第八話 そして僕は走り出した(下)
バス停で翔と別れ、僕の足は廃ビルへと向かっていた。
時刻は午後十時過ぎ。
田舎街は静寂の蚊帳だ。
僕は歩いていた。
いつも、だった時間。お気に入り、だった場所へ。
夏休みと一緒に、思い出も全部忘れるために。
廃ビルは静かだった。まるで忘れられた場所のように。
僕は看板の上へと登った。
見降ろす夜景。
夏も、もうじき終わる。
流石に肌寒さを感じ、僕は身体を震わせた。
そういえば――初めて彼女に会った日も、こんな寒い日だったな、と思った。
いつだったか、奈々ちゃんは言った。
『きみは、幸せってなんだと思う?』
僕は漠然とし過ぎたその質問に、要領を得ないといった風に首を傾げた。
『だから、生きてて良かったなー、とか、ああ、今幸せだなー、って思うときあるでしょ?』
僕は応える。
『……考えたこと、ないかな。なれると思ってないし、なりたいとも思わない』
『ふうん……。でもさ、それってさ。なんだか、寂しいよね』
きみも、その周りも――と、奈々ちゃんは微笑む。
ぎこちなく、少し作りものっぽく。
なんでそんな顔を作ったのか、僕には理解出来なかった。
『……僕はこんな人間だからさ、別にいいんだよ。普通に生活して、学校に行って、その辺の奴らと適当に仲良くして、バイトして、お金稼いで、好きなことに使って、そういう普通に、ごく当たり前の生活が、やっぱり僕にはお似合いなんだ。だから、今のままでいい。それ以上は、僕は、何も。……うん、望まないさ』
望まない。
心が、
叩き潰されるのが、恐いから。
痛いから。
そんなの、
耐えられそうに、ないから。
『……閉鎖的だね。それが、きみにとっての幸せ?』
……幸せ?
冗談だろう?
幸せだってさ。
今更、何を言ってるんだ。
僕は感じない。感じていたとしても、感じないんだ。
だから幸せなんて感じない。感じたことなんてない。
僕はそんな奴じゃない。
感情を出力するような、そんな機能は搭載されてない。
欠陥なんだよ。
壊れているんだ。
……いや、違う。
僕は怖かった。
裏切られるのが、誰かの期待を裏切り、落胆され、見放されるのが、たまらなく怖かったんだ。
だから殻に籠って、受け続けた。耐え続けた。
だから僕は誰にも信用をあげない。
だから僕は信用されない。
信用されなければ、期待されなければ、誰かを裏切ることなんて出来ない。
そのはずだろう?
だから僕は裏切らない。裏切れない、はず、だったのに。
なのに、なんで……なんで……そんな顔しちゃうかな……
『それがきみにとっての、幸せなの?』
…………、
………………違う。
『結局、きみは何が欲しいのかな? きみは何を求めているのかな?』
……ふと、
僕は、驚いた。
悲しいし、悔しいし、痛いし、苦しい。
なのに、まだ僕はきみを引き摺っている。
往生際の悪い自分。
きみがそばにいてくれる、それだけで良かったのに。
そう思っている自分に、
そんな自分に、素直に驚いた。
このときようやく自覚した。
僕が掛けていた檻が酷く脆弱で、僕が縋っていモノがなんて矮小で脆い存在のか……そして、きみがどれだけ僕を満たしてくれていたのか。
「……ああ、そうか」
そうだ。
そうだった。
僕はこの夏休み、きっと幸せだったんだ。
なんで気がつかなかったのか。
僕は幸せだった。
記憶をなぞってみる。
思い出せる、全部鮮明に思い出せる。
奈々ちゃんの顔。言葉。姿。
忘れるだなんて出来っこない。
奈々ちゃんの笑顔。可愛い声。愛らしい仕草。
きみと出会った屋上。きみと過ごした時間。
緊張したり、ちょっと怖くなったり、わくわくしたり、ドキドキしたり、笑ったりして、僕は奈々ちゃんといて、僕は楽しかった。幸せだった。幸せだったんだ。
……けど、その笑顔も、声も、思い出も、全部、
……全部、僕が歪めてしまった……。
「…………」
……言いたい。
この声が枯れるまで、誠意を持って謝りたい。
きみがいてくれたから、僕は生きていた。
生きていられた。
生きていることを実感できた。
「……僕は」
僕は馬鹿だ。
なんの意味があって生まれてきたのだろうか?
彼女を傷つけるために生まれてきたのか?
