第四話 僕らは歩み寄った(下)
「ぎゃー! なにこれっ! なんでミュージックマンなんて持ってるのっ!? う・ら・や・ま・しいぃぃぃっ! いいなあ、いいなあっ! 私も欲しいなあ……ううう……」
テンションマックスの奈々ちゃん。
身振り手振りを惜しみなく使い、僕にストレートな感情を出力する彼女。
夏の夜。深夜の手前。
廃ビルの屋上。
僕たちはいつものように、薄暗い階段室の地べたに座りながら、談笑をしていた。
談笑……というか、僕にとっては談話なのだけれど。
まあ、それはさておくとして、どうやら僕の持ってきたベースギターは相当イイ物だったらしい。八万円は高い買い物だったけれど、それを思えば買って良かったと思った。
店員さん、感謝します。
「まあね、これくらいはね」
と、余裕ぶる僕。
「この子はきみには勿体ないよっ!」
奈々ちゃんはぺちん、と膝を叩き、身を乗り出すように、前屈みに僕に詰め寄る。
近い。
なんという距離感。
息が掛かりそうなほど接近した奈々ちゃんは、むくれた顔をふっとやわらげ、
「ねーえ、この子ちょーだい?」
と、可愛い声で言ってきた。首をかしげつつ、おねだりするその破壊力は相当なものだった。
楽器を『この子』呼ばわりする意図はわからないけれど、それだけベースが好きってことなのだろうか? どうも、その辺の価値観は理解出来ないし、混じることも出来ないけれど……ことなきように合せることは出来る。それについて僕は長けている、と自負している。
僕は奈々ちゃんの鼻を指ではじき、
「残念だね。僕はコイツを見た瞬間、こう、(金額的に)ビビって来たんだ。(店員さんいわく)コイツだ、ってね。だからお断りだ」
嘘は言ってない。
念のため。
「ぶー」
「ぶーたれない」
「ぶひーっ!」
「豚にならない」
「ばっよえーんっ!」
「えっと……、か、感動の呪文を唱えない?」
僕も成長しているのだろう、ある程度の突っ込みも出来るようになってきた。というか奈々ちゃんに振り回されている内に覚えた。これも一種の処世術だ。
「てゆっかさ、これいくらしたの? ミュージックマンってすんごい高いのに! もしかしてきみってお金持ちだったりするのかな?」
「バイトしてるからね。お金が余ってたから、まあいいかって」
依然、余裕ぶる僕。
「余ってた!? うわー、ブルジュアって感じ!」
「そう高い買い物じゃなかったよ。八万くらい」
「え? 八万円? それパチモンじゃん」
俄然、余裕ぶるぼ…………あれ?
「……え?」
「えっ?」
「え? いや、ちょっと待って。いま、なんて?」
「パチモン? ミュージックマンって普通二十万円くらいするよ」
「……………………」
店員てめえこの野郎。
「あっ、でも、家弾きなら十分過ぎるくらい良いベースなのは間違いないよっ! 私が欲しいくらいだもん!」
あたふたとフォローを入れてくれる奈々ちゃん。
考えてみれば、店員さんに当たるのも、それは御門違いというものだった。
「どっちにしても、生かすのも殺すのも弾き手の腕次第だし! せっかく買ったんだから練習しなきゃっ! ねっ?」
ね、に合わせてぎゅっと手を握る奈々ちゃん。
練習、つまり努力。
鼻から盛大に息が漏れていくのがわかった。
僕の嫌いな言葉トップランク一位と二位を飾るワード。
「……うん。でも、昨日もちょっと弾いたんだけどさ、やっぱりズブの素人だから、何から始めれば良いかもわかんなくて……」
ピックもないし。
「始めは……どうだろうねえ……。私はカエルの歌から練習したけど……きみもやってみる?」
何も考えず、僕はこくりと頷く。
奈々ちゃんはソフトケースからベースを取り出し、持った。
僕も同じように真似て、真新しいケースからベースを取り出す。
「じゃあいくよ? 三弦の三フレット目が『ド』の音――ここだね。二個下がって五フレット目が『レ』――」
呪文を唱え始めた奈々ちゃん。
ちんぷんかんぷんな僕は、彼女の手を見て固まった。
……なるほど、どうやら押す場所によって音が変わるらしい。というか、それ全てを覚えなきゃいけないのだろうか? 『ド』はどの音? どの場所? この何十もあるマス、その一つ一つの音を奈々ちゃんは覚えているのか……ううむ、やはり特進はすごい……と、的外れなことを思う僕。
「で、一弦の五フレット目が上がっての『ド』。とりあえず、まずはこれを覚えよっか!」
僕は目を伏せて、
「実は……ピックを買い忘れちゃって……」
「ピック? ああ、もしかしてきみって見た目通りおっちょこちょいなのかな? でも、ベースはピックが無くたって弾けるよ?」
むしろ指引きのほうが主流だもん――と、奈々ちゃんは言う。
……見た目通りって、僕はそんな見た目をしているのだろうか?
