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第六話 僕は立ち止まった(下)


 裏側の僕には、何も見えなかった。

 底に潜んだ僕には、何も聞こえなかった。

 僕にとってこの世界は、好きになれない同級生や、大人の世界のしきたりといったインチキなもので満ちていて、どうしようもなく不確かなものとしか見えなかったし、感じられなかった。

 父親は好きじゃない。

 母親も好きじゃない。

 うわっ面を綺麗に装って友達ごっこをする同級生も好きじゃないし、決まり切った定型文しか出力しない教師にもうんざりしていた。

 僕は遠くに行きたかった。

 それがどこかは自分でもわからないけれど、それでもこんな場所に立っているよりは何倍もマシに思えたし――なにより、僕は息が詰まって、苦しくて苦しくて仕方がなかったんだ。


 この世界から出力されるモノは、加工され意味を捻じ曲げ、そして僕に伝わる。


 そんな嘘に塗れた世界に関わろうとしていくことは、僕には難しい。


 僕は決心する。

 目を閉じ、耳を塞ぎ、ついでに鼻もつまんで、考えることをやめ――この世界という枠から出ることにした。

 そこは快適だった。

 周りに合わせようと、おたおたしていた自分が馬鹿らしく思えて、それぞれの適応を求めて行動を起こし、限られた選択肢から選ぶようにして自らの振舞いを決める僕以外の人間が、とても浅く見えた。それと同時に、あいつらは上手い具合に出来てるんだろうなー……とも思った。


 それでも僕は死にたいわけじゃないから、

 生きていくために僕は、“僕”という存在を作った。


 人生とは機会であり、美であり、歌であり、至福であり、夢であり、挑戦であり、義務であり、試合であり、悲しみであり、悲劇であり、幸運であり、あまりに貴重なものだと言うけれど、僕は大抵のそれを拒絶し、目を閉じているから賛美のしようもなく、耳も塞いでいるから聞こえもせずに、全てを絶つことを望み、早く覚めて欲しいと願い、放棄し、インチキを嘲笑い、参加せず、受け入れ、涙を顔に書いたピエロになり、否定し、罵って――


 ふと気がつけば、僕はただ存在しているだけなんだ――と知った。

 意味も、価値もなく。

 そこにいるだけ――それだけの存在。


 闇の中に透き通って、見えなくなって、誰からも見つけられることなく、誰かの枠に加わることなく、独り孤独に消えていく。

 笑ってくれていいよ。

 僕はそんな事実を、受け入れていたんだから。




 *


 


 僕が警察に事情聴取のため呼ばれたのが、夏休みも終わりかけの八月二十日。

 容疑者として挙げられていたのが僕と、リョウ。


「元あった場所に返すぅ? いやいや、待てよ。それこそ危ねえだろ」


 あの日。

 夜が終わって、バイクをどうするかの話になったとき、リョウはそう言った。

 こんなことを言うと、まるで言い訳のように聞こえるかもしれないし、犯罪を犯しておいて言えたようなことでもないのだけれど、僕はリョウに、バイクは盗んだ家にこっそりと返そう、と提案した。

 それはリョウに却下され、当たり障りのない理由を並べられて、きっとそういうものなのかな? と思って、素直に従った。

 もうすでに終わったことだ。

 文字通り後の祭り。

 祭りの日が楽しかったのか、後日リョウは再度バイクに乗り、運悪く補導され――事件が発覚したらしい。そのことを知ったひーちゃんは僕たちを集め、口裏合わせと、当日の様子を作りあげた。

 僕は嘘を言うことを強要された。


 そして、今日。

 僕は警察署に向かった。

 時間通りに着き、署内に入って正面にいた警察官に名前を言うと、その男は立ち上がり、「じゃあ、こっちきてくれるかな?」と、僕は案内されるがまま、二階へと上がった。

 少年科の部署室の扉を開けられた。そこでまた別の警察官が暇そうに甲子園を見ていた。

 画面越しに見る――僕と同年代くらいの学生たち。

 あいつらは青春してるのに、僕はいったい何やってんだろうな――だなんて、ちっとも思わなかった。こんなに暑いのに何やってんだあいつら、としか思わなかった。強がりだとしても、そう思わなきゃやってられない。

 僕は取り調べ室へと通された。

 小さく、こじんまりした部屋。テレビで見たことのある取調室とは違って、案外質素な風だ。そこには机が一つあって、パソコンとスタンドが乗っていた。僕は奥の席に座らされ、入口側の席には警察の人が座る。

