16
明科先生は携帯を手に席を立った。
少ししてテーブルに戻ってきた明科先生が
「取り敢えず里中さんは元気でした」
と教えてくれる。
アルコールが入っているせいなのか、涙腺が弛みそうだ。
無事なら良かった。
「仕事も住む場所も決まったから心配しないでってことでしたよ」
そのまま明科先生先生は黙っている。
杏子の泣き顔が浮かび、その後、あの控えめな笑顔を思い出す。
一人で立ち直ろうとしているんだと思うと切なくなる。
自分の気持ちをはっきりさせていたら良かったのだ。
今すぐにでも、謝ってしまいたい。
でも、それは叶わないから俺は自問を続ける。
もう一度、杏子と会うことが出来るのかわからないけど、俺に出来るのはそれだけだ。
テッシュの箱が俺の前に置かれる。
いつの間にか泣いていたようだ。
「ありがとうございます」
涙を拭いて俺は礼を言う。
明科先生は笑っている。
「東山先生、泣き上戸だったんだね。男の人に泣かれたのは初めてよ」
俺だって、姉貴には泣き虫だったとからかわれるが、人前で泣いたのは子どもの時以来だ。
気恥ずかしさが、明るい笑いに救われる。
「お節介ついでに、今週末にでも東山先生に会わせたい人がいるから、時間作ってね」
夏休みの最後の土曜日。
俺は明科先生と再び待ち合わせをした。
今度は中華料理の店。
奥の個室に予約が入っていた。
約束の時間よりだいぶ早くついてしまったので、俺は一人で部屋で待つことになる。
紹介したい人と言うだけで、どんな人なのかもわからない。
少し待つと明科先生と連れの人が現れる。
一緒に部屋に入ってきたのは初老の男性だった。
「待たせちゃった?」
明科先生に聞かれるが
「早く着きすぎたので」
と、答えた。
「良かった。こちらは私の大学の恩師で佐藤先生。で、こっちが、東山先生です」
サラリと紹介され、初対面の挨拶を交わす。
年長者である佐藤先生は穏やかで落ち着いた声をしている。
数年前に退職をして現在は非常勤講師として教えているとのこと。
ビールが運ばれ、明科先生があらかじめ頼んでいたようで料理も出てきた。
しばらく当たり障りのない話で会話が続く。
佐藤先生の教育論はとてもわかりやすく、教えられることばかりで、明科先生が恩師と呼ぶ理由が良くわかった。
でも、それだけではないのだろう。
その理由がわかったのはデザートが運ばれて来てからだ。
「若い先生と話すと、自分も若返れる気がするね。最近の学校はなかなか先生同士の交流がないから、少々寂しい気がするんだ。もっとも年寄の話はまどろっこしくていけないがね」
佐藤先生はデザート一緒に出てきたお茶を一口飲む。
「私にも若い頃があったんだよ。そう、ちょうど君ぐらいの歳だった」
先生が話し出したのは、若かかりし日の先生の恋愛話だった。
その頃、佐藤先生は高校の教師だったそうだ。
そして杏子と同じように複雑な家庭環境の生徒が先生の最初の奥さんになった。
「私は縋り付いてきた彼女の手を離すことができなかった。愛情なのか同情なのか、周りの騒音にかき消されて考えられなかったんだろうね」
「周りの騒音って何だったですか?」
俺の問いに佐藤先生は遠い目をする。
「私たちの関係が皆に知られると、どうするつもりだとか責任を取れだとか、早く別れろとか次々と意見された。そんな外野の声に、俺は彼女を救えるのは自分しかいないと頑なに思い込んだんだ。
でも、それが間違いだったと今なら思う」
俺たちは先生の話しの続きを静かに待つ。
「誰かを救うなんて思い上がりだ。
私の場合はそのことが徐々に二人の関係を歪にしたのだろうね。最後は、もう卒業しますと言われたよ。
そう言われて初めて、 ずっと教師と生徒の関係のままだったと気がついたんだ。
だから離婚をした」
まるで自分と杏子の未来の話をされているようだ。
どうしても気になることを訊く。
「今、その方は?」
「再婚したよ。今は幸せだと言っている」
良かった。一度の間違いが全てではないのだ。
「私も再婚をしたんだ」
そう言う佐藤先生に明科先生が大きく頷いて
「先生の奥様、とっても美人でお料理上手なんですよ」
と教えてくれる。
「もう先生がベタ惚れって感じで」
佐藤先生は照れて頭をかく。
「からかうなよ。でも素敵な人だよ」
俺の方に向き、優しい目をして微笑んだ。
「彼女もね、教え子だったんだ」
「えっ⁉」
また教え子?
「ハハハ、驚くだろう。彼女への恋を自覚した時にはさすがに悩んだよ。
最初の妻との結婚で、私は高校教師を辞め、大学で教えることになってね。離婚した後もそのまま大学で教鞭を取っていた。
40代に入って直ぐの頃、彼女が私のゼミに入ってきた。とっても綺麗でね。声が知的で、彼女と話しているだけで幸せな気分になるんだ。
20近くも年下の女の子に恋するなんて、自分の気持ちを持て余した。
前の失敗もあるからね。
だけど、私が真剣に彼女を想っていることを伝えたんだ。彼女も私を想ってくれているとわかった時は嬉しかった。教え子だなんてことは関係なくなっていた。
今でも彼女は愛しい存在だよ」
愛しい存在、そうハッキリと言う姿に圧倒される。
明科先生が紹介してくれた意味が少しわかる。
俺の思いは同情なのか、義務感なのか?
でも、俺自身は愛しい存在だと思っていたと気がついた。
「君の状況は、少しだけ聞きました。無理に思うことではないんですよ。気がついたら、その想いがあるんです。ゆっくり考えると良いんじゃないかな。時間と距離で変わるものなら、それまでです。本当の思いなら、今は痛みを抱えて頑張れば道は開けますよ」
佐藤先生の言葉が体にゆっくりと入ってくる。
明科先生が杏子の現状は心配することはないと言ってくれた。
ちゃんと話して、そう判断してくれたのだ。
今はそれを信じる。
俺の後悔のために、今、無理に杏子に会うべきではないのだと納得した。
俺たちに縁があれば再び道は交わるはずだ。
そう信じよう。