「え、でも奈々ちゃんはピック使ってるじゃん」
「それは好きなバンドのベースがそうだから。ちなみに、私だって指でもちゃんと弾けるんだからね?」
そう言って、奈々ちゃんは上から抱えるように右手をベースに添え、僕が教わったところとは違う場所で指を踊らせ、弦を撫でまわし、カエルの歌を弾いてみせた。
弾き終わってちらりと僕を見、「どう?」と訊いてくる。
僕は「カエルの歌だね」と返す。
ふん、と小さく鼻を鳴らす奈々ちゃん。
今度は持ち方を変えて右手の親指で弦を叩くように、中指で弦を引っ張るように弾いてみせた。高音低音が入り交ざり、あろうことか打楽器の音まで聞こえてくる――昂揚のある、リズムカルで跳ねるようなカエルの歌。
思わず、僕は歓声を上げた。
「すごい! 格好いい!」
ふふん、と奈々ちゃんは鼻で笑って、
「これはねえ、スラップって言ってちょっと上級者なテクなのですっ!」
「奈々ちゃん上級者な人だったの?」
「失礼なっ! これでも私、二年くらいベース弾いてるんだからねっ! これくらいは出来て当然!」
「あう……御見それしました」
「ふっふっふ、頭が高ーい! 控えおろーう」
うつむく僕。
「表をあげーい!」
顔を上げる僕。
「……スラップ……だっけ? 僕にも出来るようになるかな?」
「練習すればね。とにかく練習あるのみだよ!」
ほら、と促されるまま、僕は弦を押さえる。
弦を指で弾く。入力された『ド』がベースから出力された。
「…………」
「次は二個下」
ネック(ギターの首の部分)を持っていた左手、その人差し指をそのまま下に二マス動かし、同じように弾くと『レ』が鳴った。
「そうそう、そんな感じ!」
「…………」
むう……、
なんだろう、これは。
思わずにやけてしまう……。
そうやって、小一時間ほど。
僕は奈々ちゃんのありがたいご教授を受けた。
たどたどしくはあるけれど、僕はカエルの歌を通して弾けるようになった(ただし左手は人差し指のみ)。
「……指、痛い……」
「最初はね。私も痛くて指に絆創膏捲いたりしたもんだ……」
しみじみ、といったふうに目をつむり、腕を組んで、頷く奈々ちゃん。
「でも、だいじょーぶっ! 弾いてればすぐになれるから!」
と、ピースサインを作り、ニコっと笑ってみせてくれた。
奈々ちゃんはリアクションがいちいち大きい。見ていて飽きないといえば、うん、飽きないけれど。
「――あ、そうだ。奈々ちゃん。まだ時間大丈夫かな?」
僕は思いついたように訊いた。
彼女は腕につけていた小さな腕時計を見て、
「んー、もう十二時か。もう少しだけなら大丈夫かな。どうかした?」
「教えてくれたお礼に、僕のお気に入りの場所を教えようかなーって。そんなに時間は掛からないよ」
「お気に入りの場所?」
「うん」
「へえ! 教えてっ! ここから近いのかな?」
「ついてきて」
僕は立ち上がり、階段室から出る。
向かって左側にあるもう動いていない自動販売機に登り、そのまま階段室の屋根へと上がった。見降ろすと、奈々ちゃんは呆けたような顔で僕を見ていた。
「来ないの?」
「いやいや、無理っ!」
……うん。まあ、予想はしていたけども。