 ふと、机に視線を落とすと、対面の死角になったところに、落書きがいっぱい書かれていた。

 誰々参上――とか、補導何回記念――とか。

 馬鹿だなあ、と思った。

 取調べが始まり、警察の人に色々なことを訊かれた。

 ちょっとびくびくしていた僕だけれど、想像していたように怒られるようなことはなく――淡々と、まるで僕に怒る価値なんかないみたいな口調で、警察の人はパソコンに僕の応えを打ち込んでいく。

 僕は、他人が作りあげた嘘を言った。

 言い続けた。

 口とは裏腹に心の中で、なにをしてるんだろうな――と、考える。

 自分が馬鹿で、どうしようもなく馬鹿で、真っ黒くて、酷く、汚れまみれになっているのは自覚していた。けど、それでも心のどこかで――まだ、まだ大丈夫――そう思っている自分がいた。それは間違いなかった。

 僕はひーちゃんを見下すことで、なんとか自分を保っていたのかもしれない。

 けれどいま、僕は同列にいる。

 奈々ちゃんに合わす顔がない。

 対等の立場にはいないのだから。

 僕にはもう君に会う資格がない。そんな厚かましいことなんて、出来るはずもない。


 僕は犯罪者だ。

 太陽の元へは、もう、戻れない――


 そう思ったら、なんだか苦しくなってきた。

 無機質に嘘を出力する口が、だんだん自分のものじゃない気がしてきた。


「……ごめんなさい」


 取調べも終わりに差し掛かったとき、僕は唐突に警察の人に言った。

 首を傾げ、「なにがかな?」と、返された。

 僕は全てを晒した。

 あったこと全てを晒し、やったこと全てをぶちまけた。

 ひーちゃんの存在も、圧力を掛けられていたことも、今までにした全ての悪いことを、洗い浚い余すことなく全部を正直に言った。

 僕は綺麗になりたかったんだと思う。

 傷だらけになってもいいから――元の位置に戻りたかった。


 そうだ。

 僕は、助かりたかったんだ。


 奈々ちゃんに会えなくなる――会っても迷惑を掛けるだけ――そう思うと、僕は自分を許せなかった。意味を押しつけるつもりはない。これはただの懺悔だ。自分の罪が消えるとも思っていないし、奈々ちゃんのためでも、もちろんない。自分のために――だから、少しでもいいから綺麗になっておきたかった。

 おめでたい僕には、まだ、希望が見えていた。

 絶望の未来の中に、薄く小さな光が見えていた。


 そして僕は――家庭裁判所に書類送検されることになった。

 警察署から出たのが、夕方くらいだった。

 僕は腐ったみかんのような夕陽を見上げ、


「……おめでとう、僕。退学確定だ」


 と、意味もなく呟き、自転車をこいで家へと帰った。




 *



 それから僕は親に怒られたり、学校に呼び出されて怒られたり(当初警察の人は学校やバイト先には連絡しない、と言っていたのだけれど、それはどうやら警察側から報告することてはない、というだけで、学校から訊かれたら正直に言うらしい)、口裏合わせを無視して、僕に裏切られた形になったリョウが家に来てやっぱり怒られたり(元はと言えばお前がバレるからいけないんだ)、それはもう怒られっぱなしの、怒られ三昧だった。

 学校の先生から退学届けを出され、「辞めるか無期停学になるか選べ」と言われ、僕は無期停学を選んだ。

 何ヶ月かかるかわからないけれど、大人しくしていれば、いずれは登校の許可が下りるらしい。当然、高校生活での目玉のイベントである文化祭、そして修学旅行へに参加できないことが確定した。

 それは、まあ、僕にとっては別にどうでもいいことだけども。

 携帯は警察に没収され、翔ともひーちゃんとも連絡はとれない。リョウと同じように、僕が裏切ったひーちゃんが怒鳴りつけにくるかと思うと、僕は家から出れなかった。

 あれから奈々ちゃんとは会っていない。

 そもそも、僕たちはお互い連絡先を知らない。

 けど、会おうと思えばきっと会える。多分、廃ビルの屋上で、奈々ちゃんはベースを弾いている。僕を待ってくれている、そう思うと、少しだけ気持ちが楽になった。勝手な思い込みだって笑ってくれても構わない。

 でも……、


「……それももう、駄目だよな……」


 僕は部屋で一人、ベースを弾きながら、零す。

 放任主義だった僕の親も、流石に今回の件はお冠のようで、母親の厳重な厳戒態勢の元、外出の一切を禁じられていた。バイトも当然禁止になった。けれど、やっぱり急なことだったので、今月いっぱいまでは働かせて貰えることになった。

