第4話:一の章「区立病院、ハンバーガー、少女」
「どうも納得いかないな」
「何が?」
一ノ瀬と佐伯を乗せた車は第三十八自治区の市街地を走っている。
平日の昼間のせいか、周囲を走る車は大型トラックばかりである。トラックに前方の視野を塞がれる圧迫感と信号のつなぎの悪さに、RV車のハンドルを握る佐伯はうんざりした表情だ。
夏が過ぎ去るのを惜しむかのようなきつい太陽光が前方を走るタンクコンテナ車のボディーに反射し、視界を焼いている。初秋とはいえ、真夏の暑さを思い出させるような日である。
そんな中、面倒な仕事を押し付けられた理不尽。佐伯がぽつりと発した言葉はどの状況のことを言ったものなのか、いまいち判別がつかない。
「太田局長の態度だよ。いつも思うけど、局長は一ノ瀬に甘い気がする」
「そう?」
「そうだよ。さっきだって、一ノ瀬が来る直前まですごい苛々してたんだぜ。それが一ノ瀬が来た瞬間、あぁだよ」
「まぁ、役得でしょ。たった一人の大事なかよわい女子なわけだし」
一ノ瀬はすぼめた唇に人差し指をあて、小さく首を傾ける。
佐伯は一瞬横目で彼女をちらりと見やり、そしてわかりやすく溜め息をつく。
「よく言うよ。この前一ノ瀬が大男を一瞬で叩きのめしたことを、俺は忘れないぞ」
「なによ、それくらい」
一ノ瀬はじろりと佐伯を睨みつける。
彼女は一見すると細身だが、犯人と対峙しても身軽で躊躇いがないため、逮捕術は男性局員に引けを取らない。佐伯は正面を向いたまま、やってらんないなぁと呟く。赤信号が青に変わり、車がゆっくりと発進する。
「まぁちょうど昼めし時だし、せっかくだから何か食って帰るか」
「あら、ごちそうさま」
「……おごりだとは一言も言ってないけどな」
「急な呼び出しだったから、朝から何も食べてないの」
反論を無視してしれっと言う一ノ瀬に、佐伯はやれやれ、とこぼす。
区立病院は、老人で溢れ返っている。ただでさえ大きくない病院である。待合室の椅子という椅子は全て埋まり、立って待っている人もいるほどだ。それぞれどんな症状で病院に来ているのか、一見しただけではわからない。中には世間話のために来ているのではないかと思えるほど元気そうな人もいる。
だがこうして病院に来られる人はまだ良い。身寄りのない老人が、誰にも知られずに孤独死する件数は年々増えている。そういった場合には一応治安警備局にて事件の可能性も調べるのだが、大抵は自然死だ。無情な現実を目にする度、一ノ瀬は苦々しい気分になる。人間関係の希薄さが、人を殺しているのだ。
「治安警備局の者ですが」
一ノ瀬と佐伯が受付に行くと、窓口に座った四十がらみの女性事務員がさもつまらなそうな目で二人を見やる。そして面倒臭そうに立ち上がり、事務的な口調で「こちらです」と言う。促されるままに彼女の後をついていくと、『院長室』と表示された部屋に通される。
院長は、自身が老人といってもおかしくない年代の、白髪の男性だ。
「いや、お忙しい所をよくお越しくださいました」
院長は恭しく立ち上がって二人を迎える。勧められた椅子に腰を下ろすと、早速佐伯が本題を切り出す。
「昨日保護された女の子を迎えに来たんですが」
「えぇ、ありがとうございます。怪我は膝に軽い擦り傷があっただけでしたし、最初はかなり混乱した様子だったのも、だいぶ落ち着きました。もうこちらで何か治療するような必要はありません。ただ……」
「ただ?」
「記憶障害のような感じで、自分が誰で、どこで何をしていたのかとか、親はどうしたのかとか、一切答えられないようなのです。一応脳の検査もしたのですが、特に異常はありませんでした」