僕は自動販売機の上から奈々ちゃんを引っ張り上げた。
初めて彼女の手を握ったかもしれない。
「きゃっ!」
と、引く勢いそのままに、つんのめった奈々ちゃんが僕に抱きつくようになる。
脆弱な体つきの僕だけれど、華奢で小柄な奈々ちゃんを受け止められないほどヒョロくはない。奈々ちゃんは手だけじゃなく、肩とか……その……うん、色々とやわらかかった。
「ご、ごめん」
「いいや。気にすることはない」
僕は鼻をふくらませながら努めて紳士的に言った。
そこからまた段差を二つ越え、看板内部に入るための小さい隙間まで移動する。
錆びたトタン、それを前に、
「あっ、奈々ちゃん。ここ、狭いから気をつけてね」
と、僕は彼女を気遣った。
後にして思えば、これはかなり稀有なことだったかもしれない。
この僕が誰かを思いやって、言葉を出力するだなんて……珍しいこともあったもんだ。
「え? ここに入るの?」
「うん。ここを登るの」
「登るのっ!?」
大げさに驚いてみせる奈々ちゃん。
暗くて顔はよく見えなかったけれど、きっと本気で驚いたような顔をしているんだろうなー、なんて、簡単に予想できた。
「……きみは私を暗がりに連れて行って、いったい何をする気なのかなあ?」
失礼なことを言わないでほしい。
とまあ、そんなこんなで。
看板内部という秘密基地的な空間に童心をくすぐられたのか、よくわからない好奇心を発揮してはしゃぐ奈々ちゃんをなだめながら、スカートにも関わらず先に梯子を登ろうとする奈々ちゃんをたしなめながら、僕は自分だけだったお気に入りの場所に奈々ちゃんを連れていくという、なんだかふわふわした気持ちを抱きながら、気に入ってくれなかったらどうしよう、とちょっと臆病になりながらも、僕らは梯子を登りきった。
「わあ……」
市内を見渡せる看板の上。
僕のお気に入りの場所。
そこからの景色に、奈々ちゃんは息を漏らした。
感嘆の声。
ぱっちりとした目がきらきらしてて、きっと奈々ちゃんはこの景色に感動しているのだろう。
感情が――動く。
……ふうん、なるほど。
がっかりされなかったのは正直に嬉しかったけれど、それとは別に、なにか突きつけられたような気がして、僕は少し切なくなった。僕も同じ人間なのに、同じ景色を見て、ここまで違うものなのか――と。
「綺麗……街と夜空が繋がってるみたい……」
ちょっとセンチな気分で隣を見る。
僕はその横顔に見惚れた。
その視線を察してか「ん?」と、振り向く彼女と目が合う。
僕は咄嗟に視線を反らし、街へと向けた。
「なあに? どうしたの?」
「……いや……詩的だなあって」
見馴れているはずの夜景が、やけに輝いて見えた。
綺麗だと思った。
すごく。
「えへへ。私はロマンチストなのです」
「素敵だね」
「きみは違うの?」
「……僕?」
……僕、か。
そんなこと、考えたこともなかった。
僕は……どうなのだろう?
夜空と繋がった街を眺めながら考えてみる。……少なくとも僕は、奈々ちゃんのように、ロマンチストではない。僕に名をつけるなら、枠でくくるなら、いったいどんな言葉が似合うのだろうか。
欠陥品? 粗悪品?
