第28話:一の章「故郷、トンネル、あたたかいもの」
ユウマと話ができて良かった。
かつて自分の後をついて回っていた幼い男の子は、知らないうちに大人になっていた。この十三年間、恐らく一ノ瀬が知り得ない辛さがあっただろうと思う。しかしそれでも、ユウマがちゃんと大切なものを見つけて、それを見失わずにいられて良かった。少し、寂しい気もするけど。
小屋ではまだ、佐伯と彼の養父が何やら話し込んでいる。
ユウマと知里の仲を邪魔する訳にもいかないなと思っていると、ふと『追放者』の男と目が合う。
「見事な大立ち回りだったね。怪我は大丈夫かい?」
『追放者』に問われ、一ノ瀬はこめかみに触れる。知里に手当てしてもらったガーゼがしっかりと傷口を守っている。彼女は口元に笑みを作る。
「えぇ、おかげさまで。悪者は私一人で充分だよ」
『追放者』は彼女を見つめる瞳を翳らせる。
「時々、後悔していたんだ。君に『外』のことを教えたことを」
「なぜ?」
「私がいろいろ教えたことで、君を不幸にしてしまったんじゃないかと思ってね。君は真実を知りたがったけど、真実がいつも幸福を呼ぶとは限らない。知らないほうが幸せということもある。結局何が正しかったのか――そればかりを考えた時期もあった。セイジから君が『外』で幸せに暮らしていると聞いたときには、心からほっとしたよ」
「私は何も後悔していないわ、おじさん」
一ノ瀬の視線に迷いはない。昔から自分はこうだったと、はっきり自覚がある。
「それにしても、おじさんが元『教師』だったなんて、何だかあんまりピンとこないな」
「そうかい?」
「そうだよ」
一ノ瀬の記憶の中で、『教師』たちは皆どこか病的にまっすぐで、盲信的な雰囲気だった。今思えば、この『村』はまるごと新興宗教のコミューンと言ってもいいのかもしれない。
『追放者』は目を細める。
「『外』の生活はどうだい?」
「うん、そうだな……悪くもないけど、すごく良くもないって感じ。本当にお年寄りばっかりだし、一人ぼっちで死んでいく人も多いの。私は今一人暮らしで気楽は気楽なんだけど、時々孤独を感じることもある。この『村』だったら確かに、一人きりになることは物理的にはありえないよね」
果たしてどちらが幸せなのだろう。自由だが、下手すると一人きりになってしまう社会と。閉鎖的で規制だらけだが、決して一人きりにはならない社会と。きっと社会体制は関係ない、と思う。『一人きり』と『一人ぼっち』では全く意味が違うのだ。
「仕事はまぁ、たまに理不尽なこともあるけど、やりがいはあるかな。私には向いてると思う」
明るく笑いながら、じくりと胸が苦しくなる。
職場には今まで佐伯がいた。でも佐伯はセイジ兄ちゃんだった。自分の居場所だった治安警備局本部が、ひどく遠く思える。あのまま何も知らずにいたほうが良かったのだろうか。柄にもなく、そんな疑問が胸を過る。
「君は本当に変わってないね。幸せそうで、何よりだ」
「おじさんも。元気そうで良かった」
目の前で微笑む『追放者』に、一ノ瀬は胸の痛みを掻き消す。そうだ、大切な人たちとの再会をちゃんと喜ぶべきなのだ。ようやく見つけた『故郷』のために、やれるだけのことを自分はするべきなのだ。
会話が途切れたのを契機にふと腕時計を見やれば、時刻は既に午前二時を回っている。
明日も休むなら、どうやって職場に連絡しよう。そんなことを考える。それにしたって、いつまで休みを取ればいいのだろうか。
ふいに、肩を叩かれる。
佐伯だった。
「話、終わった? 明日からまた仕事だろ。あんまり遅くなってもいけないし……」
彼の言葉に、一ノ瀬は声をはっと尖らせる。
