第五話 僕は立ち止まった(上)
幸せはいつだって過去形だ。
*
それは八月に入って夏休みも半分を過ぎた頃、お盆の前もあってか街は賑わっていた。
僕の住んでいる街では、毎年お盆になると夏祭りが行われる。市の中心にある大通り――そこを二日間完全閉鎖して、道路一面に屋台が並び、特にこれといった催し物があるわけじゃないけれど、封鎖した道路の半分を使って数百人規模の盆踊りが行われたりして、これを目当てに隣町や、県外からも人が来たりと、のどかな街が賑わう年一回の大きなイベントだ――
――と、翔が言っていた。
無論、勿論、当然、必然。
僕がそんなお祭りなんかに足を運ぼう、という気になるはずもないことは、今更言うまでもないことだろう。暑苦しくも窮屈な人ごみに紛れるくらいなら、僕は迷わず一人チェスや、一人七並べ、一人百人一首だってやってのける自信がある。暇な時間を暇で潰すことを趣味としている僕を、あまり舐めないでほしい。
でも、今年はベースを買ったから、その練習に二日間……というか、この夏休み全てを費やしてもいいなあ、くらいには思っていた。
しかし。
しかし、だ。
今年の僕は何かが違ったらしい。
お祭りという言葉には魔力がある。
楽しそうな、陽気そうな、なにかしかが。
ことの始まりはバイト終わりに翔から、
『……あ、そういえばさ。お前、今年の夏祭り行くの? どーせ予定なんてねーんだろ? さみしー男同士慰め合って、傷の舐め合いならぬリンゴ飴でも舐めにいこ―ぜ! んでんで、あわよくばナンパなんてしちゃったりしてみちゃったりしてさあ! 県外の年上のおねーさまとお近づきになって、車でドライブ、夜の海、夜の砂浜をお散歩デートとか……うっわ、たまんねえー! も、燃えるっ! 燃えちゃうよ俺! 大人のアレコレ教えて貰いてー!』
と、祭りのお誘い(?)を受けた。
まあ、それは即答でお断りしたのだけれども。
僕の頭は翔の妄想より先に夢想したのだ。奈々ちゃんと二人縁日に足を運び、青春をクラッシックゴスペルよろしく謳歌する、それはそれは青春なビジョンを。
誘いを断られ不服そうな翔に対し、僕は追い打ちをかけるように、
『――それと、僕を勝手に寂しい男同盟に加えないでよ。今年の僕には、“そういう予定”があるんだから――』
などという意味深な台詞をニヒルな笑みとともに吐き捨て、そして優越感丸出しにバイト先であるファーストフード店を後にしたのだった。
ごめん、翔。
どうやら僕は調子に乗っているみたいだ。
きみにも早く春が来るよう、僕は心から祈ってる。嘘じゃないよ、本当さ。割とどうでもいいだなんて思っていないよ。僕はそんなみみっちい人間じゃあ、絶対にないんだから。なんならリンゴ飴を掛けたっていい。綿アメもつけよう。
ともあれ。
そんなこんなで、僕は奈々ちゃんの浴衣姿を想像しながら、今日はこの話題だな、と皮算用しつつ、廃ビルの屋上へとベースを背中に自転車をこいでいた。
「行きたくない」
一蹴された。
「ええ、なんで?」
「だって私、人の多いところ嫌いだし……」
「そうなの?」
てっきり賑やかなことが好きそうなイメージだったけれど……。
人は見かけによらないんだなあ、と思いつつ、
「でもさあ、折角の夏なんだし、夏休みなんだし。たまにはいいんじゃないかな?」
……ん?
これ誰の台詞? 僕? まさか僕か?
