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俺の傷は大したこともなく直ぐに癒えたが、杏子の方はそうもいかない。
始業式までにはなんとか腫れは引いていたが痣や絆創膏が痛々しい。
明科先生にだけは休み中の出来事を伝え、他の先生達には階段から落ちたと説明をした。
生徒達の間にも噂が飛び交っていたようだが、杏子の凛とした様子に直接何か言った者はいなかったようだ。
クラス委員の岡本有希が俺に教えてくれた。
「里中さん、陰口言われてもいつも凛としているから、噂も続かないんだと思います」
岡本と杏子の距離が変わった印象を受けた。
「先生のおかげで、里中さんとは図書館仲間になったんですよ。彼女も本好きなんで」
ああ、そうなんだ。
「そうか、岡本が気に掛けてくれると嬉しいよ」
「友達ですから」
サラリと言う言葉が嬉しい。少しでも心を開ける友達ができるといい。
綺麗な子でも愛想も無く無口で通しているから近寄りがたいのだろう。
岡本も群れて行動するするタイプではないようで、合うところがあるのだろう。
テニス部だった3年生の男子から「里中ってバックにヤバイのが居そう」と聞かされた。
「そんな訳はない。あの怪我は階段から落ちたんだそうだ。根もない噂を立てるな」
と俺は言う。
推薦で大学進学が決まっている生徒に、付き合ったらどうかとからかうと
「綺麗だけど、俺には無理だ」
と答えが返ってきた。
それもそうだ、あの大人びた雰囲気に太刀打ちできそうな男は高校生にはなかなかいないと思う。
センター試験が始まり、3年生の教室は全員がそろうことがますます無くなる。
2月早々に期末試験も終えてしまう。これも形式的なもの。
受験日と重なってしまった生徒は後日、再テストで良いことになっている。
その期末テストが済んで直ぐの金曜日だった。
朝の出欠を取っていると杏子の具合が悪そうに見えた。
教壇から具合を訊ねるが、大丈夫ですと答えられ、俺も無理するなと声をかけただけだった。
金曜日にある日本史は単位認定がギリギリの状態だ。もう1日も休めない。
4時間目が終わり、俺が職員室に戻ると養護の明科先生に呼ばれた。
「里中さん、保健室に来ています」
「やはり具合が悪かったんですね」
「ええ、それが」
明科先生は少し言いよどむ。
「腹痛を訴えてきたんです。生理痛が酷いと。でも様子がおかしくて……」
怪我をしているのかと思ったが、そうではないと言う。
「妊娠しているみたいで、ひょっとしたら流産しかけているのかも」
早口で秘密を告げられる。
俺は何も言えない。ハンマーで殴られたような衝撃だ。
保健室のベットに寝ている杏子は、2月だというのに汗をかいて痛みに耐えている。
大事にならないよう明科先生が知り合いの産婦人科へ連れて行くことになる。
「それが今日に限って、3時から年に一度の校医の先生方との懇談会なんです」
申し訳なさそうに明科先生が言う。そういう会合では養護教諭としては抜けるわけにはいかない。
「私が、5時間目が終わり次第、病院に行きますよ」
だから、そう言っていた。
ちょうど6時間目に授業が無かったのだ。
途中で付き添いを交代することにして、痛みに耐える杏子と明科先生をタクシーに乗せた。
5時限目が終わると、姉が急病で病院に運ばれたと嘘を言い早退をした。
学年主任も副校長も生徒にレッテルを貼って色眼鏡で見るから、内密にしておきたかったのだ。
今更、卒業できなくなったら困る。
結婚が決まって幸せな姉をだしに使うのは気が引けたが、生徒のためだと開き直った。
病院で明科先生と会う。やはり妊娠していて流産しそうだとのこと。
あの男の子どもなのだろう。
可哀想だが仕方がないと思う。
「今、処置室にいますから」
明科先生にそう言われ待合室で待つ事になる。
「懇談会が終わったら、また来ます」
と明科先生は学校へ帰っていった。
産婦人科の待合室は男性にとっては居心地の良い場所ではない。
妊婦さんに囲まれて、じっと耐える。
