第二話 僕らは出会った(下)
高校二年の一学期も末。
梅雨が明け、じきに夏休みを迎える頃。
僕はファーストフード店でアルバイトをしていた。
僕の通う≪明越東高校≫では、申請さえ出せばバイトの許可を貰えるのだけれど、僕はそんなハタ面倒な手順を踏むことなく――まあ、言ってしまえば無許可で働かせて貰っていた。
無断バイトは一週間の停学らしいけれど、男の僕はバックヤードを任されているので、バレる心配はまずない。
「同年代で七瀬……あー、特進にそんなやついたかも……。どうだっけなー」
手際よくプレスオーブンからミートを取り、バンズ(半分に切ったパン)に乗せ、翔は半口開けながら明後日の方向を見てそう言った。
「特進? ……って、めっちゃ頭の良い奴がいっぱいいるとこだよね?」
僕は流し台に向かい、洗い物をこなしつつ、めっちゃ頭の悪そうなことを言う。
普通科高校に通っていない僕にとって、特進なんてものは縁のない言葉だ。
少なくとも、特進が特急新幹線の略語だと最近まで思っていた程度には。
「良くねーよ。馬鹿ばっか! お勉強が出来るだけ。人を見下したよーな奴ばっかでうぜーったらねー」
カチカチカチカチと、持っているトングを鳴らしながら翔は言った。
「ふうん。あの子、頭いいんだ……」
「……お前が人に興味持つって珍しいな。どうしたんだ?」
「いや、別に……」
「あ、わかった。いや、いい! みなまで言うな! つまり、あれだろ?」
「……あれ?」
翔はトングの先を僕に向けて、
「お前、そいつにホの字ってことだろ?」
と、ニヤニヤしながら言った。
肉の脂が飛んで僕の顔に付いた。
危ないからやめてほしい。
「違うよ。そんなんじゃない」
「ほーう? だったらなんだよ?」
「……ちょっと気になっただけ、それだけさ」
あんな時間に、あんなところいた彼女に、ほんの少しだけ興味が湧いた――
ただ、それだけ。
それも進行形であるわけだけれど。
「……へーえ?」
依然口元を緩ませながら言う翔。
僕は油のお返しに、手についた泡を飛ばしてやった。
「――うおおっ!? あわあわした泡が俺の目の中にっ!? し、しみるっ! アルカリ成分が容赦なく俺の眼球の粘膜を溶かしやがるぅぅぅッ!?」
「…………」
なんか、ごめんって思った。
翔とは中学からの付き合いで、このバイト先も翔の紹介で入った。
頭の良くない僕とは違って、翔は≪明越高校≫に通っている。進学校だから当然アルバイトは禁止されているはずなのだけれど、何食わぬ顔で仕事している分にコイツの性格がうかがえる。
「いてて……それよか、バイト代入ったら映画いこーぜ! 見たいのがあんだよ!」
目をしぱしぱと擦り擦り、涙ぐみながら、翔はそう言った。
なんか、本当にごめんね。
「ん、いいけど……。見たいのってなに?」
「ふっふっふ、『燃えろカンフー密室殺人の鎮魂歌』だ。これマジやべえよ」
「…………」
あえてタイトルには突っ込みを入れない。
とりあえず僕は、絶対行きたくねえって思った。
夜十時過ぎ。
バイトが終わり、辺りは暗くなっていた。
翔と一緒に廃棄にされるミートやナゲットをくすね(ついでに冷凍庫のシーザーサラダもゲット)、悪友と別れた僕の足が向かうのは、家ではなくお気に入りの場所。廃ビルの屋上だ。
行きしな自動販売機でコーヒー(見栄を張ってブラック)を二本買い、自転車のカゴに入れる。ガタガタ音を立てながら十五分もすればビルが見えてくる。
十時半。
……時間にはまだ少し早い。
このビルは割と大きめで、立体駐車場が設けられている。
入口には侵入禁止の黄色と黒のロープが張ってあるけれど、そんなものは意味を成さず、そのロープをくぐり、そのまま坂道を上がれば屋上までいける。
坂を登り切った僕は自転車をフェンスの脇に停め、辺りを見回した。
