第2話:一の章「目覚め、エレベーター、治安警備局」
彼女は暗闇の中にいた。
あまりに完璧な暗闇なので、目を開けているのか閉じているのかすら判別できないほどだ。
試しに目玉を動かしてみるが、眼球にわずかな筋肉の収縮を感じただけだ。恐る恐る前に手を伸ばしてみるが、虚しく空をきる。唯一感触のある足の裏は、ひやりとした土の地面を捉えている。耳をつんざくような静寂に脳幹が痺れる。彼女自身の鼓動すら、息をひそめているようだ。
ここはどこなのだろう?
知っているような気もするし、知らないような気もする。
不思議なことに、ここからどこかへ移動しようという気持ちにはならない。
少なくとも、この場所は全てのことにおいて完結している。どんな色も、形も、音も、匂いも、全て闇の中に融けて存在しているのだ。
様々な概念がこの闇から生まれ、また還ってくる。全てのものが彼女を取り囲み、通過し、そして彼女に収束する。
私は闇に護られている。強くそう感じる。
そうして彼女は、その場所から一歩も動くことができないでいた。
聞き覚えのある音が流れている。
混濁する意識の中をふらふらと漂うようにその音は抑揚をつむいでいき、次第に意味のある音階を形作る。彼女は無意識のうちにその音源を手繰り寄せ、指先で沈黙させる。再び訪れた静寂に、彼女の思考はまた輪郭を失う。
しかしそれも束の間、同じメロディが鼓膜を震わせると、彼女ははっと目を開ける。手の中にある携帯端末の画面に目をやれば、『Calling:佐伯』と表示が出ている。嫌な予感がしつつも、彼女は画面をタップする。
「……おはよ」
『……一ノ瀬、もうすぐ昼だ。一体何時まで寝てるんだ。さっきから何回も電話したぞ』
明らかな寝ぼけ声で応答した彼女に、同僚の佐伯が呆れた声で言う。横になったまま頭だけを動かして掛時計を見ると、デジタル表示が午前十一時十八分を示している。まだ朝じゃないか。
「……今日は私、非番のはず」
『そのとおりだ。でも残念ながら、ゆっくり休んでいる暇はなくなったよ』
やっぱり。一ノ瀬はようやく身を起こし、息をつく。ここのところ出勤続きで久々の非番だったというのに、まったく運がない。
「何かあったの?」
『詳しい話は本部でする。一ノ瀬がなかなか応答しないから、局長が怒ってるんだ。とにかく早く来てくれ』
佐伯はそれだけ言うと、一ノ瀬の返事も聞かずに電話を切った。
これでは反論も拒否もできない。そのために電話をかけ直したところで、意味がないことくらい嫌というほどわかっている。
彼女は大きく溜め息をつき、諦めて身支度を始める。
まずは汗でぐしょぐしょになったTシャツを脱ぎ去り、小さなユニットバスでシャワーを浴びる。汗を洗い流すだけでも、随分と頭がはっきりする。背中にかかる長い髪をすばやくドライヤーで乾かし、洗面所に吊るしっ放しになっていた下着を着ける。そのままの恰好で薄いメイクをし、髪を一つにまとめる。白のシャツブラウスを着、紺色のネクタイを締め、同色のタイトスカートを穿く。仕上げに緑色のラインの入った腕章を左腕に巻き、華奢な腕時計を左手首につける。
身支度が完成する頃には、すっかり目が覚めている。
一ノ瀬は最後に洗面所の鏡を覗き込み、小指で口紅のはみ出した部分をさっとぬぐうと、寝室兼居間に置かれたハンガーラックから小ぶりのショルダーバッグを引っ掴み、マンションを出る。
一ノ瀬の勤務先である治安警備局は、ここ第三十八自治区における自警組織である。
極端な少子化による人口の自然減に歯止めが効かなくなり、国家が財政破綻したのは三十五年前のことだ。今や日本の総人口は五千万を割り込み、そのうち高齢者の占める割合は実に五十五パーセント以上となっていた。国が国家としての自治を放棄して以降、人々の暮らしは細々とした地方自治に委ねられている。
第三十八自治区は、全部で百三十五ある自治区の中でも比較的規模の小さい地方公共団体である。旧岐阜県東濃地方にあたる四方を山で囲まれた盆地であり、今年の夏も最高気温を更新した。若者の多くは高校を卒業すると都市部に出ていってしまうため、この自治区の人口のおよそ八割は六十五歳以上の高齢者で構成される。住宅街や駅の周辺は昼間でも閑散としており、空き家も多い。またひとたび車を走らせればすぐに人気のない山間部に分け入ってしまうような街である。
治安警備局本部は、街の中心部にある自治区庁舎の中に入っている。旧時代の市役所をそのまま利用した建物だ。一ノ瀬の住んでいるマンションからは、車で約十五分ほどである。
佐伯から「とにかく早く」と言われて急いで身支度したものの、運転している最中にだんだん馬鹿らしくなり、彼女は敢えて必要以上に安全運転で愛車のミニワゴンを走らせる。考えてみたら、起きてからまだ何も口にしていないのだ。昼食ぐらい佐伯におごってもらおう、と彼女は思う。
