第一話 僕らは出会った(上)
僕の人生は楽しくなかった。
だから僕は自分を創造したんだ。
*
市街地。
家からそう遠くはない、もう使われていない廃ビルの屋上。
日付が変わろうとする頃、僕は一人、そこにいた。
見降ろす街。夜の街。星空のような街。
そんな景色を眺めながら、ちょっとセンチメンタルな気分に浸る。
「綺麗だな……」
語彙の少ない僕には、その美しい夜景を表現する語学力は、残念ながらない。
足場は幅四十センチほどのコンクリートの柱。下を見ると足がすくむほどの高さがあり、落下防止用――というか、落下した際の拙い保険と言うべきか、細い蜘蛛の糸のようなネットがでたらめに張られている。
それが内側。
僕が身体を向ける外側には何もない。
そこには開放的な空があるだけで、落ちたら、まあ、多分即死だろう。
いまいるここは、屋上からさらに上の場所だ。
屋上にある階段室――そこの端に設置された自動販売機を足場に屋根によじ登り、二、三の段差を上がると見える、馬鹿でかい広告看板。下部の隙間からその中に入り込み、取り付けられた十数メートルの鉄のハシゴを登ると、ここに出る。
つまり、屋上に建てられた大きな看板の上。
もちろんこと、立ち入り禁止だろう。けれど、そんなことは関係ない。
だって――ここは僕だけの場所。
僕だけのお気に入りの場所なのだから。
「うぅ、寒いな……そろそろ、降りようかな……」
夏とはいえ、夜だ。
学生服のシャツ一枚では、どうやらまだ寒いらしい。
次はもう少し厚着をしてこよう――そう思いつつ、僕は携帯を取り出し、その明りを頼りに鉄のハシゴに手を掛ける。そして身体を乗り出し、下の見えない闇をひたすら丁寧に下りた。
看板下部の小さな隙間を抜け、階段室の屋根へとジャンプ。
そこでふと、聞き慣れない音が聞こえ、僕は足を止めた。
耳を澄ましてみると、ベンベン、カチカチ、と太い糸が震えるような――何かを叩くような――そんな音が聞こえる。
……え、なにこの音……まさか、お化け……?
我ながら情けない発想力でビビる僕。
でも、深夜に廃ビルの屋上でそんな音が聞こえたら、誰だってそう思うはずだ。
音に耳を傾けていると、その発信源おおよその位置がわかった。真下の階段室だ。
ひょいっと、上から覗き込むように顔を出してみる。
長い黒髪を垂れ下げ、うつむく――有名な某ホラー映画で見たことのあるそれそのままに、地べたに座り込む女性がいた。
一瞬、本気でお化けかと思って、屋根から落ちそうになった。
けれど、どうやら生きている人間らしい。
「…………」
よくよく見てみると、そんなおどろおどろしい感じではなく、長い髪はさらりとしていて、小柄な体躯。どこか着物が似合いそうな撫で肩で、服の合間から見せる肌は、月明かりでもその白さを遺憾なく僕の眼に伝えた。
女性というよりは、女の子といったほうがニュアンス的に妥当かもしれない。
その子は膝に置いた“それ”と格闘しているようで、
「……あ、ミスった……ここの繋ぎがどーも甘いなあ……二からのスライド七、ハンマの六……どぅどぅどぅん……どぅーん、ぱうんっ! って感じで……ぱうん、ぱうん……ぱぅ……、……あん、もうっ! ベースにハンマリングなんて求めないでよ、こっちは慣れてないんだからさあ!」
などと、右手を左手を器用に動かし、ぶつぶつと独り言をつぶやいている。
時刻は午前零時過ぎ。
流石に不気味ではあったけれど、僕は女の子の見知ったその服装に釣られて、
「……ねえ、なにしてるの?」
と、声をかけた。
「へ?」
女の子は顔を上げて、僕と目が合う。
「…………」
少しの間の後、
「――っひゃああああああぁぁぁ! お、お化けっ! 首なしおびゃけーっ!」
思いきり叫ばれた。
心臓が飛び出るかと思った。
「ちょっ、違う、お化けじゃない! ていうかうるさい! 叫ばないで、ごめん、僕が悪かった!」
僕は慌てて弁解し、高さ三メートルほどの階段室の屋根から飛び降りる。
