第3話:全の章「チィ姉ちゃん」
朝を告げる鶏の声で、ユウマは目を覚ました。薄い布団の中で手足が冷え切っており、彼はぶるりと身震いした。
まだ初秋とはいえ、朝晩は冷え込むようになってきていた。季節が冬へと向かうにつれ、太陽が出ている時間はどんどん短くなる。これからしばらくは夜が長くなっていく一方だ。それはチィ姉ちゃんたちと一緒にいられる時間が短くなり、代わりに単家で過ごす時間が長くなるということを意味していた。ずっと夏だったらいいのに、とユウマは思った。しかしそれが叶わぬ願いであることを、彼はこのひやりとした空気と共に実感していた。
今日の食事当番であるミサ姉ちゃんが一足先に寝間から出ていく音を聞きながら、ユウマはそのまましばらく布団の中に留まっていた。しかしやがてハルじいさんとケイコおばさんも起き出したため、彼も無理やり布団から這い出た。
ミサ姉ちゃんが不機嫌そうな顔で朝食を用意する間、ユウマは井戸から水を汲んできて、洗顔と小便を済ませた。
朝食の献立はきのこのお吸い物と白飯、きゅうりの漬物だ。どれも村で獲れたものを使っている。少し前までは、毎日のように食卓にトマトが並んでいた。
皆決まった席に着き、いつもどおり目を閉じて祈りの言葉を唱えた。「天主さまの恵みのもとに」。それきり誰も口を聞かず、黙々と朝餉は進んでいった。あまりにしんとした食卓の雰囲気に、ユウマの心は翳った。
前の単家では、そんな気持ちにならなかったのに。
たぶん「食事の時にお喋りをしてはいけない」という掟がなくとも、この家では誰もお喋りなどしようとはしないだろう。ひどくひとりぼっちだった。食事の時間が一刻も早く過ぎ去ればいい。ただそう願うだけだ。
朝食が終わると、それぞれが一日の勤めに出た。
村では全ての人に役目が割り当てられており、基本的に日が出ている間はそれを全うするのが天主さまへの勤めだ。田畑を耕す者もいれば、水車小屋を管理する者もいた。家畜の世話をする役割の者や、衣服を作る役割の者もいた。この村では、生活に関わることは皆自給自足で賄われているのだ。全てのことが、この村の中で完結していた。
十五歳までの子どもは、学校で生活に必要なことを学ぶ。
この村では毎年夏に数人の赤ん坊が生まれる。生まれた子どもはすぐに学校に入れられ、集団で育てられる。そして成長するにつれ、子どもたちはいろいろなことを教えられる。読み書きそろばんに始まり、火の起こし方や天気の読み方、作付けの仕方。将来この村で役目を負うための基礎となる様々なことを、『教師』の役目をもつ大人たちから教わるのだ。
子どもたちは年代ごとに組分けされており、年長になるにつれ高度な技術を身につける。そして十六歳になると『大人』と見なされ、それぞれが向いている分野に関連する役割を振り分けられる仕組みなのだ。
「ねぇユウマ、昨日のこと、単家の人に言ってないでしょうね?」
授業の合間の休み時間、ユウマはチィ姉ちゃんのところに遊びに来ていた。
チィ姉ちゃんは十三歳なので年長組だが、引っ込み思案のユウマは年中組に仲の良い友人がおらず、休み時間はいつも彼女にべったりとくっついて過ごしているのだ。
「うん、言ってないよ。チィ姉ちゃんと約束したもん」
「よし、えらいぞユウマ!」
チィ姉ちゃんに褒められて、ユウマは嬉しくなった。
彼女の笑顔を見ると、夜の間の暗い気持ちなど嘘のように吹き飛んでしまう。単家内での食事ではちっともあたたまらないお腹も、チィ姉ちゃんと一緒にいるだけでほわりとした。
「こら、また内緒の話をしているのか」
「あ、セイジ兄ちゃん!」
ふいに掛けられた声に、チィ姉ちゃんの表情がぱっと一段明るくなった。気づけば二人の背後に、すらりと背の高い少年が立っていた。
「あんまり頻繁にやってると、さすがの俺も誤魔化せなくなるからな」
「はぁい、わかってます」
セイジ兄ちゃんは困ったように眉根を寄せながらも、口元にはやさしい微笑みを浮かべていた。それに対し、チィ姉ちゃんも満面の笑みで応えた。
「ほら、もうすぐ授業が始まるぞ。ユウマもそろそろ自分の教室に戻らないと」
「うん、そうする」
セイジ兄ちゃんに促されて、ユウマは席を立った。しかしそのまましばらくもじもじと足踏みをするように躊躇って、彼は上目づかいでそっと年長の二人を見た。
「……次の休み時間も、遊びに来ていい?」
ユウマの問いかけに、チィ姉ちゃんがやさしい声で言った。
「もちろんよ」
それを聞いて彼はほっと息をつき、ようやく自分の教室に戻った。
授業の間じゅう、ユウマはチィ姉ちゃんのことを考えていた。
