第6話:一の章「十三歳、同僚の男、家族」
「『ホウジョウサイ』――」
一ノ瀬は自分のデスクの回転椅子に身を預け、背筋を伸ばしながら天井を仰ぎ、呟く。
やはり漢字をあてるとしたら『豊穣祭』だろうか。だとしたら、知里が言ったそれはどういう意味だったのだろうか。あの直前、一ノ瀬は彼女に「山の中で何をしていたのか」と問いかけた。よもや、それに対する返答なのだろうか。
その答えを探すかのように天井の継ぎ目を目でなぞっていると、突然視界を影のようなものが覆う。
佐伯だった。
「何してんだ、一ノ瀬」
佐伯は逆さまに一ノ瀬を覗き込みながら、呆れた表情で言う。
時刻は午後十時。第三十八自治区治安警備局本部には、既に一ノ瀬と佐伯の二人しかいない。知里は応接室のソファで眠っている。
「ねぇ佐伯、『ホウジョウサイ』って何?」
逆さまの佐伯が一瞬動きを止め、ぱちぱちと瞬きをする。
「あの子がそう言った?」
「そう」
言いながら一ノ瀬は身を起こし、今度は両腕の関節を前に伸ばす。佐伯は顎に手をあて、考える仕草をする。
「作物の実りや子孫の繁栄を祈って行う祭り――とか?」
「子孫の繁栄?」
一ノ瀬は椅子ごと身体を佐伯に向ける。
「……いや、結構各地にそういう祭ってあるだろ」
「うーん、そうかなぁ……」
また、あの感じだ。概念だけが頭の中を漂うような感じ。見たことが、聞いたことがあるような気はするのに、どんなに記憶を検索しても明確な輪郭は浮かんでこない。もやもやして気持ち悪い。記憶ね、と一ノ瀬は思う。
「ねぇ、私って前もこの話を佐伯としたことあったっけ?」
「は? 子孫の繁栄について?」
訊き返す佐伯の口元がどことなくにやりとするのを見て、一ノ瀬は眉をひそめて顔の前で手を振る。二人きりの空間で下ネタなんて、冗談じゃない。それよりも今は、知里の関連情報を探すことが先決だ。
「知里ちゃん、十三歳、ね。それだけの情報じゃ、雲を掴むような話だわ」
一ノ瀬は今日の午後ずっと、全国の治安警備局の事件ネットワークシステムを検索していた。
とある十三歳の少女は身代金目当てで誘拐され、一方で別の十三歳の少女は遊ぶ金欲しさに四歳の男の子を誘拐していた。十三歳の少女の自殺はここ一週間で三件あり、十三歳の少女による万引き事件は十二件もあった。十三歳の少女が年齢を誤魔化して風俗店で接客していた事件は、一ノ瀬の記憶にも新しい。九州地方北部にあたる第百十五自治区では十三歳の少女の捜索願いが出されていたが、名前や特徴は知里と一致しなかった。世の中は実に十三歳の少女の事件で溢れ返っている。
国政が破綻して以降、治安は悪化の一途を辿っている。人の目が減り、空き家が増え、モラルは失われつつあった。
治安警備局はかつての警察の流れを組んではいるものの、恒常的な人手不足と法令の形骸化により、以前ほどの犯罪抑止力にはなっていない。ここ第三十八自治区はまだ落ち着いている方だ。
一ノ瀬は知里自身に話を聞くことも試みたが、彼女は当たり障りのない会話はぽつりぽつりとしても、彼女自身のこととなると頑なに口を閉ざし、首を横に振る一方だった。
「探してくれるような家族がいない、とか――」
ふと口にした可能性に、一ノ瀬はため息をつく。そんな哀しいことがあってはならないという気持ちの傍らで、その場合彼女を一体どこへ届けたらいいのかという疑問が過り、少し自分が厭になる。
「案外、子どものことなんてどうでもいいっていう親、いるからな」
佐伯が一ノ瀬のすぐ右隣に腰を下ろしながら、さらりと言う。
一瞬訪れる沈黙。たぶん、佐伯も同じことを考えている。
その空気を払うように、一ノ瀬は問いかける。
「ねぇ、佐伯は知里ちゃんから何か聞き出せた?」
「いや? 一ノ瀬と似たようなもんだと思う」
「あぁそう」
数時間前、佐伯が三十分ほど応接室にいたので、随分話が弾んで何か情報を得られたのではと思ったが、そうでもなかったらしい。一ノ瀬ははっとして、佐伯の顔を見る。
「……美少女と密室で二人きり。空白の三十分、一体彼に何が――」
極めて緊迫した表情を作り、低い声で一ノ瀬は言う。すると佐伯が彼女の頭を小突く。
「馬鹿者。俺にロリコンの気はない」
「『つまんないことでクレーム言ってくる人がいるでしょ、そういうのは極力避けたいからねぇー』」
今度は昼間の太田局長の物真似をする。それには佐伯もたまらず吹き出す。
「くっだらねぇ……!」
人気のなくなった部屋に、笑い声が響く。それまで漂っていたかすかな不安の粒子が、一瞬でどこかへ消え去る。