着地と同時にもの凄い衝撃が足へと掛かり、思わず尻もちをつきそうになった。
馴れないことはやるもんじゃない。
なんとか転ぶことは回避して、ジンジンとする足を気にしつつ、このくらい当たり前だみたいな顔で見栄を張りつつ(多分格好良く出来たと思う)、僕は訊いた。
「それで、なにしてるの?」
「……えっ、え、えっ?」
むう。
どうやらまだ状況が呑み込めていないみたいだ。でも確かに、屋根から知らない男が首を覗かせ、話しかけ、颯爽と登場(出来たと思う)してきたら、誰だって反応が鈍くもなるだろう。
見たところ、女の子はやはり学生らしい。
僕の通っている学校とは違うけれど、この制服は≪明越高校≫のものだ。
≪明越高校≫とは進学校で地元でも比較的頭の良い奴が行く高校で、僕は≪明越東高校≫という商業高校に通っている。
勉強が嫌いだっていう理由もあるけれど、実は、僕はあまり頭が良くない。
「なっ、な、なんで男の子が空から降ってくるのかな?」
「話すと長くなるけど、特に理由はないよ。暇だったから」
と、応えになっていない返しをする僕。
「……暇だと空から降ってくるの?」
「気分次第ではね」
「そ、そうなんだ。ふうん。ちょっと良くわからないけど……」
女の子は少し怯えたように、身を引いた。
「…………」
「…………」
虫の声とカエルの鳴き声が響いて聴こえた。
透き通るような空気。静けさ。夜の静寂。
お互い、沈黙。
女の子は居心地悪そうに僕の様子を伺っていた。
ここでいきなり大声でも出せば、それはそれは面白いリアクションを見せてくれるかもしれない――などと思いつつ、しばらくして僕はわざとらしく首を傾げ、わざとらしく訊いてみる。
「……その、それってさ。ギター……だよね? きみ、弾けるの?」
女の子が肩から下げた分厚い茶皮のギター・ストラップの先。あぐらをかいた太ももに乗っているそれ。実際に見るのは初めてだったけれど、それでもそれがギターだってことくらいは僕にもわかった。
「ううん、ベース」
どうやら違ったらしい。
「ふうん。へえ、そっか。ベースか。なるほどねえ……ところで、ベースってなに?」
「ベースギターのこと」
「ギターじゃん」
「違うよっ!」
女の子は声を張り上げた。
ちょっとビックリした。
「えと、ごめん。どこが違うのか分かんないけど……」
「弦が四本だし、低音なの!」
素人が見てそんな種類なんて区別つくはずもない。女の子の反応を見る限り、なにかしらベースに思い入れのようなものを感じた。気のせいかもしれない。
「なんか弾いてみせてくれない?」
僕は訊いた。
後から思えばこれは結構泣かせな要求だった。ベースだけで演奏なんて、それこそ相当な技術がないと聴いても訳がわからない。スラップ(弦を弾く演奏法)でもすれば、インパクトがあって、素人でもすごいって思うかもしれないけれど――そもそも音楽に興味がなく、知識もカエルの歌のドレミで停止している僕にわかるはずもない。
「……え? え、えへへ……。いままだ練習中で、曲は……えっと、弾けない……みたいなっ? あはは……」
「そっか、残念」
「うぅ……」
バツ悪そうにうつむく女の子。
「ここ、座っていい?」
首肯を見て僕は腰を降ろす。
「ところでだけどさ。君の名前は?」
「七瀬奈々だよ」
「……『な』、が多いね」
「よくゆわれるかな。じゃあ次は私が訊く番! きみの名前は?」
「僕? 僕の名前は――」
思い返してみると、この頃は僕がアドバンテージを握っていたような気もする。
それは単に奈々ちゃんが人見知りだったりしただけかもしれないし、僕がまだ僕だったからこそ、突っかかるように話しかけることが出来ただけかもしれない……いや、違うか。
彼女が枠の外にいたから――まだ、僕の中にいなかったから――
……だから、かもしれない。
ともあれ。
これが僕と奈々ちゃんとの出会い。
これが影と光の出会い。
そしてこれが僕の初恋で、僕の初めての悲恋のお話だったりもする。