大根の生殺し・その1
中途半端な所で終わります、ご注意ください
少年は、里を抜けた。
齢十四。時は寛文四年。
里があるのは東山道が最西、山に囲まれた伊賀の地。八十の追っ手が山を越え、四方に散った。二十が追いついたのは里を抜けてわずか三日後。人の途絶えた村の小屋。
追っ手が苦無も持たず枕元に立ったのは、それだけ少年の才が惜しまれている証拠だった。当代将軍は徳川家綱。伊賀上忍に三家あり。服部百地藤林。百地は既に亡い。服部は既に五代目だがもはや忍ではなく、ただの家老として桑名藩に収まっている。
里に残された者達だけが、技を磨いていた。
延々と。
「兄上か」
声は、追っ手の頭の上から響いた。
兄上と呼ばれた者追っ手が、驚愕したように固まる。前後左右は愚の骨頂、上下を取り不意を突く。布団の盛り上がりが布の塊なのも承知の上。ではどこにいるのか、枕元に立った者を狙える所だ。
お互いに知り尽くした基礎も基礎だ。
だから定石通りに、あっさりと不意を突かれた驚愕は舌筆にしがたかった。
兄は振り返る。
四人が、梁の上から音もなくぶら下がっていた。闇に溶けた柿色の装束三人が地面に向けて万歳し、一人だけが顔も隠さず腕を組んでいる。腹違いの母に似た顔立ちと声色。頭から下を見ればただの百姓と言った出で立ちだが、上は髷すら結っていないのに浄瑠璃でも歌わせた方がしっくり来そうだった。
よく考えればお互い闇目が効くし、顔見知りである。顔覆いは意味がない。男臭い面構えを晒した兄に、逆さの少年がからかうように声をかける。
「よくここがわかったね」
「帰ってこい」兄は取り合わず、要求を端的に述べた「抜忍は成敗が道理、だが若く……いや、幼くして上手に登り詰めたお前の才、我々の技を磨くのに役立つとお頭のお達しだ」
「そこだよそこ」
「……何?」
訝しげに眉を顰める兄に向け、少年は「大体さ」と続ける。
「上手って銭になるのかい? 銭にもならない技を磨いてどうするんだい? 正雪もとっちめちゃって、もう家綱様の世の中は太平だよ、どこに使い所があるのさ――ところで正雪って知ってる?」
「知らんな、知る必要もない」
取り付く島もない。
少年は諸手を上げた――たった十年かそこら前に起こった将軍家の一大事すら兄は知らないのだ。
「これだから忍術馬鹿は」
梁にぶら下がったままなのに、ため息を付くのがやたらと様になっている
「仕方があるまい」兄の表情が一瞬歪み、能面に戻る――次の一言を発するのは、多大な努力を要した「次期お頭として江戸に連れて行かれた事があるのはお前だけなのだ、お頭とお前以外では将軍様はおろか、家老様の声も知らぬ」
「だからさあ、陰忍だけが忍びじゃない、陽忍の技も磨けってお頭が日頃から言ってるでしょ。今どき、弓の引き方を知らない家老なんて珍しくもないんだ――技が切れても切る所を間違っちゃ世話ないよ」
「その年でそのように説教できるのが異常だとは思わんのか、誰もがお前のように才と見識がある訳ではないのだ」
「そうだね、そのお頭も僕より格下だし」
少年はアッサリと認めた。
宣言する。
「僕はこれから諸国を旅する、生き甲斐を見つけるんだ、羨ましいかな?」
「許さぬ」
「追ってきてもいいよ、止めれるくらいの力が里にあったら――いいさ、戻るよ」
兄の両腕が一瞬霞んだ、墨を塗った苦無は、闇の中に溶けて常人では視認できない。少年の目には、穴に指を通して回したのがわかる。
「その言葉、嘘ではあるまいな」
「ばっかじゃないの、忍ってのは偽ってなんぼ――でしょ?」
これ以上言葉を続ける必要は兄にはなかった。続ける自信もなかった。マグマのような劣等感が口から噴き出しそうだった。代わりにそばにある机を、逆さになった弟に向けて蹴り上げる。
