蚕食
吉岡マナは宇宙人である。
もちろん本名は別にあり、地球人が発音できないような言語でとても長い。便宜上、彼女は僕がつけた名前を名乗っているが、吉岡は実家のはす向かいの家の苗字だしマナは昔母親が買っていた金魚の名前だった。
なんでも彼女がいた星では知的生命体が知識を深めすぎたため減少し、他所の星まで結婚相手を探しに来ているらしい。どこかで読んだライトノベルの設定みたいな話だ。こんな話を至極真っ当に話している人間を見たら、僕はすぐに頭の病院を勧めている。
マナが檻付きの病院に入らず僕と同じ大学に通っているのは、彼女が僕に宇宙人としての力を見せつけたからだ。戸籍の偽造から始まり、洗脳、果ては超能力者まがいのことまでして見せた彼女に、僕は頷くしかなかった。
「三代さん、次の講義は休講になりましたよ」
マナが笑顔で言う。緑の多い大学の構内で、僕たちは外のベンチに腰かけていた。
うだるような暑さでタオルを持った学生たちが行きかうが、僕たちの周りには春のそよ風のような風がふいていて、汗一つかきそうにない。灼熱の太陽もマナの力をもってすればただの光源だった。
「休講に、したんだろ」
僕が悪態をつくとマナはふふとほほ笑んだ。そんな姿すら絵になるのだから憎らしい。
マナは有り体に言うと美少女だった。白い肌にほんのりと色付く頬、アーモンド形の瞳、すらりとした鼻筋に薄い唇。有名な芸術家の作り上げた彫刻みたいな、他を圧倒する美がそこにはあった。栗色の髪はどんな突風が吹こうと乱れはしないし、転寝して化粧が崩れるなんてこともない。彼女は男の憧れを現実にしたような姿をしていた。
マナは自分の姿が褒められるといつも申し訳なさそうな顔をする。なんでも、これは彼女の本当の姿ではなく、宇宙人的な力によって地球人らしくみせているらしい。見栄えを良くしたのは彼女の趣味ではなく、「統計的に美しい容姿の方が優良遺伝子を引き当てられるんですよ」と彼女は笑っていた。確かに、誰もがうらやむような才色兼備の男には、美人の彼女がいるのが相場である。
「三代さん、私行ってみたいお店があるんです。パンケーキがおいしいらしくて」
「……女子ばっかの店には、行きたくない」
「大丈夫です、私に任せてください」
ほほ笑む彼女の手には、情報誌が握られていた。付箋をつけてある店はどうみても女同士か、カップルが行くような店だ。カップルといっても男の顔面偏差値が相当高くないと入店に躊躇するような、そんなピンクや水色で彩られたファンシーな見た目だった。
マナには逆らえないの渋々僕はそのファンシーなパンケーキ屋に行くことになった。
店に着くと繁盛時のはずなのに、人影は少ない。それどころかこのパステルカラーで飾られた店には似つかわしくない、仕事にくたびれたサラリーマンの姿さえあった。
横目でマナを見ると、彼女は「ほらね」と言わんばかりにほほ笑んだ。今日はこの店の売り上げは落ち込むだろう。諸悪の根源である女神は花もほころぶような笑顔だった。
「この……ゆ、夢色乙女のパンケーキと、本日のケーキセット、それにアイスコーヒー2つで」
「かしこまりました」
一生縁のない単語を口にしたら、一気に体力を奪われた気がした。
マナは僕のエスコートをお気に召したのか、楽しそうにこちらを見ている。平々凡々な僕の顔を眺めたところで何が楽しいのかわからないが、マナの機嫌がいいと周囲に迷惑がかからないので僕は少しだけ安堵した。
ほどなくして、ピンクのソースやハート形の砂糖菓子、マカロンで飾られたパンケーキがマナの前に、そして大きなホイップクリームにハート形のチョコレートが添えられたミルクレープが僕の前に運ばれてきた。
マナは興奮気味にスマートフォンで写真を撮り、ネットにアップするという女子みたいなことをしている。女子は女子でも、日本人どころか地球人ですらないのだが。