自治区庁舎に到着すると、一ノ瀬は入り口の脇に設置された認証カメラに右目を合わせる。カメラは瞬時に彼女の網膜コードを読み取り、扉が開く。
網膜認証カメラが普及してから、世の中から警備員が消えた。今や多くの公共施設や企業でこの認証システムが採用されている。自治区の住民は皆網膜コードに個人情報を登録し、身分証明の代わりとしているのである。
一ノ瀬はエレベーターホールに立ち、鏡面になっている扉に映った自分と視線を合わせる。自分以外の人間の存在を疑いたくなるほど、建物内はひっそりとしている。この施設に勤務するスタッフも少なければ、利用者も少ないのだ。
チン、と前時代的な音がして、エレベーターの扉が開く。彼女は足音を立てずに乗り込むと、三階のボタンを押す。再び扉は閉じられ、彼女を乗せた箱はゴウンゴウンと音を立てながらごくゆっくりと上昇していく。
エレベーターは苦手だ。この密閉された空気に、息が詰まりそうになる。
彼女は目を閉じる。目蓋の裏に三階のボタンが点灯した操作パネルの残像が映っている。完璧な闇というものは、この世にはあまり存在しないのだ。
「重役だな」
三階の治安警備局本部詰所に足を踏み入れるなり、背の高い青年が一ノ瀬を出迎える。
年の頃は二十代後半、一ノ瀬よりは二歳ほど年上だ。この街では貴重な『若者』。彼こそが、先ほど彼女に電話を掛けてきた佐伯その人である。佐伯は呆れたように目を細めながら、器用に口の片端だけで笑みを作っている。
「別にそんなに遅くないでしょ。佐伯から電話があってから一時間以内に着いてるんだから、がんばったほうだよ」
一ノ瀬はちらと腕時計を見やる。十二時五分。彼に嫌味を言われるほどのことでもない。
「で、一体何があったの?」
「説明は太田局長から聞いてくれ。……一ノ瀬がなかなか来ないから、局長のやつ俺に文句言うんだよ。少しは俺の身にもなってくれ」
佐伯はやや身を屈めるようにして、後半部分は小声で言う。彼ごしに部屋の奥を見やると、デスクに座った局長と目が合う。一ノ瀬は軽く肩をすくめ、局長の前へ進み出る。
「おはようございます、太田局長。遅くなって申し訳ありませんでした」
一ノ瀬が頭を下げると、局長は両手を顔の前で大袈裟に振る。
「いやいや、非番のところ呼び出して悪かったね。どうしても一ノ瀬さんにしか頼めないことがあってね。いや、来てくれてほんと助かったよ」
局長はたっぷりと脂肪のついた腹を無意識にさすりながら、脂ぎった笑顔で言う。
どこが怒ってるって? 一ノ瀬が隣に立つ佐伯を横目で見ると、彼は釈然としない表情で視線を逸らす。
一ノ瀬は局長の表情にも佐伯の表情にも取り合わず、正面に向き直って淡々と聞き返す。
「私にしか頼めないこと、ですか」
何となく面倒を押しつけられそうな雰囲気だ。
「あぁ、実は区立病院から連絡が入ってね。ある少女の身柄をこちらで引き取って欲しいそうだ」
「はぁ」
「昨日自治区の北端の山中で保護された子なんだがね。軽い怪我をしてたんで病院に運んだはいいが、特に目立った外傷がある訳でもなし、これ以上入院させておけないらしくてね。ほら、ここんところ年寄りばっかだから病院も人手やベッドが足りてないんだよ。とにかく早く引き取ってくれの一点張り」
「えぇ、それはよくわかりますが」
一ノ瀬も、昨日少女が保護されたという話は聞いていた。治安警備局の北方区域担当者から本部に連絡が入っていたのだ。
しかし、なぜそれが私にしか頼めないことなのだ?
「その子、身よりもわからないし、十二、三歳だっていうからね。ちょうど難しい年頃の女の子だし、ここは女性局員が対応した方がいいと思ってね。つまんないことでクレーム言ってくる人いるでしょ。そういうのは極力避けたいからね」
一ノ瀬の心の内を読んだかのように、太田局長は説明する。
確かにこの治安警備局本部に勤務している女性は、現在は一ノ瀬だけだ。二年前までベテランの女性局員がいたのだが、老親の介護のため辞めてしまった。
「そういう訳で急で悪いけど、今から佐伯くんと二人で病院に迎えに行ってくれるかな」
一ノ瀬は思わず隣の佐伯を見上げる。
今この詰所には、彼ら二人と局長を除けば中年の男性局員が四人いるだけだ。フットワークが重いばかりでなく、愛想もない連中である。必然とはいえ、佐伯も面倒を押しつけられたクチなのだろう。彼の顔には面倒を通り越して諦観の念が浮かんでいる。
佐伯は肩をすくめながら、口の片端だけを上げてため息とともに吐き出す。
「そういう訳で、よろしく」
一ノ瀬は苦笑いでそれに応えた。