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第8話:一の章「失踪、鍵、お兄ちゃん」



 翌朝一ノ瀬が出勤すると、治安警備局本部は妙にざわついていた。太田局長だけでなく、腰の重い中年局員連中もなんだかばたばたしている。一ノ瀬はいつも以上に苛ついた様子の局長に声をかける。

「おはようございます。何かあったんですか?」

「あぁ、一ノ瀬さんおはよう。一ノ瀬さんは佐伯くんから何か聞いてない?」

「え? 何をですか?」

「これだよ」

 局長が目の前にかざしたものに、一ノ瀬は目を見張る。

 その白い封筒の表には、佐伯の丁寧な字で『辞表』と書かれていた。

「え?」

「朝来たら、これが僕のデスクの上に置いてあったんだよ。そんな前触れ何にもなかったのに。佐伯くんに電話しても、解約しちゃったみたいで連絡も取れないんだよ。君たち昨日遅くまで一緒にいたんじゃないの? 一ノ瀬さんなら何か聞いてるでしょ、仲良いみたいだし」

「いや……」

 一ノ瀬は軽くこめかみを押さえる。

 一体何が起きているのか、何を聞かれているのか、さっぱり理解できない。局長がさらりと言った軽い嫌味も、意味を結ばずにするりと頭をすり抜けていく。

「……昨日は私、午後十時すぎにここを出ました。あの、例の知里ちゃんの件でいろいろ調べ物をしていて。佐伯はゆうべ当直だったので、私が出た後は一人でここに残っていたと思います。皆さんが帰られた夕方から私がここを出るまで佐伯と一緒でしたが、特にそのことについては何も言ってませんでしたし、普段と変わった様子もなかったと思います」

 一ノ瀬は昨晩の佐伯の様子を思い出す。取り立てておかしな様子はなかったはずだ。突然髪を触られたぐらいで。それがいつもと違う点と言えばそうだが、わざわざ報告するような内容でもない。そもそもあれに特別な意味があったのかどうかすら、一ノ瀬自身にもわからないのだ。

 ひとつ違和感があるとすれば――あの直後に「もう帰れ」と言われたことだろうか。あの時一ノ瀬はひどく拍子抜けして、ほんの一瞬でも何かを期待した自分を恥じたのだが、あの一連の言動そのものがこのことを暗示していたとでも言うのだろうか。

「あの、その辞表には何て書いてあるんですか?」

「いやもう、ごくごくありきたりな『一身上の都合で退職させていただきます』みたいな内容だよ。どんな都合なんだか、詳しく聞きたいところだけどね。佐伯くんの担当の仕事もたっぷりあるのに、それ全部放っていなくなられちゃこっちも困るよ。最近の若者はほんと何考えてんだか」

「そうですか……」

 一ノ瀬は視線を落とす。しかしすぐに顔を上げる。

「……そう言えば、知里ちゃんは?」

 太田局長は眉根を寄せながら、顎で応接室の方を示す。

「いるよ。あの子のことも放って、出ていったんだよあいつは」


 一ノ瀬は応接室の扉を軽くノックし、数秒待ってからドアノブを捻る。部屋の中に入ると、知里が昨日と同じ白いワンピース姿でソファに腰掛けている。

「おはよ、知里ちゃん」

「……おはようございます」

 努めて冷静な声で一ノ瀬があいさつすると、知里が透き通った、しかし抑揚のない声で返事をする。彼女の表情はどこかぼんやりとしている。慣れない場所、しかもソファでは充分な睡眠も取れなかっただろう。

「ごめんね、こんなところに寝かせちゃって。とは言っても、仮眠室のベッドよりはこっちのソファの方がまだましなんだ。でも今後はもう少し考えた方がいいよね」

 知里はしばらく一ノ瀬の顔を見つめた後、無表情のまま視線を戻す。一ノ瀬は少し躊躇った後、知里の正面のソファに腰を下ろす。

「ねぇ知里ちゃん、変なこと訊いていいかな。ゆうべ、佐伯がいつ出ていったかわかる? 佐伯ってほら、昨日私と一緒にいた背の高い人――ほんとは一晩中ここにいるはずだったのに、いつの間にかいなくなってて」

