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翌日、寝不足のまま学校へ行くと明科先生に会う。
「おはようございます」
「何だかお疲れのようですね。大丈夫ですか?」
穏やかな声に癒される。
清楚で優しい感じの明科先生は俺より三歳ほど上の筈だ。男子生徒には絶大な人気がある。
テニス部の男どもも少々の怪我で保健室に行きたがるのだ。
「その後、里中さんの様子はどうですか?」
他の先生には言っていない杏子の事情。一緒に気にしてくれる人がいるのは心強い。
「休まずに登校してますよ。来週、就職試験なんです」
「決まると良いですね」
鼻腔を微かに香りが通り過ぎる。
年齢が多少上でもありかもしれない。
普通に恋愛して普通に……。
違う思いが浮かびそうで、俺は明科先生の笑顔を思い出そうとしていた。
数日後、杏子の就職試験が行われ、家庭の事情も了承の上、採用してくれたのだ。
本人の責任以外の家庭環境などは質問してはいけない建前だが、暗黙の了解が必要となる。
就職内定の報告と共に
「センスが良いと褒められました」
と、杏子がはにかんだ笑顔で話してくれた。
「良かったな。頑張れよ」
ありふれた言葉だが、本当にそう思った。
3月の卒業式が終わったら直ぐにでも勤務して欲しいとのこと。
担任として肩の荷が下りた気がする。
無責任な親への怒りはあるが、高校を卒業して自立していく子どもは大勢いるのだ。
杏子だけが特別ではない。しっかりと生きて行って欲しいと思う。
12月は慌しく過ぎて行き、クリスマスイブは学校でケーキを食べた。
顧問をしているテニス部の女子達が
「先生はきっと一人でイブだと思ったから」
と、ケーキを作ってきてくれたのだ。
部長の高見綾乃から恋人は居ないのかと聞かれた。
「恋人がいたら、お前らからのケーキなんて食べないぞ。お前たちこそ彼氏とデートしないのか?」
と俺が話を振るとキャーキャーと騒ぎ出す。
賑やかだった。女の子だなと思う。
しきりに皆が綾乃に視線を送っているのに気が付いた。
意味深な言葉も投げ交わされるが俺は知らぬフリを決め込んだ。
俺は教師で、綾乃は生徒だ。それだけの関係なのだから。
終業式が終わり、あっという間に冬休みになる。
年末年始の短い休暇は実家で過ごした。
ありふれた正月のはずが、今年は姉の結婚騒ぎで大変だった。
圭介氏がやってきて
「お嬢さんと結婚させてください」
ってセリフを言ったのだ。
30を迎える娘の結婚が決まったのだから親戚縁者が寄って騒いでの大騒動。
目出度い話なのに、俺は疲れて、早々に自宅に戻った。
ポストには年賀状がたくさん来ている。
その中に杏子からの葉書があった。
社会人になって頑張りますと書かれている。
誰もいない自分の部屋で人恋しく思う瞬間がある。
杏子にもあるのだろう。だから暴力を振るわれても一緒にいるのかもしれない。
また暴力を振われていないだろうか?
