統合運営委員会それ自体が本科と呼ばれ、権能と管轄に合わせて各々に分科が設置されたのであった。
現代日本へとその権力を受け継いでいる9条委員会の原型は、旧GHQ民政局内に設置された憲法草案制定会議の行政、立法、司法、地方自治など8つの各委員会を統合運営する統合運営委員会であったことは述べたことがある。
1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、GHQが煙のように消えていなくなると統合運営委員会もその組織構造を時代の要請に合わせて変化させたのであった。
統合運営委員会が憲法制定時に果たし、その後GHQの権力や内部対立に併せて自然発生的に備えた3つの権能、①各省庁の統合調整機能は同じくGHQが創設した人事院へ、②新規事業分野の先行運営は通商産業省へ、そして③憲法を守らせ護る機能は憲法裁判所が設置されるまで仮に人事院へ移す事となったのであった。
そして、統合運営委員会それ自体は、本科と呼ばれ人事院と通商産業省に移植した権能は各々分科と呼ばれる事になったのであった。
また、日本国憲法全103条に関しても統合運営委員会組織内で各々管轄が決められのであった。
憲法第9条を含む主要条文を管轄するセクションを統合運営委員会中でも正真正銘の本科と呼び、それ以外の条文を管轄するセクションは分科と呼ぶようにもなったのであった。
これにより数百名規模に膨れていた組織は統合運営委員会全体で数十名とスリム化し、いわゆる当時の統合運営委員会で本科と呼ばれるセクションの人員は、わずか11名になったとされている。
現在では、9条委員会本科だけでも千名を超えているものと思われ、それだけの人員を抱えるだけの予算と権能が集中している証ともなっているのであった。
そして、発足当初の本科11名には、統合運営委員会の遺産とも言える、金と権力が集まってくる仕組みが遺されていたのであった。
*憲法第9条を読み解く3つのポイント
小説の最後に表示されているWikipedia)ウイキペディア 日本国憲法第9条でチェック。