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第30話:一の章「アリス、再会、幸せの国」


 『政府再建計画 始動』

 太田局長がデスクで読んでいる新聞の一面トップに、大きな文字が並んでいる。

「ふーん、今さら政府建て直しって言ってもねぇ。まずはこの治安の悪さをなんとかしてもらいたいもんだよね。まぁ事件がなくなったら、僕たち仕事なくなっちゃうか」

 彼は脂ののった腹を無意識にさすりながら、誰に言うともなく言って一人で笑い声を上げる。当然、それに応える者はいない。今年の春に配属になったばかりの新人だけが、その雰囲気に戸惑っておろおろしている。

 元よりあんたは暇でしょ。一ノ瀬は肩をすくめ、頭の中で軽くつっこみを入れる。毎度のことながら、太田局長の大きい独り言は疲労をどっと増加させる。

 しかし疲れてばかりもいられない。去年の初秋に一人減員となって以来ようやく新人を補充してもらえたものの、彼が育つまでは指導しながら二人前働かなくてはいけないのだ。

 一ノ瀬は小さく溜め息をついて、立ち上がる。

「……局長、パトロール行ってきます」

「いってらっしゃい。進藤くんも連れてってあげてよ」

 言われなくても。

 一ノ瀬は右隣のデスクに座る新人に声をかけ、治安警備局の本部を後にする。


 あの事件から、もうすぐ一年が経とうとしている。

 一ノ瀬はすっかり元の生活に戻り、相変わらずの毎日を過ごしていた。職場に行けば次から次へと否応なしに仕事が湧いてくる。駆け抜けるように仕事を捌けば、あっという間に夜が来ている。ベッドに潜り込んで死んだように眠り、次に目を開けたらもう朝だ。余計なことを考える暇もないのは、一ノ瀬にとって幸運と言えた。

 新しく建て直される政府は『家族の結び付き』を重視し、『家族社会政策推進室』なるものを設けて、少子・高齢社会問題の対応にあたるという。地域ごとのイベントを増やすなどして、家庭の中はもちろんのこと、近所まわりの結び付きも深め、その地域社会全体での交流を活性化させる狙いとのことだ。

 それはどちらかと言えば、「少子」や「高齢」に物理的な歯止めをかけるためというよりも、一人ひとりの人生を豊かにするための動きのように思える。

 皮肉なことではあるが、あの『村』の存在は少なくとも無駄ではなかったようだ。既にどこか他人ごとのような感覚でそう思う。哀しいとか、喜ばしいとか、そういうことは考えない。考えないように、している。ただ、報じられている政府の動きの裏側に『彼』の存在がある気がして、ふいに心をざわつかせるのだ。

 時々『村』の近くまで行ってみることはあった。少しだけ様子を見に、縦穴を降りていってみようかと思ったりもした。しかし実際にはそれはせず、今も『村』にいるユウマや知里のことにぼんやりと想いを馳せるに留まった。

 その代わりという訳ではないが、一ノ瀬はあれ以来『実家』に帰ることが多くなった。帰ればいつでも笑顔で迎えてくれる養父母に、血のつながりがなくてもこの人たちはちゃんと私の『家族』なのだと実感するようになった。帰属する場所の存在は思っていた以上にあたたかく、彼女に心の安寧を与えてくれている。

 時間の流れとは不思議なものだ。

 日々のあれこれに揉まれるうちに、過去の記憶は遠い幻のようにすら思えてきた。それは自分の中の重要な傷として確かに存在してはいるが、もはや『欠落』ではない。どのような傷であれ過去があるということが、現在の一ノ瀬の生き方のスタンスをより迷いのないものにしている。

 時々思うのだ。不思議の国から戻ってきたアリスは、どんな大人になったのだろうかと。

 いずれにしても今はただ、前に突き進むのみだ。



 一ノ瀬は運転席側の窓から燦々と降り注ぐ日光にうんざりしながら、交通量の少ない田舎道にミニワゴンを走らせる。もう夏も終わるころだというのに、いまだに真夏を思わせる強い日差しだ。今年の残暑も相変わらず厳しい。