「いや、帰らないよ。私が祭を撹乱した実行犯な訳だし、いろんな事実を釈明するのに私がいなきゃまずいでしょ? 仕事なら休むからいいよ」
佐伯はガーゼのあてられた彼女のこめかみに視線を向ける。
「……君が皆の前に出るのは、危険だと思う」
「でも」
「君はユウマを守った。チサトのことも守った。君の行動はきっと、『村』が立ち直るきっかけになると思う。もうそれで充分だ」
一ノ瀬は口をつぐむ。何も言えなかった。
もちろん、一度出てしまった『村』に戻ろうという気持ちは毛頭ない。むしろその立場を利用して、ユウマが犯そうとしていた罪を引き受けたのだ。
しかしそれでも、この『村』に対する説明しがたい気持ちが一ノ瀬を意固地にさせていた。先ほど祭に乱入した際の、彼女に向けられた無数の敵意と怯えた視線を思い出す。自分に向かって投げられた石を思い出す。あの人たちと一緒に、かつては自分も暮らしていたのだ。
黙り込む一ノ瀬をよそに、佐伯は続ける。
「もうこれ以上、『村』のことで君を傷付けたくないんだ。『外』で今までどおりの生活を続けてほしい。君には仕事もあるし、家族もいる」
――『家族』。それについて反論しようとして、やめる。
それは私が『外』に居ていい理由に足るのだろうか。
その問いは疑念でもあり、恐らく希望でもある。これまでそのことについて面と向き合うのを避けていた。そして今この時点においても――その勇気は、まだない。
佐伯はなおも黙り続ける一ノ瀬の頭に、そっと手をのせる。まるで硝子細工にでも触れるかのような、やさしい手つきだ。
「……俺にとっては、君が『外』で幸せに暮らしていることが支えなんだ」
思わず顔を上げ、佐伯を見据える。その拍子に、彼は一ノ瀬の髪に触れた手を引っ込める。
なによ、それ。あなたにとって、私は一体なんなの。
――訊けない。
そう言えば佐伯が姿を消す直前のあの夜にも、髪を触られた。思い出して苦しくなる。この人は『私』を守るために、あの場所にいたのだ。
佐伯が一ノ瀬を見るまなざしが、ゆらりと揺れる。それを見たら、ますます何も言えなくなってしまう。
ふと、背中から声を掛けられる。
「チィ姉ちゃん、安心してよ。この『村』のことは、必ず僕たちが何とかするから」
振り返ると、ユウマが立っていた。先ほどとは打って変わって彼の表情は晴れやかで、瞳には新たな決意が宿っている。きっとそれがユウマの本来の姿なのだろう。
彼の力強い視線としばらく向き合ってから、一ノ瀬は小さく息をつく。
「……わかった。『村』のことは任せたわ。いろいろと、ごめんなさい」
未確定要素の多い心中には、ユウマの言葉に甘えることでそれなりの結論を出すことにする。なぜなら一ノ瀬としては、ユウマにそう言われてなお『村』に居続ける理由などないからだ。
彼女は左手首に嵌めた腕環を外し、ユウマに渡す。
「これはお守り。大事に持っててね」
「チィ姉ちゃん……」
一ノ瀬は精いっぱいいつもの笑顔を作る。それがたぶん、今の自分にできる唯一のことだ。そしてやけにさっぱりとした声を出す。
「じゃあ、帰るわ」
佐伯が一ノ瀬の肩に触れる。
「……『外』まで送ってくよ」
一ノ瀬は佐伯の顔を見ずに、頷く。
『故郷』の人々に別れを告げて小屋を後にし、彼と二人で森の中に踏み出す。
夜の森の暗さにはだいぶ慣れて来たものの、木々の間を分け入るにはやはり照明が必要である。持参してきた懐中電灯は昨晩男たちに捕まった時に落としてしまったので、彼の持つランプの灯りが頼りだ。
『村』に入るときにあった森の不気味さは、ほとんど感じなくなっていた。それ以上に、半歩前を歩く彼の表情が気になる。
何か、何か喋らなきゃ。
これからどうするつもりなの?
あなたは『外』には自由に出られるの?
――また会えるの?