 今日が二十四日だから、残り一週間。

 翔に謝らなくちゃいけない。

 僕が働けなるのは自業自得だけど、ファーストフード店のバイトを紹介してくれたのは翔だ。だから、あいつの顔を潰すことになるのは、本当に申し訳ないと思った。


「奈々ちゃんに、言わなくちゃいけないよなあ……」


 ベースを始めて約一ヶ月。

 カエルの歌を完璧に弾けるようになった僕は、奈々ちゃんに内緒で曲を練習をしていた。

 それは奈々ちゃんが好きだと言った、僕に見せてくれた、あの曲。

 まだまだ僕には難易度が高くて、上手く通して弾くことは出来ない。けど、やはり人間は成長するものらしい。僕は譜面を読めるようになっていた。

 他にやることがない訳でもない。学校の夏休みの宿題はたんまり残っていたけど、それも無期停学のおかげで期間延長し、言ってしまえば無期限というお墨付きを得たようなものだった。

 今回の件で再確認できた。

 やっぱり、僕は、壊れているんだと思う。

 まるで他人事のように――この現状を受け入れている自分がいた。

 僕じゃない誰かを、僕が上から見ているような――そんな感覚。

 なにやってんだ、お前。

 なにやってんだろうね、僕。

 夕方、バイトが始まる時間まで、僕はずっとベースを弾き続けていた。


「今日は翔がシフト休みだから……謝るのは明日か……」


 バイトの帰りに奈々ちゃんに会いに行こう。

 それが義務ってわけではないけど、言っておかなきゃいけない気がした。

 もう会えないんだって、

 ちゃんと、この口から言っておきたかった。



 *



 午後十時。

 バイトが終わり、店長の冷ややかな視線を後ろに、僕は店を出た。

 自転車をこぎ、廃ビルを目指す。

 親の厳戒態勢は放任主義の名残か、僕がバイトから帰宅する間にまでは引かれなかった。


「……奈々ちゃんになんて言おうかな……」


 夜の冷たい風を肌で感じながら、僕は考える。

 しかし、その考えもまとまらないまま、僕は廃ビルに到着した。

 設けられている立体駐車場。その入口の侵入禁止の黄色と黒のロープをくぐり、坂道を上がる。

 屋上に出て、僕は足を止めた。


「……よう、会いたかったぜぇ……裏切り者」


 ひーちゃんがいた。


「……なんで、ひーちゃんがここに?」

「昼間、リョウから聞いたんだよ。裏切りもんのお気に入りの場所つってなあ。いや、ホントおめーにはやられたよ、裏切られたよ、ぶち殺したくてずーっとずーっと待ってたんだ」

「…………」


 すっと心が冷たくなっていくのがわかった。

 ……なるほど、リョウか。

 納得ではあった。

 幼なじみを簡単に裏切ってくれる――と思ったけれど、先に裏切ったのは僕だから、そこはお互い様か。そもそも、リョウが僕とつるんでいる理由を考えれば自明だ。リョウにとって、いつだって僕はトカゲの尻尾だ。自分の被害を抑えるための隠れ蓑だ。

 そんな僕に裏切られて、リョウはどんな気分だったのだろう?

 ……はっ、いい気味だ。

 これでチャラってことで、きっぱりとお前とも別れよう。

 僕は自分に言い聞かせる。

 僕にはもう、なにも必要ない。

 なにも必要ない。

 なにも、必要ないんだから。

 ……まあいいや。そんなことより、今何時だろう? バイト先を出たのが十時過ぎだから……移動時間を考えると、だいたい十時半くらいか?

 ……まずいな。

 早くこの問題を終わらせないと。

 僕は両手を広げ、


「ごめんね、ひーちゃん。裏切ったことは悪いと思ってる、だから抵抗はしない。好きなだけ殴ってくれ」


 と、言った。


「……あ? スカしてんじゃねえぞコラ」


 ひーちゃんは低い声で威圧しながら、一歩、また一歩と近づいてくる。

 僕は歯を食いしばり、お腹に力を入れた。

 ドコッ、

 と。

 まずはお腹に一発。

 僕の軟弱な身体は、くの字に曲がった。


「おめーのことは前から気に入らなかったんだよ」


 それは奇遇だね、僕もさ、クソ野郎――とは、もちろん言わない。

 もう今更だったから、言ってもよかったんだけど。

 続けて――下がった僕の顔にめがけグーパンチ。

 首を持っていかれそうな感覚に、僕はよろけ、たたらを踏む。でも、顔なら馴れている。お腹よりはいくらかマシだ。

 痛い。

 けど、それだけ。

 苦しくはない。

 罵声と馬頭を投げつけられ、二発、三発、四発と殴り続けられる。

 口の中が切れたのか、血の味と臭いがした。

 ふむ。

 匂いがするってことは、まだ僕は冷静であるらしい。

 顔を拭った手に血が付いていた。赤色だった。ここで緑色とかだったら笑えるのに。しかし、この出血量は、どうやら鼻が折れたか?

