20
翌朝、俺は前日に飲みすぎたにも関わらず、スッキリと目覚めた。
ずっとくすぶっていた感情が処理できたからだろうか?朝までグッスリ眠ることができたのだ。
障子を開けると朝靄の中で温泉の湯煙が見えた。
「朝風呂にでも入るかな」
誰も聞いていないのに、つい話してしまう。
一人暮らしになってから癖になっている。
冷たい空気に身を縮めて、慌てて湯に入った。
「いい湯だ」と、また独り言を言う。
のんびり湯に浸かって景色を眺めていると、遊歩道らしきものが見えた。
昨日は気付かなかったが散歩でもしようと部屋を出た。
旅館の玄関から表に出て建物に沿って裏手に回ると、思ったとおり川へ続く道があった。
歩き始めた俺の後ろから声がかかった。
「おはようございます」
振り向くと、昨日、出迎えてくれた女性だった。
「東山さま、ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。女将の紀本笑と申します」
「いや、こちらこそ里中がお世話になってありがとうございます」
「それは先生としてですか?それとも、杏子ちゃんの彼氏として?」
微笑んだままだが、真剣な目で訊かれる。
「まだ彼氏になれたわけではないですが、一人の男として彼女のことを大切に思ってます。でも俺が辛い思いをさせ、半年間、ここでお世話になっていたことに間違いはありませんから」
俺の目をじっと見つめられる。
「……そっか。ちゃんとわかってるのね。半年経っても飛んで来たんだから合格か」
「はい?」
「杏子ちゃんに初めてあった時、すごく暗くて全てを諦めたような顔してて、なんだか放っておけなかったのよね。昔の私に似てたからかもしれないけど。
ちょうど人手を探してたから無理やりここに誘ったの。
引っ越しもさっさと手配して、あっという間に貴方の前から消えさせた。
それで忘れれるものならそれで良いと」
俺は忘れれるはずがなかった。
杏子との思い出がある場所を通るたびに彼女の姿を探してしていたのだ。
「明科先生からあなたの様子を聞いて、杏子ちゃん泣いたのよ」
「えっ?」
「先生にそんな辛い思いさせたくないって。良い子よね」
「ええ、本当に良い子です」
俺のために泣いてくれなくてもいいのに。優柔不断な俺の態度で傷つけたんだから。
「杏子ちゃんの気持ちを受け止める覚悟はあるのね。彼女の親のこと、今までの男のこと、これから何が降りかかってくるかわからないけど、本当に大丈夫?」
そう問われ、俺ははっきりと言い切る。
「大丈夫です」
女将さんは急に泣声になり
「東京で仕事を探してあげてくれる?」
と、言った。
小さな旅館で杏子を急に雇えたのは、産休の人の代用要員だったからだそうだ。
4月になれば保育園に入り復帰してくるとのこと。
余剰人員を抱えれるほど楽な経営ではなく杏子に次の職場を見つけて欲しいとのことだった。
「あなたが来なかったら見合いの話もあったのよ。麓の町の酒屋さん。相手は杏子ちゃんのこと気に入っていてね」
「見合いって、まだ早いです」
「もう二十歳よ。大人よ」
フフッと笑って女将は話を続ける。
「大丈夫よ。杏子ちゃんにもその気は無かったから断ったわ。でも、職場のこと、考えてくれる?彼女の場合、部屋を借りなければいけないし、夏ぐらいまでは私も頑張るけど……。本当に申し訳ないけれど、厳しいのよ」
顔を過る疲労感。景気低迷が続く日本ではどこも厳しいのが実情なのだろう。
良心的と思えるサービスを提供していれば余計に経営も厳しいのだろうか?
とにかくこの先のことを頼まれたのだから何とかしなければと思う。
女将はもう一度頭を下げて建物の方へ向かって行った。
未来のことを考える。
これは決して進路指導ではない。
思案しながら、ゆっくりと朝の散歩を終えて部屋に戻ると朝食の用意が整っていた。
ザ・日本の朝ごはんという感じのメニューだ。
「おはようございます」
タイミング良く、杏子がお櫃を持って現れた。
炊きたてのご飯と暖かなお味噌汁が並ぶとお腹の虫が盛大に鳴り、笑われた。
「昨日のお酒、残ってないみたいで良かった。ゆっくり眠れましたか?」
「よく眠れた。杏子の顔を見られたからかな」
半分冗談で、半分は本気でそう言うと、杏子は真っ赤になっている。
「そんなに照れられると俺まで恥ずかしいじゃないか」
己の動揺を隠すように不機嫌な言い方になってしまう。
「だって先生はそう言うこと言わないタイプかと思ってたんです」
「どんなタイプだよ、俺は?」
俺の問いに再び困った顔をする。
「……肝心なこと口にしないタイプだって女将さんが……」
その通りなんだから仕方がないけど、少しだけ恨めしく思う。
「私は口先の甘い言葉に騙されるタイプだから、先生みたいな人が丁度いいんだと言われて……」
照れてなんていられない。
「甘い言葉は言えないかもしれないけど、俺は本気だよ。本気で迎えに来たんだ」
「迎えに?」
「そう、東京に帰らないか?リハビリ期間は終わったんだろ?」
「女将さんと話したんですか?」
「ああ、宿の状況も教えてくれた。杏子が嫌じゃなければ、俺が就職先を探す。住む場所も探すから、もう一度頼ってくれないか?」
杏子表情が曇る。
「俺は頼まれたから言っているわけじゃない。もう離れているのは嫌なんだ。近くにいて欲しい」
返事はない。
「駄目か?」
俺の問いにゆっくり顔を振る。
「私で良いんですか?」
「お前じゃなきゃダメなんだ」
年上の余裕なんてない。どうしても頷いて欲しい。
「先生、ゆっくり口説くって言ったじゃない」
小さな声で反論される。
「ごめん、でも、頼ってくれるだけでも良いんだ。頼りないけど……」
自分で言いながら情けなくなる。
胸を張って頼ってくれとは言いきれない。
「頼りないなんて言わないで。先生、いつも私のために頑張ってくれた。今回だって明科先生からここの場所を教えられただけなのに来てくれた。だけど、私……自信がない」
そう言って杏子は泣き出した。
俺は彼女の中にある複雑な思いを受け止めよう。
今までの失敗や後悔もこれからの不安も……
「一緒に悩んでやるから、どうしたら良いのか迷ったら、一緒に迷ってやるから。もう一人じゃない」
俺の言葉に頷きながら泣いている。
そっと立って杏子の隣に行き、そっと抱きしめる。
子どものように泣き続ける杏子の温もりを感じて、俺は強くなろうと決意した。