「おっと」
四面楚歌。
弟がのけぞる事でかわすと同時――机を蹴り上げた音を合図に、小屋の四面八方が突き破られたのだ。柿色の追っ手が少年に襲いかかった。
その数、十五と兄一人。
「よっと」
梁に引っ掛けていた足を離し、少年が落下する。上から飛びかかった八人は空中で動きが変えられない。
兄は動かない。
当面の相手、地上の七人。
七人の囲みは寸分の狂いもなく苦無を少年が着地するであろう地点に突き立てる動きだった。
落下する勢いを、少年は梁にこっそり括りつけていた黒縄で制動をかける。それで囲みの目論見は狂った。同士討ちする無様を晒すほど間抜けではないが、地面に苦無を突き立てた七人の後頭部が、一箇所に集う。
少年は着地した。めり込む音がした。両手足が四人の頭を押し潰す。
残りの三人が飛び退る時、少年は既に蚤のように跳ねていた、二人の頭を掴む。真ん中の一人に叩きつけた。
残り、空中の八人――は張り巡らされた黒縄に絡み取られ。
兄一人のみ残った。
兄は、少年のすぐ目の前にいた。心中はどうあれ、能面が少年の目先一寸で固定されたまま追従する。才と見識はともかく、力は体の出来上がった兄の方が上なのだ。
「手足の一本か二本は覚悟しろ」
少年は、ただ一言だけ返した。
「ごめんね、兄上」
後から考えれば、弟の言葉は劣等感をわざと逆撫でした事への詫びだった――しかしこの時の兄には陽忍の心得がなく、意味すらわからずに突き動かされて踊るだけだった。至近距離で顔をつき合わせる事で弟の視界を潰し、挟み込むように両側から苦無を振りかぶる。
苦無が空振る――弟が兄の腹を蹴ったのだ。鍛えぬかれた木の板のような腹筋はビクともしないが、砲弾のような勢いで吹き飛んだ弟が本当の木の壁を突き破る。
轟音がした。
人の住まない家はすぐに弱る。黒縄に引っかかった八人の重みで屋根が軋み、今の衝突で為す術もなく崩れる。
脆い藁葺き家と言えども――重さ、およそ数百貫。
「くっ……!」
さしもの兄も押し潰されないようにするのが精一杯だった。間一髪で弟の開けた風穴に身をくぐらせる。
弟の額が、目の前にあった。
「カハ……ッ!」
肘が、みぞおちに食い込んでいる。
「や……」
両者の力を合わせた衝撃が背中まで抜ける。くの字になって兄は呻いた。弟の名を最後まで呼ぶ事すらできない。空気が肺から完全に抜けている。
完敗だった――力も数も上だというのに、弟は術はおろか、苦無すら抜いていなかった。才と見識の差――指一本動かせない中、僅かに残る意識で今更ながら痛感する。
「さようなら、兄上」
今までの馬鹿にしたような態度からは考えつかないほど、寂寥の篭った声がする。
「どうぞ息災で」
そして次に兄が目を開けた時、周りには崩れた小屋と埋もれた忍達以外、何もなかった。
その後、兄は諸国を歩き渡り、見識を広げた。
海を目にした。どこまでが弟の手のひらの上だったのか、全てなのだろう――数年かけて追いかけたが、弟の影を踏む事すら、遂には叶わなかったのだ。服部百地藤林が川なら、弟は海だったのだろう。服部は武士となり、百地は滅びた、藤林もやがては忍ではなくなる時代が来るのだろうと思った。
後に、謀計の知恵と思慮をもって敵中に入り込むのが陽忍であり、人の目を忍んで入るのが陰忍であると書として記した。
歴史に残る兄の名は、藤林左武次保武。
平和になりつつあるご時世でもなお掟に執着し、意固地になった一族の、
記されたのはあるいは時代に埋もれ、市井に消え行く忍の、断末魔であったのかもしれない。
断末魔の名を、万川集海と言う。
弟の名と行方は、杳として知れない。
続く?