チィ姉ちゃんは、他のどんな女の子とも違った。まっすぐでさらさらした髪。強い意思の光をたたえる大きな瞳。ほっそりとした長い手足。何より、いつもユウマの手を引いて笑いかけてくれる。彼女のやわらかい手のひらの感触を思い出すと、おへその辺りがもぞもぞとした。
しかしチィ姉ちゃんが一番可愛い笑顔をするのは、決まってセイジ兄ちゃんの前だった。彼女がセイジ兄ちゃんと話をする時の声には、ユウマの時とは違う、華やいだ色が混ざるのだ。
そのわずかな違いに気づいた時、彼の心は木枯らしにさざめく森の木々のようにさわさわと音を立てた。ユウマだって、セイジ兄ちゃんのことは大好きだ。なのになぜ、こんな気持ちになるのだろう。それをうまく説明することもできず、相変わらず自分に向けられるチィ姉ちゃんの笑顔に心安さを感じながら、彼はその感情をそっと自分の胸の中にしまいこんでいた。
「ユウマくん、手が止まっているわよ」
突然頭の上から掛けられた声にびくりとして顔を上げると、腰に手をあてた女の『教師』がこわい顔をして彼のことを見下ろしていた。
ユウマの手もとには、編みかけの藁の束が横たわっていた。
今は半月後に村で行われる『豊穣祭』のためのしめ飾りを作る時間だ。これは『豊穣祭』が終わるまでの十四日間、各単家の玄関に飾るもので、子どもたちが作ることになっているのだ。
周りを見回すと、教室じゅうの子供たちの視線がユウマに注がれていた。隣の席の子のしめ飾りはもうすっかり完成していた。ユウマはかぁっと顔が熱くなり、みぞおちがきゅっと緊張するのを感じた。脇の下を冷たい汗がさっと伝っていった。
『教師』は呆れたような口調で言った。
「できていないの、ユウマくんだけよ」
ユウマは慌てて手を動かそうとした。もともと彼は手先が不器用で、こういう作業はうまくいった試しがなかった。しかも皆から見られているかと思うとますます指先がもつれて、ちっとも進んでいかない。
そんな彼の手の甲を、『教師』がぴしゃりと叩いた。
「作り方、何度も教えたでしょう。どうして言われたとおりにできないの?」
教室の至るところから、くすくすと笑う声が聞こえた。耳の後ろの辺りがじわじわと痺れてきた。呼吸も苦しくなってくる。ユウマはきゅっと唇を噛んで、こみ上げてくる涙をこらえた。
「……もういいわ。ユウマくんはおうちに持って帰って、ちゃんと作るのよ」
その時ちょうど、今日の授業の終わりを告げる鐘が鳴らされた。子どもたちは次々に席を立ち、一人二人と去っていった。
ユウマは自分の机の上に寝転んだみすぼらしいしめ飾りを見つめていた。こんな状態のものを持って帰ったりしたら、ケイコおばさんやミサ姉ちゃんに何と言われるかわからない。
このしめ飾りは、まるで僕みたいだ。
そのまま席を立つことができず、ユウマは教室に一人取り残された。
「ユウマ? 帰らないの?」
チィ姉ちゃんがユウマの教室に来たのは、しばらく経った後だった。
普段なら授業が終わるや彼女のところに来るユウマが、今日はなかなか来ないのを不思議に思い、様子を見に来たのだ。
ユウマの心はざわめいた。まだ机の上には編みかけのしめ飾りが置きっぱなしになっていた。彼はそれを隠すように机に突っ伏した。こんなものを、チィ姉ちゃんに見られたくなかった。
「……どうしたの? それ」
ユウマは隠したつもりだったが、藁の一部が腕の下からはみ出ていたらしい。見られたくないものを見られてしまった気恥ずかしさで、ユウマはますます顔を上げる訳にはいかなくなった。
授業中ずっとチィ姉ちゃんのことを考えてぼんやりしていたこと、しめ飾りがうまく作れなかったこと、そのせいで『教師』に怒られ、級友たちに笑われたこと――。
そんなに情けない自分を、チィ姉ちゃんにだけは知られたくなかった。
今一番、チィ姉ちゃんに会いたくなかった。
僕のことなんて放って、早く帰ってよ――。
そう思っているとふいに、頭にあたたかいものが触れた。彼女の手だった。
「『豊穣祭』のしめ飾りね。私が手伝ってあげるから、早く終わらせてまた遊びにいこう? 大丈夫よ、すぐにできるから」
ユウマがどんなに隠そうとしても、チィ姉ちゃんには何でもお見通しなのだ。そのことに彼は少なからずショックを受けたが、彼女の声と言い方があまりにもやさしくて、こらえていたものの堰がついに切れてしまった。
それは涙となってユウマの目から溢れ、とめどなく流れ出た。しゃくり上げるような嗚咽が教室に響いた。窓から差し込む日差しは徐々に夕方のそれになってきており、彼の影を照らし出していた。
――みじめだった。
ユウマが泣き終わるまで、チィ姉ちゃんはずっとゆっくりと彼の髪を撫でていてくれた。
その手のあたたかさが苦しいほどに胸を締め付けていることなど、きっとチィ姉ちゃんは知らないだろう。そう思いながらも、涙を止めることはできなかった。