「……来てない、か」
殺風景に荒んだ屋上の景観。
その隅っこに置かれた自動販売機をよじ登り、階段室の屋根へと移動する。特に何があるわけでもないけれど、こじんまりした開放的なスペース。そういうものを僕は好んでいたりする。
僕は何の気なしに横になって、夜空を仰いだ。
星が、綺麗だった。
一人の時間。
僕だけの時間。
僕だけしかいない時間。
そんな時間が好きで、そのときの自分が好きだった。
唯一、そのときだけ。
「おーい」
しばらくして、声に僕は起き上がる。
下を覗き込むと奈々ちゃんがいた。
「やっほ!」
小さい体格に似合わない大きなソフトケースを肩から背負い、片手をひらひらと振ってみせる彼女。
僕は格好をつけて階段室の屋上から飛び降りた。
足がジンジンする。痛い。
これもそろそろ馴れないといけない。
「すごいねえ、私じゃあんな高さからジャンプなんて出来ないよ。きみってさ、意外と運動神経よかったりする?」
「普通……じゃないかな。平凡な一般男子さ」
僕はシニカルな笑みを浮かべ、内心ほくそ笑みながら、
「あ、そういえばコーヒー買って来たんだけど。飲む?」
と訊いた。
「飲む!」
元気よく頷く奈々ちゃん。
僕は平静を装いつつ(足首が痛い、捻ったのかもしれない)、自転車のカゴに入っているコーヒーを取り、奈々ちゃんへと放り投げた。
彼女はそれを両手で受け取ると、ラベルを見て固まった。
「……これ……ブラック?」
「うん。……あれ? もしかして、飲めなかったりする? ああ、ごめん。甘いほうが良かったかな」
うっ……、と短くうめく奈々ちゃん。
「いえ、大丈夫です。お気になさらずに。私、飲んだことありますし、こういう黒い物を嗜むこともあります」
なぜ敬語。
と思ったけれど、突っ込みを口に出来るほど僕の表現力は豊かではない。僕はパシュっと缶を開け、それがさも当たり前かのように飲んでみせた。
あう。苦い。
そんな僕を信じられないような顔で見る奈々ちゃん。
「どうしたの? 飲まないの?」
「……飲みますよ。ええ飲みますとも」
奈々ちゃんは缶を開け、コーヒーを口にした。
顔がきゅうっと強張った。
おお、すごい。ぷるぷると震えている。小鹿みたいだ。なんか面白い。
一口飲んで、奈々ちゃんはすっと僕のほうへ缶を差し出した。
「もういらないの?」
なんて、さもなんでもないように言うけれど、内心僕はちょっとだけドキッとしていた。異性から飲みかけの缶コーヒーを差し出されれば、健全な高校生ならやっぱり戸惑う。
けれど奈々ちゃんにそんな気はないらしく、
「……私は先生に訊きました。『コーヒーって身体にいいって本当ですか?』」
「……?」
「すると先生は私に言いました。『たくさんの添加物が入った飲料は、基本的には避けるべきですね。とくにコーヒーはカフェインが多く、子どもの脳への影響が心配です』……と」
「子供扱いされてるじゃん」
「違うよっ! そこじゃないよっ! 先生はきっと広い視野で言ったんだよっ!」
「好き嫌いしてるとチビっこいままだよ」
と、僕は言ってしまった。
どうやらこれは失言だったらしく。
「ひ、酷いっ!」
奈々ちゃんはぷるぷると震わせた指を僕に差して、
「きみだって背ぇ低いくせに! 私と大して変わらないくせにっ! 気にしてたのに! 身長のこと、何気に気にしてたのにっ! チビ! 馬鹿! 鬼畜っ! それから……えっと、えっと……」
彼女と僕とでは頭一個分くらい身長が違うのだけれど……。
あえてそこはなにも言わないことにする。
「とにかく、馬鹿ーっ!」
それ二回目。
奈々ちゃんは唇を尖らせ頬を膨らまし、そっぽを向いてしまった。
うん……。
なんていうか……仕草が実に幼い。つーか僕より語彙少ないんじゃないか? この子。
これで特進なのだろうか、と僕は首を傾げる。