「か、かわいいです! それにおいしい!」
パクパクとパンケーキを頬張るマナはどうみても普通の女の子だった。いや、普通ではないレベルの美少女か。マナの笑顔に、僕も自然と肩の力が抜ける。マナと一緒の外出、更にはアウェイな店で、知らずと緊張していたようだった。
「三代さんのは……ミルクレープですね。おいしいですか?」
マナが僕に味の良し悪しを聞くときはほとんどが自分が食べたい時だ。数か月の間に何度も重ねたデートで、僕は彼女の行動パターンをわずかではあるが把握しつつあった。
「ああ、うん。うまいよ。マナも食べてみる?」
ケーキののった皿をマナの方に寄せると、ぴたりと彼女の動きが止まる。
「三代さん……駄目ですよ、私、教えたでしょう?」
彼女の瞳が僕を見つめたと同時に、右腕は持ち主の意志とは裏腹に食べかけのミルクレープをひとすくいして、流れるような動きでマナの口元へと持っていった。
「ほら、続きは?」
「……あ、あーん」
「はい、あーん」
そういってマナがケーキにかぶりつく。クリームの一片たりとも残さないような舌の動きで、僕のもとに返ってきたフォークは新品みたいに照明の光を受けてきらめいていた。
□
バイト終わり、僕はようやく一人になれる。大学ではマナが張り付いているし、バイト先の書店は客が多く対応に追われる。一人暮らしのはずの我が家に帰ればマナがいる。もともと社交的でもなく、ひとり活字と向き合うのを好んでいた僕には息苦しい生活だった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
僕の部屋の隣に住んでいるはずのマナが当たり前のように僕の部屋にいる。合鍵を渡した覚えはない。少し前までは僕より年上らしい女子大生が住んでいた203号室は、いつの間にかマナの部屋になっていた。彼女はいったいどこにいったのだろう。
「今日の晩御飯はピロシキです!」
「ピロシキ?」
「はい、東欧料理の一つで、パン生地の中に様々な具が入っています! 三代さんのお部屋にはオーブンがなかったのでインターネットで見た揚げピロシキというものに挑戦してみました」
「夕食にピロシキね……まあいいけど」
マナはちょっと変わっている。そもそも日本人どころか地球人ですらないのだし、地球に来て一か月足らずの彼女に日本の食卓を教えるにはまだ早い気がした。そもそも、倫理観すら地球人とはかけ離れているのだ。
僕の言葉が引っかかったのか、マナがしゅんとした顔で首をかしげる。
「ピロシキ、お嫌いでした?」
「いや、そもそもあんまり食べたことないし。どちらかというとパンは朝食やランチの方が合ってる気がしただけだよ」
「そうですか! 次回からピロシキは朝かお昼に作りますね」
「……あー、うん、ありがとう。手間のかかる料理を作らせて、ごめんね」
「いえ、私が好きでしていることですから」
夕食後、食器を片付けながらマナが見ているテレビの音に耳を傾ける。夏らしい超常現象の特番で、恐怖動画にキャーキャーいったり、未確認飛行物体を必死に目で追っている宇宙人の姿は滑稽だ。
「本物なの、それ」
「すべてフェイクですね! もしかしたお仲間が地球にきているかもしれないと思っていましたが」
「そうなんだ」
僕も男だ。未確認飛行物体や生物には少しロマンを感じる。そのロマンを否定されて心が萎えた気がしたが、そもそも未確認生物に否定されている現状がおかしいことに気づいた。僕も少しずつ天真爛漫すぎるマナに毒されてきているようだ。
ベッドに寄りかかり読みかけの本を開く。僕が本を読んでいる間は、マナは干渉してこない。彼女は僕の感情には敏感で、僕が疎うことをできるだけ避けているようだった。
