14
研修の後は普段違う学校に勤めている仲間達と飲むことが多い。
今日も飲み会の誘いがあったが断った。
「彼女でも出来たか?」
と、特に仲の良い吉澤が声を掛けてくる。
「彼女だったら良いんだけどな」
「何だ、仕事か?」
俺の言葉を誤解して吉澤は言う。
「まあな」
と答えて俺は早々に会場を抜け出した。
帰り道、空の様子がおかしいと思っていたら案の定、土砂降りの雨に。
杏子の家の近くまで来てしまっていたので、躊躇ったが訪ねてしまった。
「先生、びしょ濡れじゃないですか?」
扉を開けてくれた杏子が驚いている。
「ごめん、ここが一番近かったんだ」
待っててと杏子はタオルを持ってきてくれた。
「着替えたほうが……」
そう言いかけて杏子は口篭る。
ここには俺の着替えなどないだろう。
安物のスーツはたっぷりと水を含んで肌に絡みつき気持ちが悪い。
「これで良ければ着替えてください」
押入れの中から杏子は一組の衣類を出してくれた。
誰のだと聞く前に前の彼氏のものだと教えられる。
「捨てそびれていたので」
言い訳のように杏子が呟く。
「ありがとう、借りるよ」
俺は躊躇いの無い声でそう言った――杏子の過去は気にしていないという思いを込めて。
杏子はホッとしたように笑顔を見せてくれた。
洗面所もないような小さなアパートだから、俺は浴室を借りて着替えをした。
箱のような狭い浴槽とひびが入ったタイルが目に付く。
高校を出たばかりの女の子が一人で暮らすには寂しいように感じる。
俺はそんな感傷を振り払い、貸してもらったTシャツとジャージを着た。
サイズが丁度なのがシャクに触る。
浴室から出ると、杏子が俺のスーツを持ってくれる。
「クリーニングに出すから良いよ」
と声を掛けたが、
「皺になるから」
とスーツを干してくれる。
「悪いな」
俺の言葉に杏子はクスリと笑う。
そして、目が合った。
その瞬間、時間が止まったように動けなくなる。
手を伸ばせば触れる事ができるわずかな距離。
俺はどうしていいのかわからない。
杏子は何を思っているのだろう――瞳に映る俺は男なのか教師なのか。
気まずい雰囲気を吹き飛ばすようなクシャミがでる。
「先生、大丈夫?」
「ああ大丈夫だ。世話かけたな」
小さく首を振って杏子は流し台の前に行ってしまった。
「先生、お腹空いていませんか?」
そう言われると、グゥとお腹が主張する。
「空いてる」
鍋の蓋を取ったのかいい匂いがしてくる。
「カレーか?」
「はい、あんまり料理得意じゃないから……」
「いい匂いだ。カレーは3食続けて食べても良いほど好きなんだ」
「良かった」
杏子は明るい声でいいながらカレーを用意してくれた。
共働き家庭で育った俺にとってレトルトではないカレーはご馳走だった。
母親が休みの日に作ってくれるカレーは何杯でも食べられる気がしたものだ。
カレーを食べながらそんな話をした。
そのことで杏子も思い出が蘇る。
「ママがカレーを作ってくれた日を覚えているんですよ。8歳の誕生日。あの日、熱を出して外出できなかった私にママが聞いてくれたんです――何が食べたいって。私、カレーが食べたいって答えたんです。美味しかった。子供用の甘口カレーでした。人参が星型に切ってあって、本当に嬉しかった」
母親との思い出を話す杏子に俺は胸を締め付けられる思いがする。
どんな返答をすれば良いのだろ。何を言っても的外れな気がして俺は押し黙る。
「やだなぁ先生。そんなに暗い顔しないでください。私、大丈夫だから」
「暗い顔なんかしてないぞ」
杏子の指摘に慌てて頬を引き攣らせて笑ってみせる。
「早く食べてくださいね。先生にたくさん食べてもらおうと張り切ったんだから」
「そうか、それは光栄だ。美味しいよ」
あっという間に皿を空にしてお替りをもらう。
長い髪を一つに束ねてエプロンをしている姿が似合うと思った。
女は家庭を守っているのが一番だ――などと時代錯誤のことは信じていない。
個性を大切にしろ、自分を大切にしろと育ってきた俺だが、家族の繋がりや暖かさは気持ちの奥底にある。
杏子の拠り所はどこなのか――そんな事を思いながら、ぼんやりと彼女の後姿を見つめていた。
「先生」
呼ばれて驚く。
「疲れているんじゃないですか?」
「いや大丈夫だ」
「それなら良いけれど」
俺の様子を伺うように見てくる。
そして、
「手の掛かる生徒でゴメンなさい」
と謝ってくる。
「ばーか。そんな事、気にしてたのか?」
「だって」
「だってじゃないよ。おまえの進路相談を受けていたのは俺だ。俺こそとんでもない会社を勧めてしまったと反省しているんだ」
俺がわざと大げさに言うと杏子の顔に少しだけ笑みが浮かんだ。
「手の掛かる生徒ほど可愛いっていうだろ」
俺の前にカレーを持って来た杏子のおでこに軽くデコピンをする。
その後は二人で笑って終わりのはずだった。
でも距離が近すぎて、視線を絡ませたまま動けない。
コトンと皿がテーブルの上に乗る音がして、杏子がゆっくり目を閉じた。
陶器のように肌理の細かい頬に手をあて、俺はそっと唇を寄せる。
やわらかな感触に理性が弾けそうだった。
「先生、いいよ」
耳に届く言葉。
その瞬間、俺はギュッと杏子を抱きしめた。
俺は杏子のことを愛おしいと思っている。
抱きたいと思うほど好きだ。
全てを忘れて自分のものにしたい、苦しいほどそう思う。
彼女の頬にもう一度手を寄せて顔を覗きこむ。杏子は微かに肯いて目を閉じた。
その瞬間、テーブルの上に置いた携帯がブルブルと振動音を立てた。
そのまま無視しようと思ったが、杏子の視線が携帯に向く。
二人を覆っていた空気がすうっと醒めた気がした。
画面には姉貴の文字。
「何だよ」
俺はかなり不機嫌な声を出した。
『ごめん、デートだった?』
「そんなんじゃないけど、何?」
『来月、圭介が生け花の個展を開く事になったのよ』
「へースゴイじゃん」
『まあね。案内送るから、時間があったら来てね』
「ああ、なるべく行くよ」
『ところで、今日のデートの相手はこの間言っていた同僚のセンセ?それともあのショップにいる元生徒?』
鋭い姉は俺の狼狽ぶりから察しているようだ。
「何、言ってるんだよ。用事がそれだけなら切るよ」
俺は慌てて通話を終える。
元生徒――その言葉が重い。
杏子は俺をどう思っているのだろう?一人の男として見てくれているとは思えない。
俺にはそう思えた。
「里中、自分を大切にしろ。流されちゃ駄目だ」
振り絞るようにそう言った。欲したのは俺なのに、我ながら卑怯な言葉だと思う。
気まずい空気に包まれるが、それを流すように台所から水音が盛大に聞こえてきた。
先生の馬鹿――水音に交じってそう聞こえた気がする。
俺はカレーを食べる。飢えた気持ちを宥めるように、杏子への思いを胸の奥に押し込むように。
それが彼女のためだと何度も自分に言い聞かせた。
そして何事も無かったような空々しい会話を交わし、俺は杏子の部屋を後にしたのだ。
濡れたバイクを拭く事もせず跨って俺はエンジンを掛ける。
俺は馬鹿だ。
本当に馬鹿だ。
何も判っていなかったのだ。