今度は一ノ瀬が口を開く。
「精神的な記憶喪失ということですか?」
「……もしくは何かの理由でそのふりをしているか、どちらかです」
一ノ瀬と佐伯は思わず顔を見合わせる。
「いずれにしてもカウンセリングが必要かと思いますが、この病院では専門の者がいないものでして。ただ、やはり彼女が事件に巻き込まれた可能性もなきにしもあらずですので、一旦治安警備局の方で預かっていただきたいのです」
「……わかりました。とりあえずその子に会わせてください」
その病室は、四人部屋だった。
案内してくれた中年の看護師は苛立ちを隠そうともせず、「次が控えてるんで、早く連れていってください」とだけ言い放ち、忙しそうに去っていく。
先ほどの院長の口調からはそれほどわからなかったが、やはりベッドが決定的に不足していて、切迫した状況であるらしい。病室のベッドには枯れ木のような老人が横たわっている。確かに患者の数に対し、対応するスタッフの数はあまりにも少ない。
それにしても先ほどの看護師の対応はあんまりだ。一ノ瀬が顔をしかめると、佐伯が彼女の肩をぽんと叩いて口の片端で笑顔を作る。初対面の少女に会うのにそんな顔してるな、ということのようだ。
少女は、入り口から向かって右奥のベッドに腰掛けていた。その姿を目にした瞬間、一ノ瀬は息を飲む。
肩までまっすぐに伸びた髪に、色白の頬。くっきりした二重の目は、伏し目がちに長いまつ毛に縁取られている。とても美しい顔立ちの少女だ。身にまとった白いワンピースは簡素な形ながらも、彼女の華奢な身体を美しく引き立てる。裾から覗く右膝にはきっちりと包帯が巻かれており、小さな白い手が胸元に提げられたペンダントのようなものをきゅっと握りしめている。
少女が一ノ瀬を不思議そうな目で見上げるので、彼女は慌てて笑顔を作って自己紹介する。
「こんにちは、私は治安警備局の一ノ瀬といいます。隣は佐伯。あなたは?」
一ノ瀬の問いかけに、少女の瞳に動揺の色が過る。先ほどの白髪の院長の説明も念頭に置き、深追いはしないことにする。
「えぇと、私の言葉はわかる?」
少女は小さく頷く。どうやら日本人ではあるようだ。
「……ちょっと失礼」
隣に立っていた佐伯が、ポケットから取り出した携帯端末をおもむろに少女の右目にかざす。突然のことに、少女はびくりと身を震わせる。佐伯の端末の画面には、『登録情報がありません』と表示が出る。
「網膜登録なしか」
「ちょっと佐伯、いきなり何してんの! 彼女びっくりしてるじゃない」
一ノ瀬は勢いよく佐伯の肩をはたく。ぱん、という気持ちのいい音が病室に響き、佐伯が小さく「痛てっ」ともらす。
「ほんっと、無神経なんだから」
「……暴力反対」
二人のやりとりに少女は目をまるくし、ほんの少しだけ口元を緩める。彼女の表情の変化を見て、一ノ瀬はほっとする。
「私たち、あなたを迎えに来たの。これからお昼ごはんを食べに行くんだけど、あなたも一緒にどう? お腹は空いてる?」
少女は一ノ瀬を見上げ、今度はしっかりと頷く。
「それでどうして、こんなジャンクフードかなぁ」
病院を出た後、三人は自治区内のファストフード店に来ていた。
「給料日前できついんだ。今日のところはこれで勘弁してくれ」
文句を言う一ノ瀬に、佐伯がフォローを入れる。
平日ということもあり、店内はそれほど混んでいない。彼らはレジで適当なハンバーガーのセットを注文する。
「あなたは何がいい?」
一ノ瀬は少女にメニュー表を手渡す。少女はメニュー表に目を落としたまま、戸惑ったように首を傾げる。
