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第27話:全の章「影との別れ」


 ユウマは寝台の端に腰かけ、じっとセイジ兄ちゃんの話を聞いていた。

 ニホンセイフ云々については元よりユウマにとっていまいちピンとこないことだった。だがセイジ兄ちゃんが指摘したこの村の問題点は、恐らく村を外側から眺めないとわからないことだろうと思った。きっと彼は、村を変えるのに何が必要なのかずっと前から気づいていたのだろう。そうでありながら自由に動けない立場が、彼を葛藤の淵に追い込んでいたのかもしれない。いや本当は、ユウマはそれにうすうす勘づいていたのだが、見えないふりをしていただけだ。自分が一番辛くて苦しいのだと、きっと思いたかったのだ。

 しかし何よりユウマが一番驚いたのは、セイジ兄ちゃんが今回、『約束』に関する何もかもを諦めるつもりで村へ戻ってきたということだった。

 ユウマが全てを棄てるつもりで『みつの祭』の爆破計画を立てた一方で、セイジ兄ちゃんはある意味真逆の覚悟をしていたのだ。

 僕たちは、いや僕は、一体どこから狂ってしまったのだろう。

 彼が一年かけて準備した計画はチィ姉ちゃんに乗っ取られたものの、少なくとも「祭を壊す」という当初の目的は達成された。

 しかしながら彼の予定では、自分は今頃この世にはいなかったはずなのだ。この社会の不条理に一太刀浴びせ、爆発と共に散る。そのはずだった。だが舞台から退場するための梯子は、呆気なく外されてしまった。

 『豊穣祭』が始まる前までは、ユウマの心には怒りや憎悪といった激しい感情が渦巻いていた。しかし今彼の中に鎮座しているのは不気味なほどの凪だった。決して落ち着いている訳ではない。自分でも抑えられなかった嵐が全ての感情を破壊し尽くし、その残骸があとに残されたのである。

 結局のところ、自分は何がしたかったのだろうか。

 彼をあれほどまでに強く突き動かした衝動は、何だったのだろうか。

 チィ姉ちゃんの顔もチサトの顔もまともに見られずに、ただ自分の足元に落ちる影を見つめていた。

 これから先どうしたら良いのか、さっぱりわからなかった。

 サエキという男は、村人たちが幸せに暮らせるよう力を尽くすと言った。しかし具体的に、それがどのように実現するのか何の像も描けなかった。何を今さらという気持ちも当然あり、『協会』から平穏を享受する気になれないのもまた事実だった。

 そもそも、自分に幸せな暮らしを送る資格はあるのだろうか。

 小屋の中には、セイジ兄ちゃんとサエキがぼそぼそと話し続ける声だけが響いていた。彼らの会話は意味のない音の集積としてユウマの中に降り積もっていき、荒廃した心の表面を薄く覆った。

「ね、ユウマ」

 突然頭上から声を掛けられた。

 顔を上げると、チィ姉ちゃんが目の前に立っていた。俯きがちな彼女の目は、それでもユウマをまっすぐに見つめていた。

「少し二人で話しない?」

 断る理由は、ユウマにはなかった。彼は頷き、寝台から立ち上がった。



「懐かしいね、この道」

 ゆっくりとした足取りで先を行くチィ姉ちゃんの背中を、ユウマが持つランプの灯りがほんのりと浮かび上がらせていた。

「学校の帰り、よく二人で来たよね」

 振り返らずに発せられた彼女の言葉は、独り言のように闇に吸い込まれた。

 風はなく、木々は眠りに就いていた。静かに天を滑る満月が、世界の見る夢を見守っているようだった。

 どこまで行くんだろう。既に『追放者』の小屋から、森の半ばほどまで歩いてきていた。しかしユウマは先ほどのチィ姉ちゃんの呼び掛けにすら返答できず、口を閉ざしたままでいた。何か言葉を返していればあるいは、彼女は足を止めたかもしれないのに。