翔の言っていたことが疑わしくなってきた。話を聞いた分に、奈々ちゃんは目立つような子ではないみたいだけれど、こんな子がクラスにいたら楽しいんだろうなー、なんて、柄にもなく思った。
ちなみに、僕の通う明倫東は商業科だけあって、在学生の半数以上は男。福祉科に女子はいるにはいるけれど、文化祭とかイベンドを除いて関わりを持つことは基本的に無い。
まあ。
共学だろうが、半男子校だろうが、どちらにしたって、僕には関係のないことだけれど。
「ごめんってば。怒らないでよ。それより今日はベース弾かないの?」
「あ、話をそらした! 話をそらしましたよこの人! 私の弱点突いておいて、そんな簡単に許されると思ったら大間違いだよっ!」
「……そういえばさ」
「なにさっ!?」
「ハンバーガーとナゲット持って来たんだけど、食べる?」
「えっ、ほんと? うん、食べるっ!」
奈々ちゃんは案外チョロい。
こんなやりとりが一週間ほど続いていた。
僕は彼女に訊かなかった。彼女も僕に訊かなかった。
“どうしてこんな時間に、こんな場所にいるのか”――だなんて、そんな野暮ったらしいこと、わざわざ訊くまでもない。
奈々ちゃんはソフトケースを置き、座った。それを見て僕も腰を降ろす。
夜食を食べ終わると、彼女はケースのファスナーを開き、いそいそとその中身を取り出し始めた。出てきたのは木製のメトロノーム、チューナー、ピック、楽譜二冊、黄色い布、そしてベース。
広げられたお店の中で、僕が理解出来そうなものは見当たらない。見慣れた光景ではあるけれど、いまだ新鮮な光景だった。
ベースを手に持ち、ベンベンベン、と練習を始める奈々ちゃん。
「…………」
うーん。
こうなると僕は暇だ。
別段、僕は暇が嫌いなタイプの人間ではない。むしろ、暇があれば暇を存分に怠惰に満喫する術に長けていると自負できる。たぶん、暇人って言葉は、僕のためにある。
けれど、二人でいるときに僕だけ暇なのは……なんていうか、つまらない。
「……なんて曲だっけ、それ」
と、つまらない茶々を入れる僕。
「え? ああ、これ? んーとねえ……、きみは知らないんじゃないかなあ……外国のロックバンドだし」
まだそこまで有名でもないしね――と。
奈々ちゃんはそう言った。
僕はそうなんだ、とだけ思って、
「ふーん。僕、その曲好きかも。聴いてて楽しい」
「ホントっ!?」
奈々ちゃんは手を止め、嬉しそうに僕を見てくれた。
「えへへー、私もこの曲大好きなんだー。なんていうか、前向きだよね。この曲。歌詞はすっごい後ろ向きなんだけどね」
前向きなのに後ろ向き。
ふと、マイケル・ジャクソンのムーンウォークが頭の中に浮かんだ。
「どんな歌詞なの?」
言ったが早いか、奈々ちゃんは楽譜を広げ、僕に突き出してきた。奈々ちゃんの顔が見えなくなった。
僕はそれを受け取って見てみる。
開かれたページには譜面の上に英語で歌詞が打ってあって、もちろんのこと頭の良くない僕には、英語を読むことなんて出来なかった。
「……ごめん、英語読めない」
「えっ」
……いや、あの……。
そんな絶望的な顔しなくてもよくないかなあ?
「……いいでしょう。お馬鹿なきみにわかるように、先生が訳してあげます」
「わー、ありがとう。ちくしょう」
そして彼女は言ってくれた。
――僕は自分自身にぞっとするんだよ。
心が僕を騙そうとするんだ。
これがずっと続くモンだから、僕は自分が壊れていってると思っているんだ。
僕は頭がおかしいのかな。
それとも壊れているだけかな?
けど、僕は自分を上手くコントロールできるようになってきた。
だから、勝手なこと言うようだけどさ。
もう少しだけ、君は僕を見捨てないほうがいいよ――
歌詞を聴いて僕は震えた。
なるほど。
どうやら僕という人間は、根っからの陰鬱野郎らしい。