関東軍参謀令;友軍ナチス独逸に呼応、関東軍全軍を以ってソ連領内に侵攻せよ。欧州戦線ソ連軍を背後から挟撃し首都モスクワを陥落に至らしめよ。
歴史にIfは無い。
ただ、関東軍があの時、ソ連領内に侵攻していたら世界勢力図は現在と全く違っていたことは確かである。
ナチス独逸のソ連侵攻、バルバロッサ作戦開始から約半年後、1941年(昭和16年)12月、関東軍の眼前に広がるソ連領内にはソ連兵が居なくなっていた。激戦の欧州戦線に全兵力が注がれていたからであった。
もし、日本軍全体での兵員及び軍需物資に比較的余裕があったこの時点で日ソ不可侵条約を破棄してソ連領内に関東軍が雪崩れ込んでいたならば無人の野を行くが如く首都モスクワまで侵攻出来たに違いない。
関東軍が直接モスクワを陥落させなくても良い。独逸相手に戦力が逼迫していたソ連の兵力の1割でも2割でも欧州戦線から引き剥がすことが出来たのであれば、ナチス独逸がモスクワを陥落させていただろう。
ソ連に二方面作戦を強いさせ背後を脅かすことにより欧州戦線に集中させないだけで大きな戦略的効果がある。大日本帝国が第二次世界大戦で勝利する最大の好機であったと謂える。
その戦略性、先見性から世界最終戦争論を唱えていた関東軍参謀の石原莞爾はこの参謀令の起草を終えて後は発令するだけであったにもかかわらず、それを無能な首相の東條が握り潰したのであった。
いつものように無能な東條にはこの命令の意味するところ、関東軍がソ連侵攻した後に広がるであろう新たな世界地図を想像する事など到底不可能なのであった。
握り潰した理由を聞くと誰もが絶望的な気分になる事は間違いない。ただ単に後輩、部下の石原に手柄を立てさせることが嫌だったから握り潰したまでであった。有能な部下に嫉妬した世紀の凡人、東條に命運を握られていた大日本帝国は、悲劇を通り越して喜劇である。
この一件以後、一夕会同志であるにもかかわらず石原は東條に疎まれて表舞台から消されてゆくのであった。




