2
夜になり杏子の自宅に電話をする。
2回ほど呼び出し音がなってから受話器が上がる音がした。
「もしもし、私は豊台高校で杏子さんの担任をしている東山です」
「先生」
電話の向こうから聞こえたのは杏子の声だ。
「ごめんなさい。明日は行けますから」
小さな声で早口に言われた。電話の向こうの誰かを気にしているように思える。
「お父さんがいるなら電話に出てもらいたいのだけど」
「居ません」
「そう、なら仕方がないね。本当に出席日数足りなくなりそうだって、今日、日本史の溝内先生からも言われたよ」
「わかりました」
ますます早口になる口調。
これ以上、電話で話しても逆効果の気がする。
「そうだ、携帯の番号教えてくれるかな?」
「えっ?」
「学校には来ない、家にもいないでは、担任としては心配だよ」
「090-××××-○○○○」
俺は咄嗟にメモする。
「明日は行きます」
番号を告げると杏子は一方的に電話を切った。
俺は通話の切れた携帯を見つめ、大きな溜め息を吐いた。
背後に居たのは誰なのだろうと考えながら、俺は自分の携帯にその番号を登録する。
翌日の授業の準備をし、溜まっている書類作成を終わらせ、学校を出たのは8時を過ぎていた。
要領が悪いのか、仕事量が多いのか、最近は連日これぐらいの時間になっている。
一人で暮らすマンションは学校からバイクで20分ほどの距離だ。
公共交通機関で通うには不便なので、余程のことが無い限りバイクで通っていた。
「俺達はバイク禁止なのに先生は良いってズルクない」
と、生徒から上がり調子で言われることがある。
ほんの何年か前の俺も言っていた気がする。
大人って、教師ってズルイと。
それなのに、いつの間にか大人の仲間に入っている。
そんなことを考えながらバイクをマンションの駐車場に駐めた。
俺の部屋は3階、部屋は真っ暗だ。
一人暮らしなんだから仕方がない。
鍵を開けて家の中に入ると、部屋は雑然としている。
ミニキッチンとバス・トイレのついたワンルーム。
窓からは畑と同じような単身者向けのマンションが見える。
干したままの洗濯物。飲みかけのペットボトル。枯れてしまった観葉植物の鉢。
テーブルの上には書類だの本だのが散乱している。それを脇に除けては食事のスペースを作る。
スペースを作っても乗せる物は買ってきた弁当ぐらいのもの。
本日もいつもと変わらずコンビニの唐揚げ弁当。
栄養が偏るとわかっていても、帰宅が遅くなると自炊する気力は残っていない。
誰かと一緒に食事をすれば少しは違うのだろうが彼女を作る機会は無かった。
大学時代に付き合っていた女とはとうに別れていたし、学校の中には見つからない。
まして生徒は論外だ。
教師の仕事は思っている以上に忙しく、土日だって部活の練習や引率で潰れる事が多い。
これでどうやって彼女を見つけろというのだ!!
いや、別に今はそんなに恋人を欲しいと思っているわけではない。ないが……少し寂しい。
大学時代にテニスの経験があると知られてテニス部の顧問を引き受け、今年の4月からは写真部の顧問が居なくなったから
「若い君に頑張ってもらおうと思う」
と、校長から肩を叩かれて、二つの部活の顧問になった。
もっとも写真部は週に1度集まっているぐらいで特に活発な活動をしているわけではない。
カバンの中からその写真部の部長から預かったものを取り出す。
9月に行われた学校祭の写真だ。
卒業アルバムに使うために借りたのだ。
何枚かの写真を見つめる。
1枚の写真が目に留まる。俺の担任する3年3組の合唱の写真。
楽しそうに歌っている生徒たち。ノリの良い曲で会場を巻き込んで盛り上がっていた。
それなのに写真に写る杏子は、一人冷めた目をしていた。
一番後ろの一番端にポツリと立っている。
クラス委員に杏子を誘うように言ったのだ。クラスメートからの誘いなら学校祭に来るだろうと思ったのだ。
岡本有希が女子のクラス委員で、彼女はしっかり者だから大丈夫だと任せたのだ。
「わかりました。声、かけてみますね。でも、無理に誘ったら気詰まりじゃないかなぁ」
などと心配していた。
「里中さん、目立つの嫌いみたいだから、参加しても一番後ろの私の横に並んでもらいます」
「ありがとう。頼んだよ」
俺は杏子が参加しただけで満足していた。
でも、写真に写る杏子は、まるで間違えた場所にいるよな顔をしている。
俺は切なくなる。他の生徒達の無邪気にはしゃぐ姿とのギャップが辛い。
学校は杏子にとって楽しい場所ではないのだろう。
卒業だけはしたい――その言葉が再び甦る。
その願いを叶えてやる為には何とか学校に来させなければならない。
明日は気合を入れて早起きすると誓ってベットに入った。
次の日の朝、俺は杏子の携帯に電話をかける。
「もしもし?」
怪訝そうな声。誰からの電話かわからないのだろう。
「東山だ」
「あ、先生……おはようございます」
「起きてるか?」
「……はい、大丈夫です」
「遅刻するなよ」
「はい。ちゃんと行きますから」
「待ってるからな」
そう付け加えて俺は通話を終えた。
効果があれば良いのだけれど。
俺は杏子のことを考えながら身支度をして学校へ向かった。
朝のホームルームの時間。
少し緊張して扉を開ける。
教室へ入ると杏子は登校していて、ホッとした。
出席を取る時、目が会い小さく会釈される。
朝、起きれれば学校に来ることが出来る――その時の俺は単純にそう思った。
だから毎朝、電話をかけることにしたのだ。
杏子も遅刻する事もなく学校へ来るようになった。
これで大丈夫だと、単純な俺は思ってしまったのだ。