急に気になった。
怪我をした顔を思い出す。
居ても立っても居られず携帯のメモリーを呼び出して電話をかけた。
「先生」
小さな声で応対され、不安が大きくなる。
「元気か?」
電話の向こうで、かすかに鼻をすする音がした。
「大丈夫です」
と、杏子は言うが、泣いていると俺は感じる。
何かを考えたわけではない。
その瞬間、バイクのキーを握り締めて立ち上がっていた。
真也と言う男のことをもっと聞いておけば良かった。
男の話など聞きたくないって思っちゃ駄目だった。
DVの可能性がある男と一緒にいることを見過ごすことはしてはいけなかったのだ。
引越しの後、一度だけ訪ねたことがある場所へ向かう。
その時、杏子は家具も殆どないガランとした部屋に一人で居た。
「寝に帰るだけだから、これで良いんです」
と微笑んだ顔を思い出す。
「アパート借りるのって大変なんですね。ここは真也の紹介だったから、何とか借りれました」
と杏子は言っていた。
でも、その男の影が見える部屋では無かった。一緒に暮らしているわけではないようだ。
バイクを止めた俺はアパートの階段を駆け上がる。
安っぽい鉄骨階段がカンカンと音をたてた。
ドアの横にあるブザーを鳴らす。
「里中、大丈夫か?」
騒ぎにならないよう気をつけて声を掛けた。俺の声に応える様にドアが開く。
俺は息を呑んだ。
杏子の顔が腫れ上がっている。
前回の比ではない怪我だ。
警察に行こうと説得したが嫌がった。
とにかく病院だけは連れて行かなければと無理やり連れ出し、近くの総合病院へ杏子を連れて行く。
「病院は、行きたくない」
頑なに言い続ける杏子。
「保険証もないんです、私」
泣きそうな声で言う。
「心配するな。先生が立て替えておいてやる。とにかく治療が先だ」
痛みもかなりあるようで、それ以上、病院に行くこと嫌がることはなかった。
病院に向かう途中、父親の携帯へも連絡したが、応答は無かった。
引っ越して以来、話もしていないらしい。
病院に着くと、まだ年末年始の休業中だったが、杏子の姿を見て救急外来で対応してくれることになる。
幸い頭や顔の骨には異常は無かった。視力が少し落ちているようだが回復すると思うと言われる。
自費での治療は思ったより高かったが、そんな事は言ってられない。
証拠として怪我の状態を写真に撮り、診断書も書いてもらった。
――許せない。
どんな理由があっても暴力を振るっては駄目だ。
力ずくではどんな関係も作れない。支配するかされるかの関係になってしまう。
「別れろ」
と杏子に言う。
担任教師にそんなこと言う権利はないかもしれないが、俺は怒りを抑えることが出来なかった。
他にたくさんいい奴がいる。
寂しいからと、少しばかり親切にされたからと言い成りになることはない。
もっと自分を大事にしろ。
これからなのだから。
杏子に届くように言葉を紡ぐ。
家に戻ると俺は杏子に男を呼び出させた。
悪びれもせずやってきた男を俺は殴り飛ばす勢いで怒鳴りつけた。
「何だこのヤロー!!!」
と相手もキレて殴りかかってくる。
バシッと音がして頬に激痛が走った。
「殴ったな。里中の分と合わせて訴えてやる。こっちには診断書も証拠写真もあるんだ」
低い抑えた声で告げると男は捨て台詞を吐いて出て行った。
大きな音がしてドアが閉まる。
杏子は震えて部屋の隅に居たが、俺の唇から血が出ているのに気がついて濡れたタオルで冷やしてくれる。
「ありがとう」
タオルを受け取って礼を言うと、杏子の目から涙がこぼれた。
「先生、ごめんなさい」
と泣きながら言う。
「馬鹿だな」
俺はそう言いながら杏子の頭を撫でた。
「怖かったけど、別れたくなかった……」
と杏子は言う。
「寂しかったから」
と。
俺は何も言えず杏子が泣き止むまで傍に居た。幼い子どもを宥めるように。
それから俺は毎日杏子の家に通った。
あの男からは、その後連絡はないようで少し安心する。
何を話すわけでもなく、顔を見て食料の差し入れをして帰るだけだった。
何度か杏子の部屋を訪ねて気が付いた。殺風景な部屋の中にいるから余計に寂しく感じるのではないかと。
だから俺は観葉植物を持って行った。
「モーツアルトを聴かせて、葉っぱを一枚ずつ拭いてやるといいらしい。枯らすなよ」
冗談交じりに杏子に言う。
「枯らしません。ちゃんとお水もあげますから」
クスクスと杏子が笑った。その笑顔を見て少しだけホッとした。