第29話:全の章「光の明日へ」
チィ姉ちゃんへ
お久しぶりです。お元気ですか。
チィ姉ちゃんのことだから、きっと『外』の世界で明るく過ごしているのでしょう。僕には『外』がどんなところなのか未だによくわかりませんが、チィ姉ちゃんの様子だけは想像できます。
僕もチサトも元気です。チサトは以前より、物事をはっきり言うようになりました。ひょっとしてチィ姉ちゃんの影響じゃないかな、と思います。
あれから一年が経ち、村は少しずつ変わってきました。
まず最初にやらなければいけなかったのは、『掟』の見直しでした。ご存じのとおりこの村では閉ざされた土地の中で全てが完結するようにと、何もかもが『掟』で縛られていました。しかし長いこと同じ轍で繰り返されていた因習がひとたび崩れたとたん、一滴の雫から拡がる波紋のように、完全に見えた村の秩序の全てが揺らいでしまったのです。
村人たちは、『掟』以外の生き方を知りませんでした(僕とて例外ではないのですが)。予定外のことが起こった時に自浄する力を、この村は持っていなかったのです。今思えば「予定外のこと」が起こらないようにするために、あの香が焚かれていたのかもしれません。
だから香の使用を全面的に辞め、もっと村人たちが自主的に、自律的に生活できるよう、自分たち自身で考えなければいけない領域を増やしました。農作物について何をどのくらい作るのかとか、季節ごとの衣服をどのくらい用意するのかとか、そういうことです。今までは全部『協会』から指示が出ていましたからね。
もちろん、『掟』を見直すことに反発はありました。驚いたことに、『豊穣祭』が破綻しないようにより強固な『掟』を、と考えている『教師』の一派もいたくらいです。セイジ兄ちゃんや佐伯さんの説得で大方の『教師』は体制の変更に納得していますが、それでもまだ一部の人たちとは対立が続いています。
それでなくても、最初のうち村人たちは皆かなり困惑していました。「自分たちで考える」ということは、今までそれをしていなかった僕らにしてみたら非常に難しいことでした。何せ全部のことに思考を巡らせなければいけないのですから。
子どもたちは、大人に比べるとずいぶん柔軟です。僕は今も『教師』という立場で子どもたちと接していますが、逆に彼らから教わることも多くあります。村での役割も子どもたちが自分で選択できるようにしましたが、これは驚くほどすんなり行きました。自分が何に向いているか、どんなふうに役に立てるのか、大人が思うよりも子どもたちは自分自身をよく知っているようです。
新しい体制になってからまだまだ苦労も多いですが、以前にはなかった人と人とのつながりが生まれているようにも感じます。今ではこうしたつながりの大切さを、ひしひしと実感します。チィ姉ちゃんが言っていた「大切な人を大事にする」という意味も、わかってきました。こういうところから、いろんな力が生まれてくるのですね。
次は単家制度の見直しを考えています。今後は誰と一緒に生活するか、自由に選べるようにしたいと思っています。あなたと一緒におじさんの小屋で『結婚』について話を聞いたことが懐かしいですね。あのころは「好きな人と一緒に生活できる」なんてこと、夢物語のように感じていましたが、きっともうすぐ実現します。それを考えると自分で考えていた以上に心があたたかく、わくわくとした気持ちになります。
一緒に過ごした最後の夏に、あなたから『豊穣祭』のしめ飾りの作り方を教わったときのことを、最近になってよく思い出します。あなたは「ユウマが自分で作らなきゃ意味がないから」と、覚えの悪い僕に根気よく教えてくれましたよね。自立することの大切さを、あなたは既に知っていたのでしょう。当時の僕にしたらしめ飾り作りはとても難しいことでしたが、どんなことでも一つずつやっていけばできるようになるのだと、あの時思ったものです。
今も同じです。今僕の目の前には様々な難題が転がっていますが、一つずつ解決していけば、物事は必ず前に進んでいきます。まだまだ悩むことも多いですが、一人で解決できないことは周りの人たちと一緒に考えれば、新しい答えが出るのだということも知りました。今では頼もしい仲間がたくさんいます。僕は一人ではありません。そのことをとても嬉しく、誇らしく思います。
さて、長くなってしまいました。本当は直接会っていろんな話がしたいのですが、チィ姉ちゃんが来られるようになるにはもう少し時間がかかりそうです。でもいずれは、気軽に遊びに来てもらえるような場所になっていくと……いえ、そんな場所にしようと、思います。
また、お便りしたいと思います。では。
ユウマ
■
日差しが頬に当たる感覚で、ユウマは目を覚ました。
いつの間に眠っていたのだろうか。気付けば木影はユウマの座っている位置から移動し、今や彼の身体は日向に晒されていた。真夏の暑さは去ったとは言え、直射日光はまだまだ強い。ユウマは額に滲んだ汗を手の甲で拭い、頬を撫でる風にそっと目を細めた。
「お兄ちゃん、こんなところにいたのね」
声のしたほうに目を向けると、チサトが呆れたような表情で立っていた。大きな道具入れを抱える華奢な手足が、太陽の光を弾いている。