 五発、六発、七……この辺りで、僕はふらふらになり、倒れた。けど、やっぱりひーちゃんだから、そんな僕に構うことなんかなくて、それどころか足で蹴ってくる。

 八発目は強烈なお腹への蹴り。

 ああもう、だからそこは苦しいからやめてって言ってるじゃないか。

 僕は後頭部に手を当て、身体を丸める。

 九発……十……、


「――――――――」


 遠くの方でわめくような声が聞こえた。

 誰の? 僕の? ひーちゃんの?

 ふと、僕を蹴る足が止まっていることに気が付く。束の間、また蹴られた。

 不意打ちはやめて欲しい。

 えっと……今のは何発目だっけ……?


「――やめて! やめてって言ってるでしょっ!」

「るせえよ! 邪魔すんじゃねえッ!」


 きゃっ、と小さな悲鳴が聞こえた。

 聞き慣れた、久しぶりのその声――ああ、間に合わなかったんだな、と思った。


「やめて、やめてよぅ……」


 泣きそうな声で、奈々ちゃんは僕の名前を呼んだ。

 駆け寄って来てくれたのかもしれない。

 面倒くさい。なんてタイミングの悪い。


「……あ? あー……おめー見たことあんな、誰だっけ……ああ、そうだ。中学一緒だったよな、確か。七瀬奈々……だっけか? 登校拒否ってたから全然覚えてねーけど」


 奈々ちゃんが登校拒否?

 へえ、そうだったんだ、と思った。

 それ以上は何も考えなかった。


「つか、なんでおめーがいんだよ? また虐められて―のか? 邪魔だっつの。消えろや」

「あんたが消えなさいよ! け……警察を呼ぶから! 呼ばれたくなかったら今すぐあんたが……」

「あ?」


 一瞥くれるついでに僕は蹴られた。

 これも不意打ち。

 死ね、と思う。

 奈々ちゃんの台詞が気に入らなかったのか、ひーちゃんは――どうやら攻撃の対象を、彼女に向けた。これ以上に嘆息するようなこともない、と思っていたけれど……やれやれ、本当に面倒もここに極まれり、だ。


「……あ、れ……なんだい? もう、気が済んだのかい? ひー……ちゃん」


 僕は声を絞り、言った。


「てめえ、俺をなめてんのか?」


 ひーちゃんは地べたに伏せる僕をにらみつけた。

 はっ、単細胞め。

 これで奈々ちゃんが消えてくれれば、とりあえずは恩の字なのだけれど――と思ったが早いか、再度、奈々ちゃんは僕の名前を呼ぶ。

 台無しだった。

 ……その名前、もう忘れてくれて構わないよ?


「なんだあ? おめーら知り合いか?」


 その言葉に、僕の心臓がバクンと唸る。

 ひーちゃんは這いつくばる僕をにらんだ。

 僕は、

 僕は……、

 僕は…………、


「知らない」


 と。

 酷くしゃがれた声で、そう言った。


「初めて……見たよ、そんな子」


 あれ? おかしいな。


「僕が……この僕が人と関わりを持とう……って時点で、おかしいじゃないか」


 僕はいったい、何を言っているんだろう?


「……誰かと勘違い……してるんじゃないかな?」


 しどろもどろに僕は言う。

 そんなこと、言いたくないのに。

 

「そもそも……高校も中学も違うんだし……そんな、登校拒否の子と、僕が、知り合いなはず、ないじゃないか。頼むよ、ひーちゃん」


 彼女を傷つけるようなことなんて、言いたくないのに。


「あー……、それもそっか」


 へっへっへ、と、ぶち殺してやりたくなる声で笑うひーちゃん。

 奈々ちゃんの顔が酷く歪んだ。

 直視することが出来なくて、僕は視線を地面に向ける。

 奈々ちゃんは居なくなった。

 僕はその姿を見れなかったからわからないけど、多分、逃げたんだと思う。それでいい、って思った。奈々ちゃんの顔を思い出しながら、これで良かった、って思うことにした。

 受け入れる。

 僕は受け入れる。


 これが現実だから、だから僕は受け入れ――


「なんだよありゃあ。つーか、何しに来たんだ? あのブス」

「…………、…………」


 ――ない。


 ……その言葉だけは、受け入れられない。

 この場に彼女はもういない。けど、彼女を罵るような発言、それだけは許せない。

 ああ……そういえば、お前、さっき彼女を泣かせたな?