二人の笑い声はとても特別な響き方で、この時、この場所でなければ存在し得ないもののように感じられる。
こういう時間が好きだと、一ノ瀬は思う。佐伯とは年も近いし、気を遣わなくても良い。冗談にも乗ってくれる。三年前に彼がここに来て以来、ずっと緩やかな関係が続いている。
やがて笑いの余韻が消えると、先ほどよりも密度の濃い沈黙が訪れる。すべり込むように、待ち受けるように。
「……明日も暑いかなぁ」
一ノ瀬はぽつりと呟く。その問いかけに意味などない。要は少しでも沈黙を埋められれば何でも良いのだ。時計の針が秒刻みで世界を回していく。
一ノ瀬は目の前のモニターに視線を固定させ、マウスを操作して無意味な天気予報のサイトを展開させる。顎をもたせかけた左手の頬杖は、さざめく心臓を支えている。
やがて、ふわりと空気が動く。
次の瞬間、一ノ瀬の髪に何かあたたかいものが触れる。
それは佐伯の手だった。
一ノ瀬がゆっくりと顔を向けると、妙に真面目な顔をした佐伯と目が合う。
「えと……、何?」
唇からつむぎだした言葉は、自分の声でないかのように鼓膜に届く。
佐伯は彼女の髪から静かに手を離し、少し気まずそうに視線を動かしてから、唇にいつもの笑みを作って首を振る。
そしてこんなことを言った。
「一ノ瀬、明日日勤だろ。あんまり遅くなってもいけないし、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないか?」
一ノ瀬はエレベーターホールに立っていた。
本日当直の佐伯を本部に残し、彼女はあの空間から立ち去ろうとしている。鏡面の扉に映る自分の顔には、表情というものがまるきりない。
――びっくりした。
佐伯とは今までも何度か、ああいうもぞりとする雰囲気になったことはあった。
でも、あんなふうに触れられたのは初めてだ。
建物は昼間よりも一層ひっそりとしている。切り取られたホールの空間に、自分の心音だけが妙に大きく反響する。この場に誰もいなくて良かった。きっとこの音は周囲に聞こえてしまっただろうから。
チン、と前時代的な音が不意打ちのように鳴り響く。一ノ瀬はびくりと身を震わせ、我に返る。
扉が開き、鏡の代わりに白い直方体の小部屋が現れる。彼女は頭を振り、音を立てずにそれに乗り込む。目を瞑っても、目蓋の裏にいろいろなものがちらつく。今日は特にノイズが多い。ゴウンゴウンと下るほどに、頭の先からすぅっと冷えていく気がした。
気のせいだ。きっと。
外に一歩踏み出すと、昼間の蒸し暑さがそっくりそのまま冷めたような湿気に包まれる。空にはよく太った月が顔を出している。
一ノ瀬は車に乗り込み、いつもの手順で帰路に着く。
自宅の狭いワンルームは、昼前に出てきたままの乱れた状態だ。シーツのめくれたベッド、テーブルに散らばった雑誌、洗面所に吊るされた洗濯物。自分一人だけの空間だ。今日はいつもよりも寂しく見える。
何気なく取り出した携帯端末に、メッセージの着信を知らせるランプが点灯していることに気づく。一ノ瀬はショルダーバッグをベッドに放り投げて、端末を操作する。
メッセージは養母からだった。
何のことはない。季節の変わり目の体調を慮る言葉に、たまには帰ってきなさいという内容が添えられた簡単な内容だ。今日の午後二時すぎに受信していた。ちょうど知里の調書を取っていた頃だ。彼女の家族のことなんかを質問していた。
家族、と一ノ瀬は思う。家族とはなんだろう。
一ノ瀬のことを育ててくれた養父母には、感謝してもしきれない。身寄りのない自分を引き取って、高校にも行かせてくれたのだ。
しかし一方で、やはり他人であるという意識はどうしても拭い去れない。
同じ自治区内にいながら一ノ瀬が一人暮らしをしているのは、何も勤め先が不規則な勤務体系だからということだけではない。むしろそのことも含めて、衣食住に関して気を遣わなければいけない共有部分が彼女にとって心のどこかで負担で、だから勤務のことを理由にあの家を出た。中学から高校卒業まで一緒に暮らしていたはずなのに、『両親』の存在は既に『家族』という概念とともにひどくぼんやりしている。
私の本当の両親は、本当の家族は、どういう人たちだったのだろう。どんなに頭の中を探っても、それは暗闇に融けている。
あぁ、そうか。だから暗闇を求めるのか。
返信のメッセージを作りかけていた手を、一ノ瀬は止める。
名前と年齢しかはっきりと明らかにしない知里。彼女は、どんな家庭で育った子なのだろうか。