あれ、おかしいな。こんなことを言えるような奴だったっけ……僕って。
「あれま! きみが食い下がるなんて、めずらしいこともあったもんだねえ!」
腕をパッと開いて、驚いたような仕草をする奈々ちゃん。
「……奇遇だね。僕も今それを思っていたとこなんだけど……」
どうやら、僕が調子に乗っているのは間違いないらしい。
未練がましく食い下がる僕の図。
想像しただけで、なんだかむず痒くなってくる。
「んん? あれっ? あれれれれ? もしかしてアレかな? きみは私とお祭りに行きたくて行きたくて仕方なかったー、とか、そういうアレなのかなっ?」
頭を下げた僕の顔を、這い寄って覗きこんでくる奈々ちゃん。
うっ、と思う。
うううっ、と思う。
「もしかしてもしかして――私の浴衣姿、想像してたりとか? やだ、エッチ」
ズバリだった。
奈々ちゃんはエスパーかもしれない。
「ち、違うよ。そんなこと考えてないよ」
「ふうん? じゃあ、自転車二人乗りで私を後ろに乗っけて、いきなり急ブレーキをかけて密着しよう――とか、お祭りで離れるといけないから、それを口実に手を繋ごう――あわよくば恋人繋ぎでっ! とか、そんな浅はかで浅ましい考え、してたり……?」
「……やけに具体的だね」
ちなみに、それは本当に思っていなかった。
もし翔なら『恋人繋ぎっ!? そんな、手と手を絡めて――手、だけに!』とか、よく分からない上に、下らないダジャレ交えつつ言いそうだな……と思った。つくづく翔は羨ましい性格をしている。
しかし、なるほど……そういう手もあるか。
「そんな想像してないよ。まあ、確かに僕らしくもなかったかな(僕らしさってのも不明瞭でしかないけど)。……ただ、毎日夜に屋上でってのも味気ないかなって思ってさ」
僕は恥しさを誤魔化すように言った。
ついでに誘いを断られるというのは、なんというか物悲しいものなんだな、ということも知った。翔と映画を一緒に行ってあげよう、とほんの少し思った。
「……なあんだ。そんな想像してくれてたら面白かったのに」
ちぇっ、と子供っぽくそっぽを向く奈々ちゃん。
近づいていた顔が離れてほっとする反面、なんだかちょっと惜しい気もする。
「……もし、僕がそう思ってたら、一緒に祭りに行ってくれるの?」
「考えはする――かもね。……でも思ってないんでしょ?」
「すごく思ってました」
半刹那の間髪も入れず、即答した。
このときの僕は本当にいい顔をしていたと思う。
奈々ちゃんは意外、といった風にきょとんとして、
「んふふ、きみも素直になったもんだねえー」
と、からかうように笑ってみせてくれた。たしめられている感が半端じゃない。
でも、それでも奈々ちゃんにならば――むしろ僕の望むところだった。もっとして欲しい、とも思う。
ううむ。
なるほど。
どうやら僕は尻に轢かれるタイプの男だったらしい。
「でも、断る」
やっぱり駄目でした。
「ええ……このくだりはいったいなんだったのさ……」
「ごめんね。きみがそう思ってくれるのは私もすごく嬉しいし、お祭り一緒にって誘ってくれたのも勿論嬉しい。きみとデートちっくなことしたい、ってゆうのも正直に思ってるけど……人ごみは本当に苦手なんだ、私。……だから、ごめんね」
胸の前に手を合わせ、心底申し訳なさそうに謝る奈々ちゃん。
むう……。
でも、まあ、それなら……うん、仕方ない。
嫌がる相手を無理やりにっていうのもどうかと思うし、何気に頑固な彼女を、奈々ちゃんを僕ごときが祭りに連れていけるだなんて、思ってもいない。
そもそも僕は――そんなキャラじゃない。
『調子に乗る』だなんて、どうしようもないほど僕には似合わない言葉だ。あまつさえその勢いに呑まれて、女の子を誘うだなんて、こんなのまるでデートのお誘いじゃないか。
笑える。
いったいなにを勘違いしてるのだろう?
ああ、もう、面倒くさいな。
シュンとするんじゃねえよ心臓、寂しくなんかないんだからな。お前は一定のリズムで動いてればいいんだよ、落ち込むっていう感情を覚えてから出直して来い。
気を取り直し、僕はベースの入ったソフトケースに手を掛ける。
そして、いつものように奈々ちゃんに言う。
「――じゃあ、そろそろご教授願おうかな」
その言に対し、いつものように奈々ちゃんも応える。
「じゃあ、出来の悪い教え子の為に、奈々先生が今日もピックを握ってあげよっかな」
連日に及ぶ練習の成果もあってか、指は小指以外の三本を使えるようになっていた。
けれど、持ち曲はまだ一曲だけだった。
僕は荒々しく、カエルの歌を掻き鳴らした。
「こらっ! そんな乱暴に弾いたらその子が可哀想でしょ!」
怒られた。
もう、たまにはいいじゃないか。
*
お前の顔面の筋肉がそんな稼働を見せることに俺は本当に――それこそ腹の底に穴が空いて、空気漏れ出たゴム風船よろしく、空の彼方に飛んでいきそうなほど、心底驚いているよ――
と。
リョウは言った。
なんで僕の周りにはこういう失礼な物言いにだけ長けた人間が多いのだろう?