 ふいに突風が吹いた。森全体が寝返りを打つように、ざわりと音を立てた。

 彼女も長い髪をふわりとたなびかせ、ゆっくりと振り返った。それに合わせて、ユウマは立ち止まった。

 しばらくの間、チィ姉ちゃんは何も言わなかった。ランプの灯りで辛うじて表情が確認できる。炎の作る陰が、彼女の細い手足を更に華奢に見せていた。手が届きそうでありながら無限にも思える距離が、二人の間に横たわっていた。

 やがて彼女は躊躇うように視線を動かした後、ようやく口を開いた。

「あの、ユウマ――ごめんなさい!」

 しかしきっぱりとした声でそう言った彼女は、言うなりユウマに向かって頭を下げた。

 あまりに突然のことに、ユウマはしばらく彼女の垂れた髪を呆然と眺めていた。

 一体、何を謝っているんだろう。

 計画を台無しにしたことだろうか、それとも殴ったことだろうか。前者よりは、後者のような気がした。

「……別にいいよ。殴られて、少し目が覚めたし」

 チィ姉ちゃんは顔を上げ、小さく首を横に振った。

「違う、そのことじゃないの。いや、そのことももちろんそうなんだけど。なんていうか……小さい頃のことから、全部」

 ユウマは首を傾げた。ますます何のことかわからない。彼が怪訝な顔をしていると、チィ姉ちゃんは続けた。

「私がいろいろとユウマを連れ回したせいで、こうなっちゃったんだよね。ユウマは私の言うことを何でも聞いて、黙ってついて来てくれたけど。私のわがままに付き合って、掟を破った挙句、私を逃がすための偽装まで……本当に、ごめんなさい」

 彼女は再び頭を下げた。手許のランプの油が爆ぜる音が、鼓膜を揺らした。

 ユウマは静かな声で言った。

「頭上げてよ、チィ姉ちゃん」

 彼女はゆっくりと顔を上げ、しかし視線は逸らしたまま、右手で左手首の腕環を握った。

「謝らないでよ。もう全部終わったことなんだ」

 ユウマの口から出た言葉は、吐き捨てられたように地面に転がった。しまった、こんな言い方するつもりじゃなかったのに。

 生ぬるい風が音もなく頬を撫でていった。もう何度目かの静寂に、ユウマは少し後悔した。


 先に沈黙を破ったのは、チィ姉ちゃんのほうだった。

「……ね、ユウマ。そっち行っていい?」

「あ、うん……」

 ユウマが思わず拍子抜けしたような声を出すと、彼女はゆっくりと彼に向かって歩を進めた。彼女ががさがさと小路の雑草を踏む足音が、心音のように響いた。やがてユウマのすぐ目の前に辿り着いた彼女は、じっと彼を見上げた。

 見上げた?

「ユウマ、大きくなったね」

 チィ姉ちゃんは右手を伸ばし、ユウマの髪に触れた。その手はユウマの記憶にあるよりもずっと小さかった。

 これは誰だろう?

