18
土曜日。
快晴。
俺は明科先生先生に教えられた宿に向かう。
高速道路は土曜日なので多少交通量があるが、そこそこ快適にバイクを入らせる。
俺は不安と期待が交互に訪れるような状態だ。
インターを出ると、のどかな風景が広がっている。
大きな川沿いに広がる盆地のようだ。
教えられた宿はここから少し山の方へ入ったところにある宿だ。
はやる気持ちを抑え、バイクを進ませた。
木々の中を走るのは気持ち良い。
信州の春はまだ先のようだが、十分に癒される。
曲がりくねる道が続き、峠を一つ越えると目指す宿が見えてくる。
古い宿だが、手入れが行き届いているようだ。
駐車場の案内に従いバイクを止める。
深呼吸を一つして俺は綺麗に掃き清められた玄関に向かう。
ガラリと扉が開き、中から着物を着た女性が出てきた。
「いらっしゃいませ。東山様でしょうか」
「ええ、そうです」
「フロントへご案内します」
俺が手にしていたスポーツバックを持ってくれる。
「こちらにお名前、ご住所をお願いします」
記入して渡すとニコリと微笑まれた。
「ありがとうございます。お部屋は離れになります。今、係りの者が案内します」
後ろに人の気配を感じる。
ゆっくりと振り返ると、ずっと会いたかった人が立っていた。
「里中」
杏子は笑顔で俺を見ている。それだけで俺は泣きそうだ。
「お部屋にご案内します」
そう言って俺の荷物を手にとってあるきだす。
着物を着て、髪をスッキリとアップにしている。
背筋を伸ばし歩く姿がとても綺麗だ。
クスリと笑う声がして俺が振り向くと、先ほどの女性がニコニコ笑っている。
杏子もフロントに視線を向けた。
目線交わして微笑む二人。
状況が良く飲み込めないけど、とりあえず俺の来訪を受け入れてくれているのだろう。
廊下の突き当たりを曲がったところで
「先生、段差がありますから気をつけてくださいね」
と、声を掛けられた。
「ああ」
ここに来るまでいろいろ想像して、言葉も探して来たはずなのに俺は何も言えないままだ。
前を歩く杏子の項が綺麗だ。
案内されたのは本館から渡り廊下でつながった離れの部屋。
「こちらです」
扉の向こうには情緒のある部屋で、窓の向こうには緑が広がっている。
「荷物はこちらに置きます」
丁寧にカバンを降ろして杏子が言う。
「ありがとう」
それだけしか言えない。
伝えなければいけない気持ちはあるのに、いざとなると戸惑っている。
自分にきっかけを与えたくて、窓の方に寄った。
眼下には川が流れている。
小さいけれど綺麗な水だ。
今はまだ春浅いからなんだけど、夏ならさぞかし涼しいのだろうと思う。
そんなことを口にしようと振り向くと杏子が座卓の向こうで正座している。
そして、深々と頭を下げた。
「先生。黙っていなくなってごめんなさい。それから、いっぱい心配してくれてありがとうございます」
しっかりした声で言われる。
俺が先に言わなければいけない言葉なのに。
慌てて俺も杏子の前に正座して頭を下げる。
「それは俺が先に言わなければいけない言葉だ。本当にごめん。俺の優柔不断な行動で傷つけた」
謝罪を受け付けてくれないのかと心配になるほどの間が空く。
クスクス笑う声がする。
土下座したまま顔を上げると杏子も同じように顔を上げている。
その笑顔が答えなのか?
「先生、私、半年の間、ここでリハビリしてました。リハビリって言っても一生懸命仕事して、美味しく食事をし、ぐっすり眠るそれだけのことなんですけどね。とっても充実してます。嫌なことも辛いこともあるけど、逃げてばかりでは駄目なんだって思ったんです。
勝手に悲劇のヒロインの気分になって先生から逃げたけど、今日、来てくれたから、もう良いんです
情けない俺は言葉をつなげられない。
「ここの女将さんって、すごくパワフルな人なんですよ。私なんかより大変な思いもしているのに、プラス思考で乗り越えてしまって、とっても尊敬できる人なんです。
その女将さんが、もう会っても良いんじゃないって背中を押してくれたんです」
「女将さんって、さっきの?」
「そうです」
「そうなんだ。岡本からのハガキも明科先生からここに来るように言われたことも……」
ハイと頷く杏子の目から涙がこぼれる。
「里中……」
「ごめなさい、悲しくて泣いたんじゃないから」
周りの多くの優しを感じる。
半年が長いのか短いのかわからないけど、俺にも杏子にも必要な時間だったのだ。
俺は杏子を抱きしめていた。
杏子の手が俺の背中を抱きしめてくれる。
「杏子」
初めて名前を呼ぶ。
「先生」
「もう先生じゃない」
「だって先生は先生なんだもん」
「俺の名前、知ってる?」
「東山吾朗」
「知っててくれたんだ」
「知ってるけど……今、呼ばないと駄目ですか?」
困った顔で言う。
落ち着け、俺。急いだらダメだ。
「そのうちで良いよ」
俺の言葉にホッとした顔をする。ちょっと胸が疼く。
「努力します」
でもそう言ってくれるから、名前を呼んでもらえるよう努力しなくちゃいけない。
項の白さが目に入り、心拍数が一気に上がる。
理性を総動員して俺はそっと杏子を離す。
「ごめん、仕事中だったよな」
杏子も慌てて俺から離れる。
「ごめんなさい。私、お茶も入れてない」
そう言ってお茶を入れてくれる。
俺は丁寧で綺麗な所作に見とれた。
杏子が入れてくれたお茶は美味しかった。
俺がお茶飲むのを見て、杏子は部屋の入口に座る。
「御用がありましたら、お電話にて呼んでください。大浴場を本館にありますが、こちらの離れには露天風呂もついていますのでお楽しみください。お夕食は6時半の予定となっていますがよろしいでしょうか?」
いつものトークなのだろうけど、俺が相手なので恥ずかしそうに言う。
夕食についても好き嫌いなども聞かれ、この旅館のもてなしに感心する。
説明を終えると、杏子はもう一度頭を下げて立ち上がる。
部屋を出て行きながら
「ちゃんと私の仕事ぶりを見て行ってくださいね」
と言う。
「見てるよ」
ちゃんと見てる。
見ているというより目が離せないのが本当のところだ。
部屋の扉が静かに閉まる。
杏子が部屋を去ると、急に不安になる。
これは夢なのではないだろうか?
窓の外の風景を眺め、自分の顔をパンパンと叩いてみた。
痛さを感じ安心する。
ここについてからの事を思い返す。
俺は少なくとも嫌われてはないと思う。
抱きしめた時、確かに俺の背中を抱きしめてくれた。
その温もりを信じる。