僕をなんだと思っている。
「いや、最近なんか無駄に明るくなったと思ったけど、まさかお前に彼女が出来たとはなー」
八月十日。
暑っ苦しい日々に追い打ちをかけるように、ここのところ毎日リョウが家に来ていた。多分、その理由なんてものは、ほとんどないに均しい。単に暇だったから――とか、その程度。
しかしまあ、なんて言うか、実際に暇だった。
すんごく暇だった。
昼間からやることもない僕たちは、僕の部屋でごろんと、特に何をするでもなく、ただ時間を無駄に潰していた。ある意味では、僕は趣味を満喫しているとも言える。
「そんなんじゃないよ、あと無駄って言うな」
僕はベットに寝っ転がりながら、リョウの言葉を否定する。
彼氏、彼女とか、そういうんじゃない。
そいういうベクトル上に、僕たちはいない。
「へー。でもさ、そうじゃないとしますけどさ、なんでお前その子の話するとき、超嬉しそうな顔してんの?」
「……そんな顔、してない」
「正直、ずっとつるんでたけどさ、俺初めて見るよ。お前のそんな顔」
「だから、してないってば」
「ノロケ話なら勘弁なんだけど――でもお前がってんなら、話は別だ。ちょっと興味湧くなーお前をそうさせた女の子ってのが」
何故人間とは人の色恋沙汰にここまで敏感なのだろう?
いや、色恋とは決して違うのだけれど。
少なくとも、僕はそう思っているのだけれど。
でも、奈々ちゃんは僕をどう見ているんだろう――なんて、考えたりはしない。そんな期待は、こと僕においては必要ない。
と、思う。
そう思っている。
「なあ、その子に合わせてくれよ」
「……なんで?」
「なんとなく」
「嫌だ」
「なんでだよ?」
「なんとなく」
リョウは意地悪そうに笑った。
「ふーん? じゃあ勝手に会いに行っちゃおうかなー。廃ビルだろ? 夜の十一時だっけ、待ち合わせ」
「……リョウ、怒るよ?」
「お・こ・るぅ? お前が? ぷふふ、ありえねえ」
……本当に失礼だな。
僕だって怒るくらいは出来る。
怒ったことなんて一度もないけれど。
「……しかし、へえ、なるほど。神聖な花園にゃ邪魔な虫は近づけたくねーってか? 夏の夜に二人っきりでなにしてんだか、怪しいもんだな。このスケベ!」
「人聞きの悪いことを言うな。スケベ違う。断じて違う」
そんな身のない会話をしている最中――ピリリリ、と、携帯の電子音が鳴った。
僕のではなく、リョウのだ。
「うっわ……マジかよ。ひーちゃんだ……」
心底嫌そうな顔で、リョウは携帯の画面を見た。
ひーちゃんは嫌われている。僕からも、リョウからも。
でも、
「はい、もっしー? ひーちゃん、どったん?」
逆らうことはしない。出来ない。
何を考えているかわからないから、何をしでかすか、本当にわからないから。
それはきっと、恐怖とか畏怖とかなのだろう。
ひーちゃんという枠は、違う意味で僕と似ている。
孤独は同じ、けど、それを感じ、全てを受け入れたのが僕。それを感じず、感情を一方的に出力しまくるのがひーちゃん。それは、あまりにも致命的な差異だ。
誰にも迷惑をかけない分、僕のほうが少しはマシなのだろう、とは思う。
けど、ひーちゃんには意味があり、価値がある。
出力することが出来ない僕には、そんなものはない。
……まあ。
そんなもの、欲しくもないのだけれど。
「うわぁ……終わった。面倒くせぇ……」
通話が切れたか、携帯画面をねめつけ、リョウはそう言った。
「……ひーちゃん、なんて?」
僕は訊く。
どうせ、僕も関わることだから。
「ジャイアンが召集だってよ、祭りの日。族のケツ持つからバイク持参だってさ」
「……あー……」
ケツ持ち。
