11
夏休みに入り、学校の中は静かになる。グランドから響く運動部の声だけが蝉の鳴き声と共に暑さを運んでくる。
「センセー、職員室だけクーラーってズルイよ」
部誌を届けに来た綾乃が怒っている。
「大きな声では言えないけれど、年寄りの先生が多いだろ?命に関わるんだ」
俺の言葉にケラケラと笑っている綾乃が思い出したように言う。
「先生、卒業生の里中さんの担任だったんでしょう?」
「そうだよ。里中と知り合いか?」
「知り合いって言うのかな。うちのお姉ちゃんと同じ会社で働いているんです。勤めている店は違うんですけどね」
「へー知らなかったよ」
それは初耳だ。
「でね……」
急に綾乃は黙り込んだ。
「何か問題でもあるのか?」
「里中さんが何かって事じゃないんですよ。オーナーの息子がいるんですけど……」
好青年に見えた男を思い出した。
「いろいろ悪い噂があるみたいで、里中さんのことを心配してました」
胸が締め付けられる。
「どんな噂だ?」
「詳しい事は聞いてませんけど……。良くない仲間がいるみたいで、最近、里中さんが親しくしてるから」
杏子は気が付いているのだろうか?幸せそうな笑顔の裏で心配事を抱えているのではないかと心配になった。
「それに里中さんって美人でしょ。その店の店長がやたらと厳しいみたいで、その事もかわいそうだって」
綾乃が教えてくれた話は、とても気になった。
携帯を取り出し連絡しようかどうしようか散々迷い、結局、様子を見に行こうと決めた。
幸い、明日は土曜日で休みだ。
あの店に男一人で行くのは気が引けたが、誰かを誘うのも嫌だった。
「先生、どうしよう」
目の前の杏子が泣き出した。どうしたと声を掛けるものの返答はない。
ただすすり泣く声だけが頭の中に響いていた。
「里中!」
大声で叫んで俺は目が覚めた。
昨日の話が気になって夢を見たのだ。
時計を見ると朝の6時。夏休み中の俺にとっては早起きだ。
俺は寝汗でグッショリと湿ったシャツを脱ぎ、洗濯機に放り込む。
まだ起き出すのは早い気がしてベットに横になるが、枕元の時計の音だけが大きく聞こえ煩くて眠れない。
そのままでいると悪いほうへ想像が広がっていく。
俺はバイクのキーを手に外に出る。
既に気温は上昇を始めているようだが構わなかった。
風を感じて走りたかった。
頭が真っ白になるまで愛車を走らせる。
幸せになって欲しいのだ。
それだけが願いなのだから。笑顔を失わせたくない……。
どこをどう走ったのか、俺はいつの間にか杏子のアパートに来ていた。
「俺は何しているんだ」
アパートの部屋を見上げながら自問する。
時間は朝の8時。杏子はもう起きているだろうか?
「先生」
不意に後から声が掛けられた。俺は飛び上がるほど驚き振り向くと杏子が立っていた。
「やっぱり先生だ。何しているんですか」
「里中、どうした?」
「朝ごはんを買いに行ってたんです。夜遊びして朝帰りじゃないですよ。それより先生はどうしたんですか?」
夢を見たから心配で……とは口に出来なかった。
「寝苦しくて目が覚めたからバイクで走ってきたんだ」
どうしてここにいるのかという問いの答えにはなってないのは分かっていたが、杏子は何も言わずに微笑んでいる。
「先生、朝ごはん一緒に食べませんか?近くのパン屋さんで焼きたてパンたくさん買ってきたんです。美味しいですよ」
気になっていることも尋ねれるし、お腹の虫も騒ぎ出したので一石二鳥だと誘いに乗る。
「ご馳走になるかな」
久しぶりに訪れた杏子の部屋は綺麗に片付き、以前は殺風景に感じていたがいくつか観葉植物や花があり女の子の部屋らしくなっていた。
「先生、コーヒーで良いですか?」
「ああ悪いな」
小さなテーブルに焼きたてのパンと良い香りのコーヒーが置かれる。
「いい匂いだ。急に腹が減ってきた」
「たくさん買って来たから、先生いっぱい食べてね。ここのパン屋さん、土曜日の朝に特売してくれるの」
時々、早起きできると買いに行くらしい。楽しそうに話す姿が嬉しい。
「遠慮なくいただくよ」
口にしたパンは本当に美味しくて、一つが二つになり三つ目に手が伸びそうになり、慌てて引っ込める。
「先生、私の分はココにありますから食べてください」
ニコリと笑って杏子が言ってくれる。
「ありがとな」
俺は礼を言って手を伸ばす。
「先生、私、モデルをやるかもしれない」
唐突に話が変わる。俺は杏子の様子を伺う。
「そりゃスゴイな」
「カメラマンの人に誘われて……」
杏子はあまり乗り気ではない顔をしている。
「何だ、やりたくないのか?」
「本当を言うとあまり……。でも秀司さんのお友だちの人なので」
『嫌だ』と顔に書いてあると思った。
綾乃から聞いた話の影響もあるのだろうが、杏子の直感が正しいという気がしていた。
「嫌なら止めた方が良い。彼氏の頼みでも断れ。お前の事を大事にしてくれる男なら気持ちを汲んでくれるさ」
「そうですね」
杏子は目を伏せたまま肯いた。
『悪い仲間』というフレーズが頭の中を駆け巡る。
「もしモデルの撮影をする時は呼んでくれ。一度でいいから撮影現場ってものを見てみたいんだ。これでも写真部顧問だからな」
そんな理由有りかと思いながら心配の方が大きくなっている。
杏子は気がついていないようだ。
「写真部の顧問だったんですか?」
「卒業アルバムにも写真部の連中と一緒に映っていただろう。気付かなかったのか?」
「そう言えばテニス部と両方に写っていましたね。先生、テニス部のイメージが強かったから。忘れてて、ごめんなさい」
律儀に謝ってくれる。テニス部の顧問だと覚えていてくれただけでも嬉しく思っている。
「おっと、こんな時間だ。里中、出勤時間じゃないのか?」
「あ、はい。もう少ししたら出掛けます」
「じゃあ俺は帰るから。パン、ご馳走さん。美味しかったよ」
俺はそう言って杏子のアパートを後にした。
その後もモデルの話は本当に危ない話なのではないかと心配で仕方が無い。
夢見の悪さといい杏子のことが気になって仕方が無かった。