 悲鳴も聞こえたし、もしかして突き飛ばしたりしたのか?

 それはいけないな、いけない。絶対に許せない。

 万死に値する。

 ふつふつと湧き上がる――胸の内から込み上げてくる感情。

 怒り、嫌悪、憤慨、忿怒、怨恨、憎悪。


 僕の中の決定的な何かが切れた――そんな音が聞こえた気がした。

 あるいは、致命的な部品が壊れた、か。


 ……死ね、と思った。

 死んでしまえ、と強く思った。

 小さく「……殺してやる」と、僕は口から出力する。

 殺そう。

 確固たる意志で。

 お前を、骨の髄まで解らせた上で、殺して、殺して、殺してやる。

 死ね。

 死ね。

 死ね。

 死なないなら、だから、僕がお前を殺してやる。殺してやるよ、お前が僕を、僕を殺したように、酷く醜く残虐冷徹に殺してやる。呪え、歌え、敬え、尊え、そして償え。

 お前が、お前が、お前が、悪い。

 垂れ流してきた害悪を後悔しろ。

 傷つけてきた人間に死んで詫びろ。

 生まれ落ちてきたことは許してやるから、だからお前は死んで償え。

 全てに絶対に十全に完璧に何を差し置いてでもお前が悪い、全ての諸悪の根源、お前が死ねば全てが上手くいく、お前の存在自体がどうしようもなく間違っていた、意味なんて皆無、価値なんて絶無、お前は生きてちゃいけない、お前なんか生きてちゃいけない、だから生きている理由なんかない、お前が生きていていい理由なんかない、お前が死んで悲しむ人間なんていない、お前が死んだら少なくとも僕は腹の底から思い切り笑ってやるから、だから、だから、だから――


 死ね。

 殺してやるから――全てを理解した上で死ね。


 そうして……気がついたら僕は、ひーちゃんに殴りかかっていた。

 僕は、さらにボコボコにされた。

 勝てる見込みなんてなかった。

 それはわかってはいたんだけれど、なんでか、なんでだろう?

 僕の身体は、僕のいうことをきかなかった。 



 そして、誰もいなくなった、廃ビルの屋上。

 奈々ちゃんも、ひーちゃんもいない。

 懐かしい感覚だった。

 一人、独りで、矮小な枠。

 かつて、僕はこの中で孤独を望んでいた。


「……おかえり、僕」


 身体中が痛い。

 けど、それよりも胸の痛みのほうが大きかった。

 奈々ちゃんにはもう会えないな……と、本当の意味で思い知った。そして、失ったんだな、と本当の意味で理解した。

 ……流石だよ、ひーちゃん。お前はいつも僕を打ち崩してくれる。

 寝返りをうち、空を見上げると、星が輝いていた。

 涙が出そうになるほど、その夜空は綺麗に輝いて見えた。

 包み込むような闇。

 ばらまかれた星。

 半欠けの月。


 僕はそれに向かって手を伸ばす。

 月は遠くにあった。僕の手の届かない場所に。


「…………」


 しばらくして、僕は力なく腕を落とした。


「…………ははっ」


 僕は笑う。

 虚像だった。虚構だった。

 全てが僕の幻想でしかなかった。

 ああ、これはかなり面白い類のお話だ。

 思う存分裏切れ、そして罵れ、馬頭しろ、僕を否定して否定して、否定してくれ。

 なんのことはない。

 やっぱり、僕なんかこんなもんだった。

 身の程知らずもいいところだ。

 笑える。

 なんていう傑作だ。

 もういっそ、僕なんか、死んでしまえばいいのに。

 僕なんか、

 僕なんか、

 僕なんか、

 僕は、僕は、僕は……



 もう……

 お願いだから、

 死なせて、

 死なせてよ……

 生きていて、惜しいことなんて、もう、本当にないんだから……

 僕を、

 誰か、

 心臓を、

 お願いだから、

 止めて、

 息の根を、

 止めて、

 命を、

 絶って、

 僕を、

 僕を、

 僕を、


 終わらせてくれ。


 終わらせて、くれよ……お願いだから……





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