簡単に言えば、トカゲの尻尾だ。
やんちゃな暴走族なら、警察に追われることが、ままある。
そのとき一番後ろに切り捨てるための人間を置いておけば、万が一のとき本隊は助かる――という、人権無視もいいところの役目。貧乏くじ。
そういうところに顔を突っ込みたがるひーちゃんだから、こういう話が来るのは良くあることだった。年に一度の祭りともなれば、やはりその比率も上がってくる。
正直に、絶対行きたくない、と思った。
「終わったね」
「終わったな……」
「どうしようもないね」
「はー、マジやってられん。ちょ、俺インフルかかってくるわ」
そんなことを言い出すリョウ。
確かにインフルエンザで一週間寝込むほうが十倍はマシだろう。けど、それを断ると後が怖い。酷く怖い。ひーちゃんに何をされるか、わかったもんじゃない。
僕は大きく溜め息をつく。
これなら翔と男二人悲しくリンゴ飴を舐めに、あわよくば県外のおねーさんに大人のアレコレを教えて貰うほうが良かった。……まあ、それでもどうせ呼び出されたんだろうけれど……。
暇を持て余していた僕らに舞いこんだ予定は、それはそれは最悪なものだった。
*
祭り当日。
先に言っておくと、僕は悪いことをした。
ひーちゃんが言っていたらしい『バイク持参な』の言葉の通り、僕とリョウは原付バイクを用意した。もちろん、高校に通っている僕らの主な移動手段は自転車で、バイクなんて学校が許可しないし、僕たちも免許もバイクも持っていない。
それでも用意した。
つまり、盗んだ。
二台。
僕と、リョウの分。
罪意識はあった。罪悪感もあった。
後悔もしたし、自分がさらに嫌いになった。
でも、やっぱりひーちゃんが怖いから、僕たちは用意した。
当初の予定通り、すでに族と合流していたひーちゃんに追いつき、祭りが行われる大通りから離れた場所で、僕たちは暴走族のケツを持った。
捕まれば無免許で、恐らくは退学。良くて停学だろう。
そんなことを思いつつ、ビクビクしている僕をあざ笑うかのように、ひーちゃんは僕をバイクで煽った。リョウはリョウでその状況を楽しんでいるのか、笑顔で一緒になって僕を煽る。
そういう雰囲気だから。
そういう空気だから。
リョウがそう動くのも、仕方のないことだ――と、僕はちゃんとわかっている。
結局。
その日は何も問題も起きず、朝方に解散となって、僕は家に帰った。
リョウと二人で盗んだバイクをどうするか、僕たちは考えた末、近くのショッピングモールの駐車場に放置した。また必要になるかもしれないから、キ―は抜いておいた。
欠陥品はどこまで行っても、やっぱり欠陥だ。
人様に迷惑を掛ける。
これじゃあ僕とひーちゃんの差異なんて、それこそ無いに等しい。
まあ、でも。
それも仕方のないことだ。
僕なんて、そんなもんだ。
こんなことをやってのけて、それでも善人面するほど、僕も馬鹿じゃない。
ただ、奈々ちゃんに会うのが、少し、怖くなった。
それでも、その時は――その時だけだと思っていた。
*
数日経って、僕の携帯に電話が掛かってきた。
知らない番号。
ひーちゃんか? と思い、戸惑う。
けど、後が面倒になると困るので、少し迷ってから僕はそれを受けた。
『あーこちら明越警察ですが。バイク、心当たりありますよね?』
心なしか低い声で、事務的に、さもなんでもない話をするかのように、電話口の男はそう言った。
対して僕の思考は止まった。
ようやく動きだした頭の中は真っ白だった。
けれど、僕は小さく頷いた。
……警察?
ああ、なるほど。
やっと、やっと僕にもツケが回って来たんだな――……と。
酷く冷静に、僕はそう思った。