訊きたいことはたくさんある。でもどの答えも、聞くのが怖い。
風の音すら聴こえない、驚くほど静かな夜だ。
唯一聴こえる足音に耳を澄ませていたら、足元のくぼみに右足を取られてよろめき、思わず彼の腕を掴んだ。
「大丈夫?」
「……うん」
少しだけ振り返った彼が、ふっと口の片端だけで笑みを作る。そのあまりにも見慣れた笑顔に、喉の奥が詰まる。
「案外、そそっかしいところあるよな」
彼はそう言うと、彼女の右手を取って再び歩き出す。彼の手は大きくて、とてもあたたかい。でもなぜか握り返すことはできなくて、彼女は手を引かれるままに歩みを進める。
言葉にできない感情が、胸の中を渦巻いている。
しかしそれは一体、『誰の』、『誰に』対する気持ちなのだろう?
程なくして『出口』に到着する。
そこは相変わらず、ぱっと見は何の変哲もない茂みだ。彼はおもむろにしゃがみ込み、慣れた手つきで蓋を開ける。ぱこんと音を立てて、縦穴が姿を現す。
「俺が先に行くから」
彼はランプを右手に持ったまま、器用に梯子を降りていく。彼女もそれに続く。
梯子を降り切ったところで正面に向き直ると、彼と目が合う。彼は少しだけ微笑んでから、先を急ぐ。ふいに自分に向けられた眼差しに、息が止まりそうになる。
地下通路に響く二人分の足音に、彼女は心音を隠す。自分でもよくわからない感情の揺れ動く音を、隠す。身体の内側と外側、呼応し合う二つの音が、今自分たちがいる場所の現実感を奪っていく。
このトンネルが、どこにも繋がっていなければいいのに。
しかしその気持ちには、それこそ出口がなかった。
再び辿り着いた『外』へと続く梯子を、彼の後について一段、二段と昇っていく。ぱこん。夢の終わる音が耳に届く。あぁ、そうか。アリスは私だったんだ。
現実の世界の入り口で彼に引き上げられ、そのまま手を繋いで森を歩く。まる一日ぶりの『外』は、なんだかとても無機質な匂いがする。
立ち並ぶ木々の影はランプの灯りに照らされて、放射線状に伸び縮みしながらその角度を変えていく。重なるように天を覆う葉に阻まれて、月の姿は見えない。
この世界で、確かなものなど何もない。ただ、彼と繋がっている右手の熱だけが、ある一つの真実を伝えている。それをどのように意味づけするかは、自分たちに委ねられているのだ。
別れの時は、近い。
やがて森が切れ、一般道が現れる。そこから少し離れた場所に、彼女のミニワゴンが停まっている。
彼の歩くスピードが、心なしかゆっくりになった。しかし車までの距離は無情なほど短く、あっという間に辿り着いてしまう。
振り返った彼の瞳は、哀しいほど静かだった。音もなく、手が離される。
「……それじゃあ、元気で」
彼のその一言で、わかってしまった。
『村』に戻った覚悟。養父に自分の想いをぶつけた覚悟。これから『村』の一員として、政府の一員として、水面下で働いていく覚悟。これからも『外』で暮らし続ける彼女とは、全く別の世界で生きていくことになるのだ。
その覚悟を、もはや『村』に関係しない私が阻んではいけない。
彼女は静かに口を開く。
「ねぇ、最後に一つだけ教えて」
「……あぁ」
「今のあなたから見て、私はどう映る? 『チィ』? それとも『一ノ瀬』?」
彼は表情を固めたまま、しばらく彼女を見つめる。
最初の瞬きで視線が下に落ち、わずかに寄せた眉根に何かの感情の切れ端が過る。
二回目の瞬きは聞き逃しそうなほどの小さな溜め息と同時にこぼれる。
三回目の瞬きの後、その眼差しは再び彼女に向けられる。
それでもなお躊躇うように開かれた彼の唇から、無表情に言葉が発せられる。
「……『チィ』はいつまで経っても『チィ』だよ。ずっと変わらない」
がしゃん、と鍵を掛ける音が聞こえた気がする。彼女は無意識に、自分の左手首に触れる。そこに嵌まっていた腕環は、ユウマにあげてしまった。彼女は笑顔を作る。
「そっか。いろいろありがとう、ね。セイジ兄ちゃんも、元気で」
「……あぁ」
彼女は小さく「じゃあ」と言って、運転席に乗り込む。ドアを閉める音が、真夜中の闇を震わす。ヘッドライトの影に立つ彼の表情は暗闇に融けている。