「あのさ」
「はい」
「できれば、今日は早めに帰ってほしいんだけど」
怖気づいた。本当は、平日僕の部屋に入り浸るのをやめてほしかった。
僕とマナが出会ってから一か月程しか経っていない。マナは僕にとって、空気のような存在にはなり得ていなかった。そこにマナがいれば気を使うし、暑いからと服を脱ぎ捨てることすらできない。そもそもマナがいれば暑さなど感じない快適空間な訳だけれど。兎も角、まだ僕とマナは、僕にとっては十数年来の友人という空気ではなかった。
マナは一緒に過ごす時間を増やすことでその穴を埋めようとしていたが、彼女の性急な行動は停滞を好む保守的な僕にとっては毒だった。なにより、同世代の女の子が自分の部屋にいるという状況が緊張する。
「わかりました。宿題のレポートもあるし、今日はこれで失礼しますね」
マナは何でもない顔で帰っていくが、僕は彼女の嘘に気づいていた。
マナ程の高度知的生命体ならば、レポートなんて3分と経たずに終わる。知識を外部に出力するだけの、簡単な作業だ。
マナを傷つけてしまったかもしれない、そんな罪悪感とは逆に、誰もいない僕の部屋を見てほっと安堵の息を漏らした。
□
週末、実家へ帰ることとなった。
実家と言っても電車で30分程度の距離で、マナが現れるまでは頻繁に帰省していた。財布とスマートフォン、最低限必要なものだけポケットに突っ込んで外に出ると、大きな荷物を持ったマナがいた。
「おはようございます」
「……なんで」
「帰省ですよね、私もご一緒します」
当たり前のような顔をしてマナは僕の実家についてきた。慣れ親しんだ玄関を開くと、母親がエプロンで手を拭いながら駆けてくる。
「あら、お帰り。帰るんだったら言ってくれればいいのに」
「必要なもん取りに来ただけだから。明日には帰る」
「こんにちは」
「あらマナちゃん! いらっしゃい。そういえば同じ大学だったねぇ」
「はい、一緒に帰省しようと思いまして」
「あらあら、吉岡さんとこ今日はお出かけだったわよ」
「え、そうなんですか?」
「せっかくだから、うちでお昼食べていきなさい」
「わあ、ありがとうございます」
マナと母の会話を聞きながら、僕は呆然としていた。マナは一か月ほど前に地球にやってきて、その後僕の周囲を常にうろついている。だから、僕の母とマナは初対面のはずなのだ。それが、仲良さげに昔からの知り合いのような会話をしている。
瞬きを繰り返しながらマナを見つめると、彼女はいつもどおり見とれるような顔でほほ笑んだ。
マナはその後僕の家で昼食を食べ、妹の勉強まで見ていた。妹すらマナお姉ちゃん、と呼んで親しげだ。僕の知らない家族がそこにいた。まるで宇宙人が僕の家族に成り代わっているような、そんな気持ち悪さを感じる。
夜になると両親が帰ってきたからとマナははす向かいの家に帰って行く。僕の記憶ではあの家には初老の夫婦が住んでいるだけだったはずだ。マナの洗脳は大学構内どころか、僕の実家周辺にまで及んでいた。
翌日、マナと共に僕たちのアパート方面へと向かう電車に乗る。休日の昼間、混んでいてもいい時間帯なのに、僕たちの乗った車両はまるでそれだけ人々の意識から抜け落ちてしまったみたいにがらんとしていた。
「なんでマナが僕の幼馴染になってるの」
僕は吐き出すように呟いた。
「必要でしたから」
マナが優美にほほ笑む。
「三代さん、私はどんなことも思い通りにできます。記憶を改ざんしたり、行動を操ったり。こんな私ですけど三代さんは、ずっと一緒にいてくれますよね?」
紛れもない脅迫に、僕は頷くしかなかった。
僕の周囲は、既に宇宙人によって侵略されていたのだ。
蚕食:端から次第に奥深く他の領域を侵略すること。(大辞林 第三版から引用)
誤字脱字、誤用のご指摘ありがとうございます。