「……私と同じものでいい?」
一ノ瀬が助け船を出すと、少女はまた小さく頷く。
三人分のセットを持ってテーブル席に移動するなり、一ノ瀬はハンバーガーに手を伸ばす。ごちそうではないとはいえ、店内に充満するフライドポテトの匂いを嗅いでいたら空腹を意識せずにはいられなくなったのだ。
ふと少女を見ると、彼女はやはり無表情のまま、目の前のハンバーガーセットを見つめている。
「ひょっとしてハンバーガー嫌いだった?」
一ノ瀬が少女に問いかけると、彼女は驚いたように顔を上げる。そして佐伯と一ノ瀬の顔を見比べるように視線を移動させた後、再びセットの載ったトレイに目を落とす。
「……あの、これ……何ですか?」
少女の口から初めて言葉がこぼれる。清水のように澄んだ声だ。良かった、口が聞けたと思うと同時に、その言葉の意味するところに一ノ瀬は驚く。
「何って……ハンバーガーよ。覚えてない?」
少女は曖昧に首を傾げる。
記憶喪失というのは、そういうことも忘れてしまうのだろうか。つまり『ハンバーガー』とか『洗濯機』とか、一般的なもののことまでも。
戸惑いながらも、一ノ瀬は努めて冷静な声を出す。
「……まぁ、そんなにすごくおいしいって訳じゃないけど、お腹空いてるなら食べておきなよ。うちの庁舎の食堂のごはんなんて、まずくて食べられたもんじゃないんだから」
「ひどい言い草だけど、俺も同感だな。うちの食堂と比べたら、ここのコストパフォーマンスはすごい」
二人が神妙な面持ちで口々に言うのを聞いて、少女はわずかに首を傾げる。そしてまたしばらくトレイを見つめる。
やがて彼女はそっと両手を合わせ、目を閉じてほんの小さな声で何事かを呟いた後、ハンバーガーの包みを手にとる。
その様子に、一ノ瀬は何か引っかかる感じを覚える。
ハンバーガーは忘れても、生活習慣は覚えている? その違和感ももちろんある。
しかしそれ以上に、何か説明しがたい引っかかりがあるのだ。
食事の前に、手を合わせて食前のあいさつをする。それ自体は何らおかしいことではないが、少女のそれはどことなく異質な感じがしたのである。
いや、異質な感じというより、既視感に近いかもしれない。先ほどの少女の仕草を、一ノ瀬はどこかで見たことがあるような気がしたのだ。しかしそれが具体的にいつ、どんな状況だったのかまでは思い出せない。
「うまいか?」
佐伯が少女に尋ねると、彼女はほのかに微笑んで、こっくりと頷く。
少女を本部に連れ帰ると、太田局長は大仰に一ノ瀬と佐伯を労った。
とりあえず彼女を応接室に通した後、二人は再び局長に呼ばれた。何となく嫌な予感がする。
「いやほんと、ご苦労だったね二人とも。特に一ノ瀬さんは非番だったところをわざわざ出て来てもらって」
「いえ」
局長のその言葉が単なる前置きに過ぎないことを、一ノ瀬はこれまでの経験上知っている。隣の佐伯の様子をこっそり伺うと、どうやら彼も同じことを感じているらしく、敢えて表情を消して局長の次の言葉を待っている。
「それでだね、一旦あの子をこちらで引き取ったはいいが、いつまでもここにいてもらう訳にもいかない。どういう素性で、どんな経緯でうちの自治区で迷子になっていたのか不明だからね。どこかで家族が捜索願いを出しているかもしれないし、何かの事件に関係している子かもしれない。だから、早いとこ担当部署に引き渡したいと思ってるんだよ」
「はぁ」
「だからついでみたいで悪いんだけど、佐伯くんと一ノ瀬さんの二人であの子の身元を調べて、担当部署に回すところまでやってくれるかな」
やはり。