……なんか、イマイチだな。
「ねえ、きみ、学校って好き?」
「あんまり……かな」
「私も。全校生徒が同じ空間に、同じように生活してるのって、なんだか怖いよね」
「……わかるような気がする……かな」
「ねえ、きみは小説って読む?」
「あんまり」
「じゃあ、音楽は?」
「それも……あんまり、かな」
奈々ちゃんに会うまでは、興味すら湧かなかった。
僕は訊く。
「奈々ちゃんは洋楽ばっかり聴くよね」
「ん、なんていうか……周りと同じようなのは聴きたくない……っていうのかな?」
一緒にされたくない――っていうか、よくわかんないけど、そんな感じ。
と、奈々ちゃんは言った。
「僕も、それはわかるよ」
「だと思った」
僕は街を眺める。
この光一つ一つに人間がいて、その数だけ枠があって、その居場所がある。
……いや。
いけないな、こんなことを考えるのは。
「将来の夢は?」
「……何も考えてないかな」
「ふうん?」
「強いて言うなら、出来るだけ長生きせずに楽に死にたい」
「なにそれ」
「夢だよ」
「夢って言えるの? それ」
「僕の儚い夢さ」
奈々ちゃんは笑った。
彼女はよくわからないところで笑うことが多い。しかもそれが安心したような、息を漏らすように自然に、やわらかく、それでいて優しく笑うものだから、僕としては理解に苦しむ。
その目に僕はどんな風に映っているのだろう?
少し、怖くなる。
「じゃあ奈々ちゃんの夢は?」
「私はね、できれば良い大学に行って、できれば良い会社に勤めて、できれば優しい男の人と付き合って、それで結婚して、できれば子供を二人、女の子が最初で、次に男の子を産んで、できればずっとずーっと旦那さんと仲良くずっと一緒にいて、できれば最後を看取ってから、私も死にたい」
「…………」
「なに? なんで笑うの? 私変なことゆった?」
「それ、嘘でしょ?」
「……なんでそう思うのかな?」
「月並み過ぎるから」
「……バレちゃった?」
「うん」
宙ぶらりんな足をバタつかせ、むー、と唸る奈々ちゃん。
手を伸ばせば触れれそうなほど、距離は近い。
なんだろう、これ。胸が……モヤモヤする。
隣に並んで座ってくれている彼女は言う。
「きみってさ……不思議だよね」
「不思議?」
「人間のこと、嫌いでしょ?」
「うん」
「でも、好きで好きで仕方ない。……違う?」
…………、
……………………違う。
「そんな、わかったようなことを言わないでよ。僕は……」
ぴとっと。
奈々ちゃんは僕に寄りかかり、その小さな顔を僕の肩に乗せた。
ドクン、と心臓の音が聞こえた。
「……な、なに?」
「私も同じだよ」
ドクン、ドクン、と。
懐かしい音。僕が忘れた音。
「きみと同じ。……ねえ、きみは何が欲しい?」
奈々ちゃんは真面目な顔で、そう。
「きっと私は――それをあげられると思うの」
とも、言った。
「……欲しいって言っても……」
「わからない?」
「うん」
「自分のことなのに?」
「自分のことだから……かもしれないよ?」
わかった、じゃあ――と、奈々ちゃんは上目遣いに僕を見て、
「エッチなことをしようっ!」
突拍子もなく、そんなことを言ってのけた。
僕は慌てた。
心臓の音が早くなった。
ドクンドクン、ドクンドクン……。
「……いっ、いきなり何を――」
ふっと。
奈々ちゃんの顔が近くなった。
近くにあった。
近すぎて見えなかった。
唇が、触れた。
時間が止まった。そんな気がした。
「――――――――っ」
僕はあまりの出来事に息が出来なかった。僕の鼻息が奈々ちゃんにかかったらいけない、と思ったのかもしれない。それか、奈々ちゃんの髪がとてもいい匂いだったので、思わず息をするのを忘れて吸い続けたのかもしれない。
ゆっくりと、奈々ちゃんの顔が僕から離れた。
そして眩しいものでも見るように、目を細めて微笑んだあと、
「えへへ……違った、かな?」
奈々ちゃんは照れたように首を傾げて、そう言った。
僕の心臓は止まった。