「皆一生懸命準備してるんだから、お兄ちゃんも早く来てよ」
ユウマに対する不満を口にしながらも、チサトの声にはきらきらと華やいだ色が混ざっていた。ユウマは思わず口元をほころばせた。
「楽しそうだな、チサト」
「うん、だって初めてのことだから。皆うきうきしてるのよ」
チサトは明るい笑顔をユウマに向けた。辺りは午後の光に包まれ、眩しく輝いていた。
ユウマは立ち上がり、尻についた草を払った。そして彼女の腕にある道具入れを半ば強引に引き取り、中央広場のほうへ足を向けた。
「行こうか、皆のところへ」
今日は『豊穣祭』が行われる日だ。
『豊穣祭』と言っても、以前のような二部構成の祭ではない。今年から『満の祭』は廃止し、『宵の祭』の拡大版を行うことにしたのだ。
新しい祭を行うにあたり出し物として何をするのか、子どもたちを中心に計画を立てさせた。しかし最初はあまり意見が出ず、話が停滞しかけた。困ったユウマが『追放者』に相談したところ、彼が子どもたちに知恵を貸す役を買って出てくれた。それを境に彼らの計画はどんどん活気づき、授業後に学校に残って準備をする子の姿も見られるようになった。年長の子どもたちが自然と年下の子どもたちを引っ張り、うまく纏めているようだ。
彼らの中心にはいつも『追放者』の男がいた。彼はもはや『追放者』ではない。子どもたちから『おじさん』と呼ばれ慕われている。彼は天性の教育者であり、どんな『教師』もその求心力には敵わなかった。このところは彼を中心にして、大人たちに内緒で着々と出し物の準備が進められていた。
「劇をやるって聞いたけど、どんな劇?」
乾いた道を並んで歩きながら、ユウマは尋ねた。チサトは歌うような声で答えた。
「『不思議の国のアリス』っていう話よ。知ってる?」
「あぁ、懐かしいな」
それは遠い日に、チィ姉ちゃんと二人でおじさんから聞いた物語だ。彼女はその物語をとても気に入っていたのだ。あのころのわくわくした気持ちも手伝って、今日の祭がますます待ち遠しくなる。
「子どもたちが一生懸命準備してるから、大人たちは皆楽しみにしてるんだよ。チサトは何の役をやるの?」
がさがさと小路を踏む二人の足音が数瞬続いた。
反応のないチサトに目をやると、彼女は顔を正面に向けたまま視線だけを下に落とし、何かを思案するように口を閉ざしていた。
「チサト? どうしたの?」
しかしすぐに顔を上げ、チサトは小さく首を振った。
「ううん。ねぇお兄ちゃん、あのね」
「うん」
「私がやる役はね……」
チサトが内緒話をするような仕草をしたので、ユウマは少し身を屈めて彼女のほうに顔を傾けた。チサトも少し背伸びをして、ユウマの耳元に口を近づけ――。
次の瞬間、ユウマの頬にやわらかいものが触れた。
驚いてチサトを見ると、ふいに彼女の真剣なまなざしと視線がぶつかった。
それは熱を持ったように揺れ、逸らすことなくユウマの瞳に注がれていた。先ほど彼の頬に触れたと思われる花のような唇には、ほんのかすかな笑みが浮かんでいる。
これは――誰だろう?
ユウマは思わず、息を飲んだ。世界の全てが時を止めているかのように思えた。
しかしそれはごくわずかの間で、一度まばたきをして目を開けると既にいつもの見慣れたチサトの顔に戻り、世の中は再び正常に時を刻み始めていた。
やおらチサトは上目づかいでユウマを見上げ、くしゃりと笑顔を作った。
「教えない!」
言うなり彼女は踵を返し、駆け出した。
「お兄ちゃん! 早く!」
少し走ったところで振り返った彼女の顔は、遠目でもわかるほど真っ赤だった。ユウマに向かって右手を振ってから、まるで逃げるように走り出す。彼女の細い手首には、あの木の腕環が揺れていた。
「あ、うん」
どうにか間の抜けた声で返事をしたものの、ユウマはその場に取り残され、中央広場に向かって駆けていくチサトの背中を呆然と見送ることしかできなかった。
先ほどチサトの唇が触れたところが、ゆるく熱を帯びていた。あの子はいつの間に、あんな表情をするようになったのだろう。今さらになって顔が熱くなってくる。
呼吸を落ちつけるように、小さく息を吐いた。
中央広場からは子どもたちの明るい声が聴こえている。
村に降り注ぐ太陽は明るく、木々の緑を鮮やかに映し出す。
髪を撫でるような風が、瑞々しい豊かな土の匂いを運んでくる。
この村はこんなに美しかっただろうか。世界はこんなに――輝いていただろうか。
身の内から強くあたたかな力が湧き出してきて、ふいに目頭が熱くなる。
かつて憧れていた光の中に、僕は今立っているんだ――。
今日これから起こることが、楽しみだということ。
今日これから起こることの中に、大切な人の笑顔があるということ。
知らなかった、それがこんなにも胸の奥をあたたかくさせるなんて。
知らなかった、あたたかい気持ちで涙がこみ上げそうになるなんて。
まだまだ知らないことだらけだ。そのことがまた、明日へ進もうという原動力をくれる。
――きっと明日も明後日も、その次も。
足元から伸びる道はやさしい光に包まれて、明るい未来へと続いているのだ。
ユウマは顔を上げ、再び足を踏み出した。
ー全の章・了ー