 一ノ瀬の問いかけに知里は一瞬顔を上げるが、すぐにまた俯き、首を小さく横に振る。

「そっか、そうだよね。ごめんね、訳のわからないこと訊いて。あぁ知里ちゃんそう言えば、朝ごはんもまだなんじゃない? ごめんね、すぐ買ってくるから」

 ソファから立ち上がり、一ノ瀬は応接室を出る。そして後ろ手に扉を閉め、静かに溜め息をつく。



 一ノ瀬はひどく動揺していた。

 確かに、佐伯とはただの同僚であって、恋人でも何でもない。彼がどこへ行こうが何をしようが、一ノ瀬には口を出す権利などない。

 しかしこの三年間仕事上でも彼とペアを組んで行動することも多かったし、仕事以外の時間もそれなりに仲良くやっていたと思う。

 ひどくショックだった。一言くらい相談してくれても良かったじゃない。それとも、仲良くやっていたと思っていたのは自分だけだったのだろうか。

 そう考えると、哀しいような腹立たしいような複雑な想いがみぞおちの辺りからふつふつと湧いてくるのだった。


 旧庁舎のすぐ隣にあるコンビニエンスストアで知里の朝食を選びながら、一ノ瀬は佐伯に電話を掛けてみる。

『お客様のお掛けになった番号は、現在使われておりま――』

 案の定無機質なアナウンスが流れる。聞き終わらないうちに、すぐさま通話終了ボタンを押す。冗談じゃない、つい昨日はその番号からの呼び出しで起こされたのよ。心の中でそう反論してみる。

 本部に戻ると、同僚の一人が佐伯のデスクを探っていた。引き出しという引き出しが開けられていたが、その全てがもぬけの空だ。

 どうやら佐伯はゆうべのうちに私物を全て回収してから出ていったらしい。そうまでして唐突に、しかも痕跡を残さないように彼が消えなければならない理由は、一ノ瀬には全く見当もつかない。彼は一ノ瀬にいつもの笑みだけを残してすっかり姿を消してしまったのだ、まるでチェシャ猫のように。



 再び応接室を訪れると、相変わらず知里が同じ格好で座っていた。

「ごめんね、遅くなって。サンドイッチとかウーロン茶とか適当なもので悪いけど、食べて」

 一ノ瀬は知里の目の前にコンビニの袋を置く。なんだかさっきから知里に対して謝ってばかりだ。

 彼女はテーブルに置かれた袋をじっと見つめ、そして少しだけ一ノ瀬の顔を見る。袋に手を伸ばそうとする気配はない。

 この子をどうしたものかと、一ノ瀬は気づかれないようにほんの小さく溜め息をつく。そして彼女の白い顔やワンピースを見るともなしに見て、ふとあることに気づく。

 ――鍵がない。

 昨日は確かに知里の胸元にかかっていた鍵が、なくなっているのだ。

「ねぇ知里ちゃん、鍵はどうしたの?」

 その声に、知里は弾かれたように顔を上げる。そして大きな瞳で一ノ瀬をじっと見つめ、薄く唇を開き、しかしまたすぐ閉じる。

「失くしたの?」

 知里は今度は視線を落として唇をきゅっと噛み、両腕で自分自身を抱きしめるようなポーズをして、首を横に振る。

 失くしたのではない。捨てたという訳でもなさそうだ。となると例えば、誰かが持ち去った――とか。

 一ノ瀬は思いついたその可能性を、口にしてみる。

「……佐伯ね?」

 知里の動きが止まる。

 そこで一ノ瀬は確信した。佐伯は知里の鍵を持ち出し、姿を消したのだ。

 でも、何のために?

「ねぇ知里ちゃん、教えて。昨日、佐伯とどんな話をしたの?」

 知里が再び顔を上げる。その瞳には、初めて感情らしい感情が浮かんでいる。縋るような、揺らぐような感情が。

「……助けて」

「え?」

「――お兄ちゃんを、助けて」

 知里の唇が震える言葉をつむぐ。一ノ瀬はその言葉の意味を飲み込むのに一瞬を要し、どうにか切り返す。

「……お兄ちゃんって、知里ちゃん、お兄ちゃんがいるの?」

 知里は頷く。その瞳からはみるみるうちに透明な涙が溢れ、白い頬を伝っていく。最初の雫が彼女の白いスカートに落ち、ごく淡いしみを作る。その奇跡のように美しい光景に、一ノ瀬は思わず息を飲む。

「お兄ちゃんを、助けて。お願い……」

 知里が消え入りそうな声で呟き、ぎゅっと目を瞑る。長いまつ毛の先からいくつもの雫がこぼれ落ち、スカートの上に次々としみを作っていく。

 一ノ瀬は知里の隣に腰を下ろし、その艶やかな髪を撫でる。

 知里の兄のことと佐伯の失踪に関係があるのかはわからない。ただ、目の前で泣くこの少女を手助けする――それだけは紛れもなく一ノ瀬の仕事だ。

「わかった。私が知里ちゃんのお兄ちゃんを助ける。だから、事情を話してくれる?」

 知里は涙でたっぷりと濡れた瞳で一ノ瀬を見上げると、こっくりと頷いた。



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