 助手席に座る新人は、自分たち以外利用していないのではないかと思える信号を生真面目に確認しては、指さし点検をしている。

 新人指導は、難しい。緊急の通報が入れば彼に構う暇はなく、一方でそれ以外の時には教えるほどの事項が然程ない。『彼』の時はどうしていたかな、とふと思う。

 背筋を伸ばして周囲を伺う新人をちらりと見やり、一ノ瀬はふいに口を開く。

「ね、進藤はさ、どうして治安警備局に入ろうと思ったの?」

 突然声を掛けられた新人がびくりとして、一ノ瀬の方に顔を向ける。

「え……と、このところ犯罪が多いので、少しでも地域社会の役に立ちたいと思ったからです」

 妙にすらすら出る文句。一ノ瀬は苦笑する。

「やだ、面接じゃないのよ」

 くすくすと笑う一ノ瀬に、進藤は照れたように頭を掻く。

「……本当のことを言えば、安定しているから、ですね。うち、母子家庭なんで。早く母親を安心させてやりたかったんです」

 この春高校を卒業したばかりの若者は、少し大人びた口調でそう言う。彼の声には、あたたかい家庭で育った者の甘やかさが混じっている。ちょっとくすぐったくて、それを伝えたい相手にはきっと、なかなか面と向かって言えない言葉。そういう感覚も、何となくわかるようになった。

「一ノ瀬さんは、どうしてですか?」

 切り返される質問に、一ノ瀬はうーんと唸る。

「そうだねぇ……独り立ちしたかったから、かな」

「独り立ち、ですか」

「んー……というより、逃げたかったのかも」

 進藤はへぇ、と意外そうな声を出す。

「一ノ瀬さんみたいな人でも、何かから逃げたいと思うことがあるんですね」

「あるよー、たくさんね」

 彼が自分に対してどういうイメージを持っているのかは、敢えて言及しないことにする。

「それで、一体何から逃げたかったんですか?」

 普通なら訊き辛いだろうことを意外にも平気で訊いてくる進藤に一瞬尻込みして、一ノ瀬は口をすぼめる。

「……秘密」

 そこで初めて進藤は自分がデリケートなことを訊いてしまったということに気づき、慌てて小さな声ですいません、と言う。それを軽い笑みでフォローしながら、若いな、と一ノ瀬は思う。

 今になってつくづく思うのだ。自分はあのやさしい養父母から与えられる触れたことのなかったあたたかさから、本能的に逃げていたのかもしれない。誰かを自分の都合に巻き込むことなく生きようとしていたのかもしれない、と。

 でもそれは違ったのだ。

 人と人とが関わり合うことで、お互いに巻き込み合うことで、決して一人きりでは持ち得ないものを手に入れることができる。それは誰の人生にも重要で、前に進んでいくためになくてはならないものだ。『あなたは一人じゃない』。あの時ユウマに向けた言葉は、本当は一ノ瀬自身にも当てはまることだったのだ。



 パトロールを終えて庁舎へと戻る。とりあえず、今日は今のところ平和だ。

 駐車場にミニワゴンを停め、エンジンを停止させてキーを抜く。しかしその瞬間手が滑り、鍵は運転席の座席の下に滑り込んでしまう。

「あっ……ごめん進藤、先に行ってて。鍵が椅子の下に入った」

「あ、はい。わかりました」

 進藤を促しつつ、一ノ瀬は車を降りて座席を後ろに下げる。しかしキーの姿は見えない。

 一ノ瀬は身を屈め、シートの下を覗き込む。

 ――あった。あの一瞬で、随分と奥まで転がったもんだ。

 彼女が椅子の下に手を伸ばそうとした瞬間だった。

「あの、お取り込み中すみません」

 突然背後から掛けられた声に驚いた拍子に、シートと床の間に伸ばしていた腕を打ちつける。

「痛た……は、はい、何でしょうか――」

 どうにか鍵だけは救出し、腕をさすりながら慌てて振り返ると、目の前にワイシャツ姿の背の高い男性が立っている。

「私、新政府の『家族社会政策推進室』でこちらの地区の担当になった者で――」

 差し出される名刺。そこに真新しいインクで印字された名前は。

「佐伯 聖司と申します。初めまして」

 変わらない笑顔。変わらない声。

「……は、じめまして……?」

 名刺を手にしたまま硬直したように見上げる一ノ瀬に、彼は苦笑する。

「えっと……元気?」

 一ノ瀬はその問いかけに反応できず、ただぱくぱくと口を動かす。

「ちょっと急だったかな。一応、君が一人になるタイミングを見計らって声を掛けたんだが」

「き、急も何も……あんた一体、今まで何してたのよ? 戻ってくるなら戻ってくるって、ちゃんと言っといてよね! てっきりもう二度と会えないもんだとばかり思ってたじゃないの」