恐らく太田局長は、初めからそのつもりで彼女の迎えに二人を遣わしたのだろう。ある程度予想していたことだったが、それが具体的な指示として与えられると、局長の回りくどさには改めてうんざりする。加えてあの少女をあからさまにお荷物として扱うような口ぶりに、一ノ瀬は嫌悪感を抱く。まだ年端もいかない少女なのだ。局長からの指示でなくとも、治安警備局員の使命として少女を然るべきもとへ送り届けるべきだと、一ノ瀬は思う。
しかしそうは言っても、今のところ少女に関しては何の身元情報もないのが現状である。
一ノ瀬はタブレット端末を持って、彼女のいる応接室に入る。佐伯は通報が入ったとかで現場急行したので、一旦戦線離脱している。
「ごめんね、ばたばたして。体調悪くなったりしてない?」
少女は首を横に振る。彼女の首から下がっているペンダントが、しゃらしゃらと揺れる。一ノ瀬はふと、それが鍵の形をしていることに気づく。
「それ、おうちの鍵?」
一ノ瀬が指さすと、少女ははっと気づいたようにそれを両手で握りしめ、また首を横に振る。
その反応を見て、一ノ瀬は首を傾げる。この子、記憶喪失などではないんじゃないかな。
「……まぁいいや。私、あなたがおうちに帰れるようにお手伝いするから、よろしくね。それにあたってあなたのことを教えてほしいんだけど、いいかな。もちろん、言いたくないことを無理に聞くつもりはないわ」
少女は頷く。一ノ瀬は端末をテーブルの上に置き、調書のフォームを起動させる。
「まず、さっきも聞いたけど、名前は言える?」
少女は少し躊躇った後、静かに口を開く。
「……チサト」
「チサトちゃんね。どんな漢字を書くの?」
「知るに、里」
一ノ瀬はフォームに『知里』と入力する。やっぱり。この子は少なくとも自分の名前を覚えている。
「苗字は? お父さんやお母さんの名前は?」
少女は首を横に振る。それが言いたくないということなのか、覚えていないということなのかはわからない。
「生年月日は?」
少女は小さく首を傾げる。
「……今、何歳?」
「十三歳」
「住所は言える? どこの学校?」
少女はやはり、首を横に振る。
「うーん、じゃあ質問を変えようか。知里ちゃんは病院に来る前、山の中で何をしていたのかな?」
知里は一ノ瀬の目から視線を外し、再び胸元に提げられた鍵をぎゅっと握る。小さな白い拳に骨が浮き上がる。伏せたまつ毛が微かに震える。その下にある瞳はゆらゆらと影が揺れている。
この子は何か、とても恐ろしい目にあったのかもしれない。
一ノ瀬は知里からこれ以上何かを聞き出そうとするのを諦めた。代わりに口元に笑みを作り、できる限りのやさしい声で言う。
「大丈夫、ここは安全よ。怖い人が来ても、私が必ず守ってあげるからね」
その言葉に知里は顔を上げ、まっすぐな瞳で一ノ瀬を見つめる。
「とりあえず何か飲む? とは言っても、コーヒーかお茶しかないけど。……お茶でいいか。ちょっと待っててね」
一ノ瀬は独り言のように言い、端末を手にして立ち上がる。そして彼女に背を向け、扉を開ける。
「……ホウジョウサイ」
応接室を出ようとした瞬間、ほんの小さな呟きが聞こえる。
「え?」
一ノ瀬は振り返る。すると、一ノ瀬をじっと見つめる知里と目が合う。
驚くことに、彼女の瞳にはそれまでなかったごく理知的な光が灯っている。知里はもう一度、今度はよりはっきりとした声で言う。
「ホウジョウサイ」
異国語のように響くその言葉は、一ノ瀬の思考回路の中に何らかの明確な意志を持って入り込む。しかし結局、それは海の底に沈む泡のように実体を結ばないまま、音だけがふわふわと宙に漂った。