 狭い肩幅、細い身体、少し背伸びするような爪先。

「自分より大きい男の子に、これはないか」

 彼女はユウマの頭から手を離しながら、小さく苦笑した。

 笑顔は、変わっていない。あの頃と同じ、やさしくやわらかい表情だ。ユウマの中で張り詰めていた糸が、ふっと緩んだ。

「チィ姉ちゃん、僕は――僕は、この先どうしたらいい?」

 気づくと、独りでに言葉が滑り落ちていた。

 チィ姉ちゃんはユウマの顔をじっと見つめ、ゆっくりと瞬きをし、小さく首を傾げ、唇を開いた。

「ユウマはどうしたいの?」

「わからない。僕はとんでもないことをしてしまった。村は一体これからどうなるんだ。僕たちは、村の人たちは――どうなるんだ……」

 それは先ほど、チィ姉ちゃんがサエキに対して発した疑問と同じだった。しかしその問い掛けは、ユウマの中でもっと生々しい感情として渦巻いていた。

 命を捨てるつもりでいた時には怖くなかったことが、これからも生き続けなければならないと知った途端に怖ろしくて堪らなくなった。

 ユウマは確かに村の体制を憎んでいた。しかし『豊穣祭』が破綻した今、それまでは思ってもみなかったことが彼の心を支配していたのだ。

 村には、人々の生活があった。憎むべき体制のもとで運営されていたものとはいえ、少なくとも一つの秩序として安定していたし、その中で人と人とのつながりやささやかな喜びがあった。

 しかしユウマの計画によって、それらは危機に晒されつつあった。爆発し燃え上がるやぐらが脳裏に焼き付いていた。あの櫓だって、村の男たちが皆で作り上げたものだったのだ。

 チィ姉ちゃんは静かな、しかしはっきりとした口調で言った。

「とんでもないことって言ったら、私のほうがそうだと思うけど。でも、そうだね。今回のことを機に、全てのことを明るみに出すべきだと思う。佐伯さんはああは言ってたけど、やっぱり『村』の人たち自身が気付いて立ち上がらなきゃ、自分たちで幸せになろうとしなきゃ、どうにもならないよ。『村』を変えるって言うなら、まずはそこからだわ」

 彼女は正面にユウマの目を見据え、頬に掛かる髪を払った。

「――何が『幸せ』かなんて、この『村』の掟や風習に雁字がらめになってると見えづらいかもね。でもユウマにはもう、わかってるよね? 『村』の人たちが本当の意味で幸せになるのに、何が必要か。どうやったら変えていけるのか」

 彼女の瞳には揺るぎない意志の光が灯っていた。その明るさは、間違うことなくユウマの一番弱い部分をぐっと締め付けた。

 僕とチィ姉ちゃんは違う。彼女は強くて、僕にわからないことを簡単に理解してしまう。僕にできないことを簡単にしてしまう。だから、嫌なのだ――。

「わからないよ、チィ姉ちゃん。僕には全然わからない。僕は弱いから。いつまで経っても、僕は一人じゃ何もできないんだ。僕の力では、何にも変えられっこないよ」

 意図せず、ぽろぽろと弱音がこぼれ出た。見たくなかった、認めたくなかった自分。それが今や彼女の放つ明るさにあてられ、無防備に晒されていた。

 あら、とチィ姉ちゃんが首を傾げた。

「ユウマさ、さっきの爆発の時、迷わず知里ちゃんの手を取って走ったじゃない」

 彼女はそっと目を細め、ユウマの手に触れた。

「知里ちゃんのことは、ユウマが守ってあげなきゃ。それはユウマにしかできないことだよ。今回のことも、知里ちゃんのためだったんでしょう? そのために決死の覚悟をしたのなら、その同じ気持ちでいくらでも生きられる。あなたは一人じゃないのよ。私もセイジ兄ちゃんも、それから知里ちゃんも。皆ユウマの力になりたいと思ってる」

 彼女のやわらかい声に、手のひらに、今度は自分の一番脆い部分をそっと撫でられているような気分になった。

 思わず目の前が滲んだ。ランプの灯が視界を乱反射した。揺れる景色の中で、チィ姉ちゃんが呆れたような表情で言った。

「ほら、泣かないの。しょうがない子ね」

「……泣いてないよ」

 彼女の唇からふふ、と笑みがこぼれるのを見たと思ったら、次の瞬間、彼女の両腕がユウマの首に回されていた。

「ユウマ、ありがとうね。ユウマが助けてくれたおかげで、私は今こうしてここにいられるのよ。本当にありがとう。それを伝えたかったの。これからはあなたの大切な人を、一番大事にしてあげてね。それが答えだよ、ユウマ」