だとしたら、生まれてなんて、こなきゃよかったのに。
「……本当に」
笑える。
大笑いだ。
なんていう傑作だ。
全てが間違いに見えた。
どうしようもなく、間違いに思えた。
僕が生きていること自体が間違いに思えて、場違いだと思った。
僕がきみと出会ってしまったから、僕なんかと出会ってしまったから、きみは酷く傷ついてしまった。僕にとってのきみは、かけがえのない何よりも大切なものだったのに、僕が僕でいられる唯一の存在だったのに……。
やっぱり僕は壊れている。
どうしようもなく僕は壊れている。
だから、望んでもないことを言って、きみを泣かせた。
きみの笑顔を歪ませた。
きみを傷つけた。
だから、きみは僕と出会うべきじゃなかった。
知り合うべきじゃなかった。
ふれあうべきじゃなかった。
……違う、僕だ。
僕なんて存在するべきじゃなかった。
でも、なんでだろう……
ごめん……本当に、ごめん……
僕は、きみに出会わなければ良かったとだけは……
それだけは、どうしても思えないんだ……
「……僕は、いったい何を求めていたのかな……」
ここで涙でも流せれば僕も少しは人間なのだろう。かろうじて、ぎりぎり。
でも、僕は欠陥製品だから感情を出力出来ない。
こんなに悲しいのに、こんなに苦しいのに、涙は出てこなかった。
「…………」
看板の上から、僕は見下ろす。
高さは十分。コンクリートの地面。フェンスなんてものはない。
「……死んじゃおっかな」
抵抗も摩擦もなく、素直にそう思った。
ここから飛び下りれば問題なく死ねる。少し身体を預けるだけで、それだけで死ねる。そうしたところで、何かが良くなるわけじゃないんだろうけど、少なくとも、僕は終われる。
僕を終わらせられる。
「……いいや、死んじゃおう」
もう何も怖くない。
だって、もう何もないから。
絶望と絶望しか知らないから。
未来が、絶望だって知ってるから。
「……………………」
けれど、何もない僕がそんな勇気なんてモノを持っているはずもなく。
「……帰ろうか」
そう呟いてポケットから携帯を取り出し、その明りを頼りにハシゴに手を掛けた。そして身体を乗り出し、下の見えない闇をただひたすら乱暴に下りる。看板下部の小さな隙間を抜け、二、三段ある段差を下り、階段室の屋根へとジャンプする。
そこでふと――屋上へ続く坂道に人影が見えた。そんな気がした。
屋根から飛び降り、階段室の中をのぞくと、白い封筒のようなものが置いてあった。
「……奈々ちゃん?」
辺りを見回すが、誰もいない。そこには荒んだ屋上の景観があるだけだった。
僕は封筒を手に取り、丁寧にその封を切ってみると、中身は手紙だった。
英語がずらりと並べられていて、ご存じの通り、頭の悪い僕にはそれを読むことが出来ない。
僕はそれをポケットにしまい、家へと帰った。
*
家に帰って、僕は本棚から持ってきた辞書を広げ、手紙を訳してみた。
訳していくうちにそれが彼女の好きだった曲、その歌詞だということに気がついた。
「……あれ?」
そこで違和感を覚える。
以前、彼女に教えて貰った歌詞と内容が少し違っていたからだ。わかる範囲で言えば、最後の一文が、書き換えられていた。
――私は自分自身にぞっとするんだよ。
心が自分を騙そうとするんだ。
これがずっと続くモンだから、私は自分が壊れていってると思っているんだ。
私は頭がおかしいのかな。
それとも壊れているだけかな?
けど、私は自分を上手くコントロールできるようになってきた。
勝手なお願いだけど、訊いてくれるかな?
どうかきみだけは、
きみだけは、自分を見捨てないでいて。
「……僕は、馬鹿だな」
ふと、
手紙の右下の部分が少しぼやけていることに気がつく。
どうやらなにか書いてあったらしい。
僕はルーズリーフを取り出し、上に重ねて、鉛筆で黒くなぞってみた。そして浮かび上がった文字を見て、僕の頬を何かが伝った。
それは手紙に落ちて、じんわりと染みを作った。
『愛してます』
誰かを好きだと、大切だと想う気持ち――
人はそれを『愛』と呼ぶらしい。
……なるほど。
どうやら僕という奴は、
僕という人間は本当に、本当にどうしようもないくらい、
「……大馬鹿野郎だ……」
滲む視界の中、机に置かれた時計を見た。
深夜零時を回っていた。夏休みが終わった。
僕は夏を終わらせたくなかった。