 ようやく言葉を発したかと思うと、一ノ瀬はそのまま早口で捲し立てる。

 佐伯は口の片端をにぃ、と上げる。

「あ、俺に会いたいと思ってくれてたんだ?」

「はっ? そういうことを訊いてるんじゃないのよ、私はね――」

「俺は会いたかったよ」

 一ノ瀬は思わず口をつぐむ。それは一体、どういう意味だ。訊き返すより早く、彼が再び口を開く。

「悪かった。どうせならちゃんと自分の立場を整理してから、会おうと思ってたんだ。そしたら一年も掛かってしまった」

 佐伯はやさしく目を細める。その瞳にはこれまでのいろいろな経緯が内包された色が次々と過り、今は戸惑ったような表情をした二十七歳の彼女を映している。

 何と返答したら良いかわからず、一ノ瀬は話題を変える。

「……ユウマや知里ちゃんは元気?」

「あぁ、元気だよ。そうだ、ユウマから手紙を預かってきたんだ」

 佐伯は封筒を差し出す。一ノ瀬はそれを受け取り、中から手紙を取り出す。

 『村』の体制のこと。『豊穣祭』のこと。それからユウマ自身のこと。

 丁寧に書かれた文字を追っていくと、精神的にもすっかり成長したユウマの姿が浮かび上がってくる。

「良かった。ユウマ、がんばってるのね」

「あぁ」

 思わず滲みそうになる涙を誤魔化すように顔を上げると、佐伯と目が合う。彼は甘くやさしい表情で、一ノ瀬を見つめていた。まさかこの人、今ずっと私のことを見てたんじゃ――。

 一ノ瀬は慌てて視線を逸らし、眉根を寄せて不機嫌な表情を作る。

「――で、結局何の用よ?」

「着任のあいさつだよ。自治区役所と、治安警備局」

「へぇ……」

 わざと味気ない声を出す。今後彼は、一ノ瀬の仕事に関わってくるのだろうか。少しばかり足を速める鼓動に、気付かないふりをする。

「それでちょっと、千幸に頼みがあるんだ」

 ――ん?

「……何」

「さすがにあんな風に突然辞めた元職場だし、ちょっといきなりは顔を出しづらいからさ、先に千幸から太田局長にさらっと口添えしてくれないかな」

 いや、やっぱりそうだ。聞き間違いではなかった。

 耳の先が熱くなるのを感じる。佐伯の身勝手さに対する苛立ちのせい――ではない。

 一ノ瀬は口を尖らせる。

「嫌だよ」

 思ったよりも冷たい声が出た。佐伯が苦笑しながら言う。

「……相変わらず厳しいな」

「嫌だよ、というか、大丈夫でしょ。……聖司なら」

 一ノ瀬は口をへの字にしたまま、佐伯の顔を見ずに踵を返す。

「さぁ、あいさつなんてぱぱっと済ませなよ」

 言い捨てるようにそう言って、庁舎へと歩みを進める。彼に気付かれないように、ふうと息をつく。

 聖司。彼をそう呼んだ自分の声が、いやに耳に残る。おかしくなかっただろうか。頬が熱い。きつい太陽光の照り返しのせいだけでは、きっとない。

 大股で一ノ瀬に追いついた佐伯が、ぽんと彼女の肩を叩く。その拍子に心臓がとくんと飛び跳ねる。

「千幸、昼めしは食べた?」

「まだ」

 努めて冷静に言う。顔は正面を向けたままだ。動揺を悟られてなるものか。彼の声が、すぐ頭の上から降ってくる。

「じゃああいさつが終わったら一緒に食いに行こう」

 一ノ瀬は横目でちらりと佐伯を見上げる。彼はまた口の端に笑みを作って、少し首を傾げるようにして彼女の目を覗き込んでいる。

 彼女は視線を再び正面に戻し、なおもぶっきらぼうな口調で言う。

「奢りなら行ってもいい。庁舎の食堂とハンバーガー以外で」

「了解。それじゃあ俺はあいさつを頑張るよ」

 佐伯は一ノ瀬を追い越し、先に庁舎の入口へと向かう。彼の背中は緊張感でぴんと伸びているものの、どこかうきうきとした気持ちが踊っているようにも見える。

 一ノ瀬は佐伯の後ろ姿を眺めながら、ようやく口元を緩める。緩んでしまった。心臓が脈を打っている。くすぐったいような、叫びながら走り回りたいような気持ちが、みぞおちのあたりからこんこんと湧いてくる。気を抜くと涙が出そうだ。身体じゅうが熱い。

 庁舎の玄関をくぐる瞬間、彼が振り返る。ようやくしっかりと合わさった視線に、今度は自然に笑顔がこぼれる。

 ――行こう。

 そう、言われた気がした。

 空が青い。日差しが眩しい。足元をしゅるりと風が駆け抜けていく。それに誘われるように、一ノ瀬は一歩を踏み出す。

 秋を思わせる風が連れてきたのは、明るい未来だった。

 その風に乗せた足取りは軽く、彼女を彼の元へとまっすぐに導いていく。

 またここから、一緒に歩いていこう。

 再び顔を上げた彼女の目に飛び込んできた世界は、眩いばかりの光に満ち溢れていた。



ー一の章・了ー



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