彼に向かって軽く手を挙げてもう一度微笑んで見せ、彼女はアクセルを踏み込む。
『故郷』が、遠ざかっていく。
人気のない道に腰を据える暗闇を、鋭く切り裂いて進む。彼女の目には今、光と闇しか見えない。その中間にあるべきものは、全てトンネルの中に置いてきてしまった。
■
車を走らせること約十数分、見慣れた自宅マンションに到着する。距離にしてみれば驚くほど近い。行こうと思えばいつでも行けるだろう。『村』の入り口には、鍵など掛かっていないのだから。
しかしあの『村』には、もはや彼女の居場所はない。別の言い方をすれば、彼女は『故郷』に関わるいっさいのことと決裂してしまったのだ。
これまでずっと、彼女の心の一部を暗闇が覆っていた。欲しいものがそこに隠れているのだと思っていた。しかしこれからは、もう暗闇を求めることはないだろう。光の中で生き続けるのだ、足元を縫い止める影も知らずに。
それは少し――怖かった。
今、『一人ぼっち』なんだなぁ……
覚悟を、自分もすべきだということはわかっている。
マンションの共同玄関をくぐり、郵便受けを見やる。
ふと、自分の部屋番号の宅配ボックスに何かが入っていることに気づく。彼女は小さい鍵を使って蓋を開け、それを取り出す。
それは一抱えほどの小包だった。大きさの割にずしりと重い。玄関は薄暗く、送り状の文字は擦れて読みづらいが、養父母からのようだ。何だろうと思いつつ、自室まで運ぶ。
辿り着いた部屋は、相変わらず乱れた状態だった。一昨日の夜に知里と二人で食べた夕飯の片づけが中途半端になっている。一人きりの部屋。一人ぼっちの部屋。明日からまた、この部屋から出かけてこの部屋に帰ってくる生活が続いていくのだ。
表面上は何も変わっていない。でも何もかもが決定的に、変わってしまった。また一つ、溜め息を落とす。
彼女は暗い気持ちを振り払って、道具入れからカッターナイフを持ってくる。そして床に置いた小包のガムテープを注意深く切り裂き、蓋を開ける。
そこにあったものに、彼女ははっとする。
段ボールの中には、茄子とトマトとピーマンが詰まっていた。
それらの野菜は養家の畑で栽培しているものだ。どれもつやが良く、どこかいびつなかたちをしていて、愛嬌がある。養父母の笑顔がふとそれに重なる。
その野菜たちの上にちょこんと、簡単なメモが添えられている。
『千幸ちゃんへ
お元気ですか? まだまだ暑い日が続いていますが、体調は崩してない?
少し時期が遅くなってしまったけど、畑で野菜がとれたので送ります。これを食べて体力つけて、お仕事がんばってね。
父、母より』
何ということはない短い手紙だ。二日前に養母から来たメッセージも、ほとんど同じ内容だった。しかし今度は、なぜか彼女の心の中にじわりじわりと沁み込んでくる。
今年は、何のかんのと理由をつけて盆にも帰らなかった。あのメッセージだって、結局返信せずじまいだった。この少し時期の遅い野菜を、養父母がどんな気持ちで送ってきたのか。どうして今まで、気づこうともしなかったのか――。『父、母より』、その文字がふやけて揺らぐ。
ぱたり、と一粒の雫が、手紙の上に落ちる。
それを合図にしたように、次々と涙が溢れては流れ落ちていく。突然のことに自分で驚いたものの、一旦流れ出したそれは止めようとする間もなく後から後から湧き出てくる。溢れ出した感情はコントロールが効かず、ついには嗚咽となる。
哀しい。
苦しい。
――嬉しい。
その気持ちに、どのような名前を付ければ良いのかわからない。今までずっと溜めこんでいた様々な想いが混ざり合い、融け合い、滲み出ていた。
お仕事がんばってね。父、母より――。
今ここに、自分がいる理由。ここまで確かに続いてきた道のり。
欲しかったもの、失ったもの、知らずに手にしていたもの。
そうだ、私の名前は『一ノ瀬 千幸』――明日からまた、歩いていかなくてはならない。
なぜこんなにも泣けてくるのか、わからなかった。
ただ、心の奥底から溢れ出すあたたかな感情に任せて、流れるままに涙を流し続けた。声を上げ続けた。
ごめんなさい。
――そして、ありがとう。