸してから揚げる方法はポルトガルの鳥肉料理に似ている。ラティーニの採用したトマトソースと同様にイベリア半島から伝わったのだろうか。
そのほか1647年に書かれたボローニャのフランチェスコ・ヴァセッリの料理書「饗宴の料理長」には、オレンジの風味を生地の中に詰めて揚げる菓子スフォリアテッラが書かれている。いくつかのスフォリアテッラの調理法の一つとして書かれているから諸地域料理の集成として受け止められる。
18世紀のイタリアの傾向は、フランス料理の台頭によって語られる。1200年経っても大した進歩をせず、伝統と保守の中に埋没しつつあったイタリアンに対して、ラ・ヴァレンヌやマシアロといったフランス料理書の翻訳と政治的背景の両方が変化を強いたのである。
つまりスペインとポーランドの継承戦争はサヴォイア公にサルデーニャを含む多くのイタリアの土地と王号を与え、またナポリの王冠はスペインからフランスの手に渡っていた。
1766年にサヴォイア公国の料理人が書いた料理書「パリで完成したピエモンテの料理人」には、フランス風にパン粉をまぶしてから揚げるものが登場するようになる。
そもそも近世サヴォイアはフランスの属国的な立ち位置で、中世には時折通婚も行われていたからおかしいことではないが「もし七面鳥を揚げるならば、溶き卵につけ、パン粉で覆ってから揚げて、炒めたパセリと共に食卓に出す」
他に子牛の耳や胃、鳩肉などにパン粉をつけて揚げるものが登場する。
フリテッレは12種類有るが、フランス風のブラマンジェ、アイスクリーム、ワインの葉を使ったものだったり、或いはフリテッレ・エ・プチシュー、フリテッレ・ミニョンといった感じで料理名そのものにフランス語を使っているケースもあり、それまでのイタリア風フリテッレとの大きな違いが見られる。
しかしレシピは特徴的で、例えばフリテッレ・ミニョンは「鍋に小麦粉2匙を入れ、溶き卵4つ、塩少々、砂糖2オンス、緑ライムの摩り下ろ、レモン果汁1/2匙、ミルク1/4カップと同量のモッツァレッラチーズを加えて、弱火にかけながら混ぜる。仕上がったら、小麦粉を打ち粉した台の上で分厚くなるように転がす。それからすぐにパイ生地から小さく一部を切り出していく。鍋に小麦粉2匙、ブランデー1匙、塩の塊少々、卵2個を入れて作った混ぜ物の中にパイ生地を次々と浸す。これを揚げて、氷砂糖と共に食卓に出し、熱した匙でキャラメリゼする」というように地産のチーズを用いていて、フランスの技法とイタリアの伝統的要素が混合されているように見える。
一方、ナポリの宮廷料理として、1773年に書かれたヴィンチェット・コッラードの「優雅な料理書」では、イタリア語の料理書にも拘らずフリテッレという名自体が失われ、フランス的なベニエが18種類採用されている。
その中にはいくつかのシンプルなベニエのほか、従来のローマ風ベニエや米のベニエ、またフランス風のクリーム、ブラマンジェベニエ、さらに長いスペイン支配の影響からかスペイン風或いはポルトガル風にマーマレードを使うものが複数ある。
いくつかの場合に「ピエモンテの料理人」同様、モッツァレッラチーズやパルメザンチーズを入れている。
例えば「米のベニエ」は「米をミルク、バター、パルメザンチーズ、砂糖漬け蜜柑のみじん切り、卵黄で味付けし、中指程度の長さに捏ねて、ペーストに包み込んで揚げ、砂糖シロップをかける」という。
また「マルタ風ベニエ」は「米粉とミルクで作るベニエで、冷やしてから卵黄と砂糖漬け蜜柑のみじん切り、ライムの薄切り、シナモンの粉末を加えて混ぜ、ラードで揚げる。モッツァレラチーズの中に詰めて炒め、砂糖を振り掛ける」という。
そのほかパン粉を塗して揚げるものも出てくるのだが、こちらではパン粉と共にチーズを混ぜる。
例えば子牛の友三角揚げは「七つに切り分けて卵黄とバターをつけ、パン粉とパルメザンチーズで包み、ラードで揚げて熱い内に食べる」という。
魚の揚げ物、鶏のレバーや鳩の丸揚げにもパルメザンチーズを用いているが、パン粉は使わない。