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僕の始まり

 


 七瀬奈々。

 『な』が多くて、どこか可愛らしい彼女の名前。

 明るい性格、物怖じしない態度、多様な仕草、飾ることのない素直な言葉。

 無邪気で、天真爛漫で、温厚篤実で、悠悠自適で、自由闊達で、自由無碍で、不羈自由で、雲心月性で、光風霽月で、そして天衣無縫に見えたきみ。


 そんな奈々ちゃんを僕は、太陽とか月だとか思っていた。

 僕は影でしかなく、きみは手の届かない存在だと。

 少なくとも、僕はそう思っていた。


 ごめん。

 それは嘘だ。


 僕は、勝手にそう思いこもうとしていた。

 廃ビルの屋上で出会ったあのときから。

 最初から、一貫して。

 考えてみればわかるだろう、普通の家庭で、普通の学校生活を営み、普通に友達を作って、普通に友人関係を築ける普通の女の子だったなら、まるで僕みたいに家にも学校にも、どこにも居場所がなく、そこから逃げだして、廃ビルなんかに来ちゃうようなことは、まず考えられない。

 つまり。

 つまり言ってしまえば、僕は同類を見つけたと思ったんだ。

 インチキを嫌い過ぎて、わけもなく周りに当たり続けるひーちゃんのように。

 あるいは、インチキを嫌い過ぎて、意味もなく自分を押し殺した僕のように。


 月は遠い夜空に輝いているからこそ美しい。

 綺麗。

 に、見える。

 だけど、ゴミ箱に落ちた月を見て、綺麗だなんて言える奴はそうはいない。


 僕はきみを見て安心した。

 同じゴミ箱に落ちてる人間を見つけたから。


 やがて、僕はきみに陶酔した。

 同じゴミ箱の仲間だったのに、そこから抜け出そうと頑張っているきみを知ったから。

 尊敬、したから。


 そして、僕はきみのそんな姿に見惚れた。

 大切に思えたから。

 好きになって、しまったから。


 僕は努力する人が好きだ。

 夢とか希望とかの価値を追っている人が好きだ。

 なんだか活気に満ちていて、見ているだけで「ああ、僕もあんな風になれたならなあ……」なんて思えるから。夢を見れるから。

 奈々ちゃんは、そんな『頑張っている人』の典型といっていい。

 登校拒否という自分の過去に立ち向かう。

 立ち向かっている、彼女。

 皮肉なことに、僕にそれを教えてくれたのは外でもない、ひーちゃんだった。

 僕をボコボコにした挙句、僕の見上げていた半欠けのお月さままでもをゴミ箱に放り込んでくれるんだから、やっぱり大したものだと思う。ひーちゃんのことは、また違う自分を見ているみたいで大っ嫌いだけれど、その一点に関しては感謝を捧げよう。

 ……もう二度と会いたくなんてないけれど。


「きみはさ」


 奈々ちゃんは言う。


「きみは、わたしのことをまるで崇めるように言うけどさ。わたしだって普通の女の子なんだから……だから、きみに他人のフリされたら、傷ついちゃうよ」


 深夜の公園。

 二人きり。

 ベンチに座る僕のとなりには、奈々ちゃんがいる。

 空気を読んだ翔はすでに帰宅していた。

 コツン、コツン、と街灯に体当たりしている夜光虫の音。

 それだけを残して、辺りはしんと静まり返っていた。

 僕は素直に謝る。


「ごめん」

「ゆるさない」


 即答された。


「本当にごめん」

「絶対にゆるさない」


 ドスドスドス、と十六ビートで肩を叩かれた。ひーちゃんにやられて、全身傷だらけなのだから、もう少し労わってほしい。

 奈々ちゃんはきゅっと唇を結んで、ちょっと拗ねたように僕を見る。

 目は涙で潤んでいた。

 その顔がなんだか可笑しくて、僕は噴き出して笑った。


「……なに? なんでそこで笑うの?」

「いや、そんな風に怒るんだなーって思って」

「意外だった?」


 僕は首を振る。


「なんか、新鮮だなーって」

「ふうん?」


 奈々ちゃんは笑う僕を不思議そうに見る。

 僕も、本当はこんな風に笑えるんだ。

 奈々ちゃんみたいに感情むき出しで怒ることだって、きっとできる。


「……私、思うんだ」


 奈々ちゃんは夜空を見上げて、


「人は選ぶことができるんだーって。過去とか、周りとか、どんな条件があってもね。わたしたちは選ばなかった選択肢を捨てなきゃいけない。自分のために、誰かのために、してはいけないこと、しなきゃだめなこと……」

「……うん」

「だから私は、きみのしてきたことを肯定しないし、否定することだってしない。きみが選んできたことに、とやかく言う気はない。それはきみが背負うべき罪で、きみが選んだ罰なんだからね」


 僕は奈々ちゃんの顔を見つめた。

 なぜだか、ものすごく救われたという思いにとらわれた。


「……でも、私を知らんぷりしたことは、ゆるしてあげる」

「ホントに?」

「うん。……ちょっとだけ、嬉しかったから」


 ぼそっと。

 小声過ぎて、奈々ちゃんがなにを言ったのか、僕には聞こえなかった。


「え? ごめん、聞こえなかった。いまなんて言ったの?」

「う、うるさいっ!」


 なぜだか怒られた。

 理不尽も極まるというものだったが、そんな理不尽も愛おしく感じる。

 大嫌いな理不尽も、奈々ちゃんなら望むところだ。


「なんか今日のきみおかしいよっ! みょーに素直だし、みょーに達観した雰囲気出してるし! そんな風に構えられたら、私だってちょっと困っちゃうよっ!」

「そうかな? そんなつもりないんだけど……でも、だったらそれは奈々ちゃんのおかげかもしれないね」

「む、むうぅぅ……」


 奈々ちゃんが唸った。


「やっぱりなんか生意気だよっ! きみのくせにっ! 控えおろーう!」


 反射的に頭を垂れる僕。


「もっと控えおろーう!」


 ぐぐーっと、さらに頭を垂れる僕。


「そのままでんぐり返しで転がっていっちゃえっ!」


 素直に従う僕を面白がってか、奈々ちゃんがとんでもないことを言い出した。

 ううむ。

 どうやら、調子に乗り易いのは奈々ちゃんも同じらしい。



 思い返してみれば、僕はどこまでも矮小な枠の中で悩んでいた。

 けれど、いまとなっては拒絶していた人間も、嫌悪していたインチキも、すべてがどうでもいいようなことだった気がする。

 愉快に不愉快なだけの妄想と幻想に縛られ続け、どこまでも悲観的で、どこまでも自虐的だった“僕”という『枠』は、飽和して霧散して適当にも有耶無耶になって、空疎な確実さを伴い、新たな『枠』を形作る。

 僕としての。

 あるいは、僕と彼女としての。


 始めに言ったように、これは“僕”の初恋であり、同時に“僕”の失恋の物語だ。


 絶望という絶望を噛みしめ、ただ月を見上げているのには、もう飽きた。

 僕は、自分で創造した“僕”を捨てる。

 そして僕は、“僕”を照らしてくれていた奈々ちゃんに、少しづつでも、近づいていこうと思う。


 おかえり、僕。

 そして、さようなら。


 でんぐり返しをしながら、僕はそんな風に思った。




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