「里中杏子さんの付き添いの方」
と看護師さんに呼ばれた。
「今、処置が終わりました。やはり流産されました。今日一日入院していただき明日、退院していただきますので」
「里中は?」
「病室に居ます。麻酔が効いて眠っていますよ」
「ありがとうございます」
礼を言い、教えられた病室に向かう。
何と言って声を掛けたものかと気が重くなる。
明科先生が事情を話してくれてあるのか看護師さんたちから関係を訊かれることはなかった。
自分の恋人や妻なら、慰めるだろう。一緒に悲しむ事も出来る。
だけど杏子は生徒だ。
相手も俺ではない。
ましてあの男とは別れたのだ。
産める筈のない命。
望まれていない命。
それが腹立たしかった。
知識が無いわけじゃないだろう。
俺は沈んだ気持ちのまま扉を開けた。
ベットには青白い顔で杏子が寝ている。
一人で悩んでいたんだろうと思うと胸が痛くなった。
教育者だなんて言っても無力だ。
相談にすら乗ってやれなかった。
しばらくして杏子が目を覚ます。
ツゥーと涙を零した。
俺がいるのに気が付いたのだろうか、話し始めた。
「何してるんだろう、私。産めるわけ無いのに、これで良かったのに……」
杏子は静かに泣いている。
わかったような言葉をかけることは出来なかった。
叱る事も慰める事も出来ない俺はただずっと傍にいた。
しばらくして杏子は俺に謝った。
「心配かけて、ごめんなさい」
「気にするな。それより気分はどうだ?」
「先生、何も聞かないんだね」
杏子にそう言われる。
聞いたって仕方が無いだろう。取り戻せる事じゃないのだから。
「自分を大切にしろ。幸せになる努力をするんだ」
ハイと素直に返事をされる。いい子なのだ。
恨み言たくさん言いたいだろうに、私のせいじゃないと喚いたっておかしくない。
それなのに何も言わない。責任は自分にあると思っている。
幸せになって欲しい。
もう直ぐ卒業だ。俺は何もしてやれないけれど、幸せになって欲しいと強く思った。
夕食が配られる頃、明科先生が再びやって来てくれる。
食欲がないと言う杏子にプリンを買って来たからと食べさせた。
「明科先生って、いいお母さんになりそう」
と杏子が言うと、
「嬉しいけれど、相手を探すのが難しいのよ」
と明科先生は笑った。
面会時間の終わりまで一緒に病室で過ごした。
俺は何度か父親に連絡をしたがつながらないから留守電にメッセージを残した。
辛い思いをしている娘を心配してやって欲しいと願った。
病院からの帰り、遅くなっていたので明科先生を食事に誘い家まで送った。
大人しい感じを受けていたが、本当は活発な女性らしい。
テニスもやっていたとわかって話が弾む。
「私はとても恵まれているとつくづく思うわ。両親も居て、希望の仕事にも就くことが出来たんだから」
杏子のことを思っているのだろう。
俺も同じ思いを抱いていた。
杏子のその後の経過は順調で、退院後は欠席することなく登校できた。
明科先生が何度か保健室に呼び出してケアをしてくれていたようだ。
そして卒業式を迎える。
式は粛々と進んでいく。
担任として卒業生一人ひとりの名前を呼ぶ。
それぞれの生徒に思いがある。
三者面談で親と喧嘩をした生徒、いくつも受験に失敗し浪人することになった奴、就職する子、フリーターになると宣言している生徒……名前を呼ぶたびに込み上げるものがある。
そして杏子の名前も呼ぶ。ハイと返事をして立ち上がった姿を俺はしっかり見つめた。
卒業式を終え、最後のホームルームをする。
一人ひとりに握手をして卒業証書を手渡した。
そして、生徒を送り出す。
ガランとした教室にいると、しんみりした気分になる。
校門のあたりはまだ騒がしい。きっと記念写真でも撮りあっているのだろう。
職員室へ戻る途中、校門の横の桜を見る。
桜の下に杏子がいた。
ぼんやり木の上を見上げている。
そしてクルリと回ってペコリとお辞儀をすると校門を出て行った。
3年前と同じだ。
綺麗だった。
俺は何もしてやれなかったと思いながら後姿を見送った。
頑張れ、幸せになれるよう祈ってる。