関東軍と中国国民を阿片で支配するKing(支配者)。一夕会同志の東條英機をバックアップ。東洋のヒトラーとまで呼ばれる東條は、ただの人事マニアだった。
潤沢な阿片資金を背景に満州国(中国東北部)を拠点としてKing(支配者)の影響力は、拡大を続けていくのであった。
一夕会同志でもあった関東軍参謀の石原莞爾を通じ当時陸軍次官として軍政部事務方トップにいた東條英機(元第10代関東軍総参謀長)に阿片資金が渡るまでに時間はかからなかった。
東洋のヒトラーと名付けられた東條その人自身は、本家のアドルフ・ヒトラーと比較する事が恥ずかしくなる位の凡人である。国家的な指導者としての明確なビジョン等は一切持ち合わせておらず、更には悪の面でも善の面でも思想と呼べるものは何一つ持ち合わせていなかった。
ただ、人事の才能だけを持っていた。もし、現代日本に生まれていたとしたらその人事の才能だけでも大企業の取締役位には成れたであろう男である。
ただ、何度でも謂うがそれっぽっちしか持っていない男なのである。
関東軍参謀時代には、1937年(昭和12)8月9日から行われたチャハル作戦への派遣兵団(三個旅団)に本国の許可無く勝手に”東條兵団”と名乗らせたまではよかったものの、補給を怠りその兵員を飢えさせると言う無計画さを軍需物資豊富であった戦況初期においてさえ既に露呈させていたのであった。
この兵員の飢えをそもそも考慮に入れない補給無視の作戦を立案遂行すると言う大日本帝国陸軍の悪弊は、東條から始まったと言えるであろう。
しかし、そんな戦術レベルでの作戦立案も覚束ない東條ではあるが、その人事の才能をKing(支配者)の阿片資金にバックアップされたことにより日本国首相にまで登り詰めることが出来たと言っても過言ではないだろう。
陸軍次官止まりで終わるべき男の東條が、阿片資金を政界と軍部の要路にばら撒く事により国家的に人心を掌握することに成功してしまったことが大日本帝国を破滅へと誘う序章であったのだ。
人間を駒として動かす事のみに卓越した人事マニアの東條が1941年(昭和16年)10月18日、第40代日本国首相に就任すると、敗戦濃厚となってしまう1944年(昭和19年)7月22日まで日本民族を未曾有の塗炭の苦しみへと導いてゆくのであった。




