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春休み明けに学校で会った明科先生に杏子の様子を話した。
「元気そうで良かった」
と喜んでくれる。
学校の中で杏子のことを心配していた数少ない先生だ。
「そのお店に、私も一度、行って見たいな」
と言われ、軽い気持ちで一緒に行きましょうと誘った。
誘ったものの新学期早々は忙しく、5月の終わりになってようやく時間が取れた。
駅前で待ち合わせをして店を訪ねる。
杏子は明科先生まで来てくれるとは思わなかったと喜んだ。
前回来た時より少し化粧が濃くなった気がしたが、お客さんとの会話も商品の扱い方も格段と上手になっているように思う。
商品の対象が10代後半から20代を狙っているらしく明科先生も杏子の案内でアレコレ見ている。
気に入ったスカートがあった様で試着室へと入っていった。
待っている間に
「先生、明科先生って美人だから頑張って」
と杏子がいたずらっ子のような目をして言う。
その言葉に俺は驚いた。そんなつもりは無かったのだ。
誤解を与えているのかもしれない。杏子にも明科先生にも。
それにしても杏子の笑顔は、在校していた時には見せなかったものだ。
「ったく、大人をからかうな」
俺は動揺を隠して言う。
「先生、映画でも見に行ったらどうですか?」
試着を終えて、精算する明科先生に杏子が言う。
「いいわね。観たかった映画があるの。東山先生、時間があれば一緒に行きましょう」
照れる様子もなく明科先生は普段と同じ口調で言う。俺が自意識過剰なだけなのか?
その時、杏子の声が急に変わる。
「秀司さん」
振り向くと店の入口に若い男が立っている。大学生だろうか?
「もう直ぐ休憩時間だと思って」
「あと30分後なんです。チーフが帰ってきてからなの」
「いつもの店で待ってるよ」
爽やかな笑顔を残して男は立ち去った。杏子の笑顔は先程よりもっと輝いている。
恋している顔だと思った。
明科先生も同様に感じたようだ。以前の男と違い、感じのいい青年に見えた。
「仕事も合っている様ですし、素敵な彼も出来たみたいですね」
その言葉に俺も肯く。あんな笑顔を見せるのだと嬉しくなる。
幸せなのだ、きっと。
その日、俺は明科先生と映画を見て食事をして帰った。
選んだ映画は意外にもアクション物で、会話も弾み楽しかった。
いつかと同じように自宅まで送ると
「楽しかったです。また誘ってくださいね」
と微笑まれた。
それも悪くないと俺も思う。
明科先生とはその後も何度か食事をした。
おしゃれな店に行った。お酒も飲んだ。
でも、それだけだった。
期待されている気がするが、その先に進む気になれなかったのだ。
そんなある日、部誌を取りに来た綾乃に訊かれた。
「先生、明科先生とデートしているって本当?」
珍しく真剣な顔だ。
「食事は何度かしたよ。それがどうした?何か噂になっているのか?」
「別に噂になんかなってないよ」
彼女が俺に恋心を抱いている事は知っているから慎重に言葉を選ぶ。
「お前達が悪巧みしないように先生同士、情報交換しているんだぞ」
「えー私たち悪巧みなんてしていません」
綾乃は膨れっ面をする。
「もう鈍感なんだから」
何が鈍感だとは聞かない。綾乃も俺の意図に気が付かないフリをする。
「そこが良いんだから仕方がないか」
「何が仕方がないだ。早く部活に行け、部長が遅刻してどうする」
「は~い」
まだ面白くない顔をしながら綾乃は出て行った。
噂になり始めたら傷つけてしまいそうだった。
そう冷静に思う自分は明科先生に恋していないのだろう。
俺の思いを察するように明科先生が
「今度からは他の先生も誘いましょうね」
と言う。
「そうですね」
と返答するが、明科先生は寂しそうな表情を浮かべて離れていった。
また当分、コンビニ弁当の日々になりそうだった。
季節の移り変わりは速い。
あっと言う間に夏が訪れる。
1年生も学校に溶け込んで賑やかな声が響く。
テニス部の新人戦や地区大会が続き休みも満足に取れない状態で杏子とはしばらく連絡をしていなかった。
そんな時、試合を引率した帰りに偶然駅で会った。
「先生、試合だったの?」
乗り換えの電車を待つホームで声をかけられる。
「久しぶりだな。元気だったか?」
「元気です。先生、今日は珍しく電車なんですね」
「現地集合だったからな」
「先生のジャージ姿久しぶり。お店に来てくれる時はいつもおしゃれしていたんだもの」
「そうか?」
大人っぽくなったと思う。もともと大人びた雰囲気があったが変わるものだ。
「彼氏と上手くやっているか?」
余計な事と思いつつ訊ねた。
答えの替わりに笑顔が返ってくる。
「大学生か?」
「ええ、オーナーの息子さんなんです。K大の経営学部の3年生」
「見初められたか」
と古びた言葉を口にする。
「えっ?」
「ははは何でもない。里中が幸せな顔をしていると俺も嬉しいよ」
俺の言葉に杏子は再び笑顔を見せる。
「時間があるなら夕食を奢ってやるよ」
と杏子の最寄駅で下車した。
駅前にある小さな洋食屋。
メニューも懐かしい感じがする。
杏子が選んだのはオムライス。
「遠慮するなよ。ハンバーグ定食やステーキセットだっていいぞ」
俺の言葉に杏子はクスクス笑う。
「好きなんです。オムライス」
「安上がりな奴だな」
「先生のお財布軽くなったら大変でしょう」
と、また笑う。そして
「先生、今度は私が奢りますね」
なんて生意気なことを言う。
両親に捨てられるように一人になった杏子。
悪い男に引っかかり辛い思いもした。
体も心も傷ついていたのに、頑張っている。
何も言わない強さに俺は尊敬すらしていた。
「ばーか、100年早いよ」
「それじゃあ一生、奢れないじゃないですか」
それでいいんだと俺は笑った。
笑っていろ、たくさん笑えと願う。
杏子はオムライスを美味しそうに食べた。
まだ明るいからと杏子とは駅で別れた。
「ちゃんと食事しろよ」
と、言うと
「先生こそコンビニ弁当ばかりじゃダメですよ」
と、返された。
「明科先生にヨロシク伝えてくださいね」
手を振りながら杏子が明科先生の名前を出す。
「ああ分かった」
と、俺は言うしかない。
ノースリーブのワンピースから伸びた手を大きく振って杏子は帰って行く。
そして俺は再び電車に乗って自分のマンションへ帰る。
誰も居ない雑然とした空間へ。
杏子と別れるとジメジメした暑さが増したように思えた。
見送った後姿が何度も脳裏を過ぎる――ガンバレよと俺は心の中で呟いた。
良かった良かったと手放しで喜んでいる俺の隣に寂しい思いを持つ俺がいた。
胸の内に燻るものが何なのかはっきりさせるのは怖かった。