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いつもと変わらぬ朝を迎え、杏子を店に送った。
俺は注意深く杏子を見つめる。
本当に無理してないんだろうか?
いつもの笑顔に見えるけど、今までも感情を押し殺して我慢してきたから心配だった。
事情を知ってる志津子さんには昨日話したことを伝えた。
「私も気を付けているわ」
杏子がバックヤードに行っている間に志津子さんが言ってくれる。
お願いしますと俺は頭を下げた。
午後からは部活の指導のため学校に行かなければならない。
夏休み目前で、高校生たちは夏の大会の準備に燃えているのだ。
「先生、暑いっす」
校庭の隅の木陰で休憩中の生徒たちが俺を見つけて無駄な愚痴を叫んでいる。
「しっかり水分補給しろよ」
熱中症が怖いから、生徒たちの様子を注意深く見る。
気温は30度に達しそうだ。
暑い中、練習に付き合って、家に帰るともうぐったりだ。
でも杏子が気になって車を走らせる。
店に着くと閉店準備をしている杏子の姿を見えた。
中年の女性と笑顔で何か話している。
たぶん常連客なんだろう。話しながら杏子を手渡した。
帰って行く客を杏子はお辞儀をして見送った。
こういう所作が本当に綺麗だ。
顔をあげた杏子と目が会う。
「吾朗さん、ちょっと待っててくださいね」
はにかんだ笑顔で言う。
何も心配することは無かったのだろうか?
志津子さんも俺の顔を見て何か言いたそうにしながら、バックヤードに入って行った杏子に視線を向けた。
いつもなら直ぐに支度をしてくるのに、その日は少し時間が掛かった。
「ごめんなさい。お待たせしました」
うん?何か印象が違う。
そうか口紅を塗り直したのか。
俺がそのことに気がついたのがわかったのかニコリと笑って手を繋いでくる。
夏なのに冷たい手。
「店の中、寒かったの?」
「えぅ?そんなことないですよ」
「手、冷たいな」
「冷え症だからかな。冬は辛いんですよ」
知ってるよ、だから俺が温めてやる。なんて気障な事を言えるわけもなく、ただ繋いだ手に力を込める。
杏子もそっと握り返してくれた。
「夕飯、何食べたい?」
そう聞くとちょっと考えて
「あんまりお腹空いていないので、おうどんみたいな物がいいですけど、吾朗さんは?」
「いいよ。駅ビルの中にある讃岐うどんに行くか?あそこなら天ぷらもあるから」
杏子は俺の提案にハイと頷いた。
腰の強いうどんを食べる。
杏子は食欲がないらしく珍しく残した。
「残ったの、俺が食べていいか?」
食べ盛りの子どものように食欲旺盛な俺はペロリと平らげた。
そんな俺を杏子はニコニコ笑って見ている。
俺はその笑顔に安心してしまったのだ。
水曜日に家に来てくれた時も穏やかに過ごした。
夏バテして食欲がないと言っていたのを7月なのにこの暑さでは仕方がないかと思ってしまった。
金曜日に姉から電話がかかってきた。
杏子の様子が気になって店に行ったらしい。
「ねぇ吾朗、ちゃんと避妊してる?」
「えっ?何、聞くんだ」
「だって杏子ちゃん、吐き気があるらしいのよ。食べれない訳ではないみたいだけど……」
吐き気?そんなに具合が悪いのか?
「だから妊娠してるんじゃないかって……」
「してないと思うよ。ちゃんと避妊してるし、今、生理中らしいから」
母親の話題はあれからしていない。
変わらないように見えるけど、何かおかしいのかもしれない。
「明日、様子を見て、おかしければ病院に連れてくから」
俺は姉にそう言うと、そうしてあげてと電話はきれた。
次の日は、夏休み初日の土曜日で、俺は相変わらず部活の指導で学校にいた。
生徒たちと一緒に汗だくになっていた。
夕方、シャワーを浴びて、ようやく一息つく。
杏子のところに行こうと思っていた矢先に携帯がなる。
ディスプレイには志津子さんと表示されている。
嫌な予感がして慌てて通話ボタンを押す。
「吾朗さん、杏子ちゃんが倒れたの。今、救急車が来て、これから東峰医科大学病院に行くことになったの」
俺は頭の中がパニック状態だった。
意識がないと言われたのだ。
とにかく病院に向おう。
落ち着け、落ち着けと呪文のように自分に言い聞かせた。
病院の駐車場に車を止める。すでに診療時間外で夜間受付で杏子のことを尋ねた。
知らされたのは救急救命センターだった。
部屋の前の椅子に志津子さんが座っていた。
「急性胃潰瘍だったんだって」
吐血はし無かったけど、出血が続いていたらしく、生理も重なって重度の貧血を起こしているらしい。
緊急の処置がされているそうだ。
「親御さんに連絡取ろうと思ったんだけど、番号が変わったみたいなのよ」
二人で大きな溜息を吐いた。
父親の携帯番号が変わったことを知っていたのだろうか?
椅子に腰かけて膝に乗せた拳を強く握りしめた。
身体に変調を来すほど辛かったのか?
志津子さんと二人で杏子の治療が終わるのを待つ。
自分の不甲斐なさと、杏子の親への腹立たしさ、口を開けばそんな言葉ばかり出てしまいそうで何も話せなかった。
通常の診療時間は既に過ぎているというのに、待合室は結構な人がいた。
処置室のドアが開く度に顔を向ける。
どれぐらい待ったのだろうか。
ストレッチャーに寝かされて杏子が出てきた。
「今は眠ってます。病室に運びますので。先生から病状について話があります」
看護師さんからそう告げられる。
眠っている杏子は真っ白な顔をしていた。
そっと頬に手を触れる。
自分の手にポタリと水が掛かり、泣いていることに気が付いた。
志津子さんが俺の背中を撫でてくれる。
部屋に案内された俺たちは、病状と今後の治療方針を聞く。
しばらく入院加療が必要らしいが、取り敢えず出血も止まり命の危機はないらしい。
原因もストレスではないかとのこと。
よろしくお願いしますと頭を下げ、俺たちは杏子の病室に向かう。
ベットに横になり点滴をされている姿は痛々しい。
志津子さんはいったん帰って、店を閉め、杏子の入院に必要なものを持ってきてくれることになる。
俺が行きますと言ったのだが、目覚めた時に居てあげてと説得された。
今はその優しさに甘えよう。
看護師さんが来て入院の手続きの書類を渡された。
「お兄さんですか?」
と聞かれる。
「いえ恋人です」
何度、こう答えただろう。
その後、必ずご家族はと聞かれ、事情を説明することになる。
眠り続ける杏子を見つめ俺は決意した。