 耳元で囁かれる彼女の声が、彼の心の凝り固まった部分を解きほぐしていった。融けだした感情は、涙となって流れ落ちた。

 ランプを持つのとは反対の手で、彼女の身体を抱いた。細くて、やわらかくて、大人の女の人の匂いがした。

 強くて、やさしい。怖くて、あたたかい。

 いつだって僕の心を滅茶苦茶にかき乱し、嵐のように全てをさらって、最後はふわりと包んでくれる人。

 あぁ、そうだ。僕は強くなりたかったんだ、チィ姉ちゃんみたいに。

 どんな苦境に立たされても自分の大切な人を守り抜けるような、揺るがない強さが欲しかったんだ。

 でも思うように行かなくて、そんな自分が大嫌いだった。認めたくなかった。何か他のもののせいにして、壊したかった。

 本当は、心のどこかでわかっていた。僕は止めてもらいたかったのかもしれない。誰かが正しい道に引き戻してくれることを、奥底では望んでいたのかもしれない。

 ――そう本当は、自分の中に埋もれた『正しさ』を、掬い上げたかったのだ。

 僕は弱いけど、弱いからこそ、僕が僕自身を見失ってしまったら、誰も僕の『正しさ』を信じてやれないんだ。

 あの日からユウマの中に居座り続けた嘘吐きの影にあたたかい光が差し、手が伸べられた気がした。

 鼻先を彼女の髪がかすめていた。その一方で、閉じた目蓋の裏には自分を慕う少女の笑顔が、花びらのように淡く揺れていた。


 身体を離した後、チィ姉ちゃんはユウマの顔を見て吹き出した。

「ほら、やっぱり泣いてるじゃない」

「仕方ないよ」

 ユウマは涙を拭い、ようやく笑顔を作った。目と鼻の先で微笑むチィ姉ちゃんは、やはりとても可愛かった。

「……そう言えば僕、セイジ兄ちゃんにひどいことを言ったんだ」

「なんて?」

「大嫌いだ、って」

 彼女は一瞬目をまるくし、すぐに明るい声であはは、と笑った。

「大丈夫、ちゃんと謝ればきっと許してくれるよ」

 あぁ、どうしてチィ姉ちゃんの「大丈夫」は、こんなにもほっとするのだろうか。本当に大丈夫だと思えてくる。それも、昔から変わらない。

「さぁ、そろそろ戻ろうか。知里ちゃんが待ってるよ」

 そう言って彼女はユウマを追い越し、来た時よりも軽い足取りで小路の雑草を踏んで行った。ユウマも彼女に続いてゆっくりと足を進めながら、彼女の小さな背中にその最後の想いを投げかけた。

 ――チィ姉ちゃん、僕はチィ姉ちゃんのことが、ずっと好きだったんだ。



 小屋に戻ると、チサトは寝台に腰掛け膝の上で組んだ手を見つめていた。ユウマが傍まで行くと、強張った表情でほんの少し顔を上げただけで目を合わそうとはしなかった。ユウマは彼女のすぐ隣に腰を下ろした。

「チサト、ごめんな。不安にさせて本当にごめん」

 チサトは首を横に振った。しかし言葉は発せず、再び視線を自分の膝に落とした。伏せた睫毛の影が白い頬の上でわずかに震えていた。ユウマの心の中を、突風に似た罪悪感がさあっと横切っていった。

 たぶん、いや間違いなく、チサトを一番傷付けてしまったのはこの僕だ。チサトのためと言いながら、僕は結局自分のことしか考えていなかったんだ。

 謝っても許されることではないだろう。どんな恨みごとも正面から受け止めるつもりだった。

 しばらくの沈黙の後、チサトはぽつりと口を開いた。

「お兄ちゃん、ごめんなさい。私のせいで迷惑を掛けて、ごめんなさい」

 ユウマは驚いた。先ほどチィ姉ちゃんに謝られた時にも驚いたが、今回は別の意味での衝撃だった。

 恐らくチサトは、一年前の『豊穣祭』でのことを言っているのだ。ユウマを探して掟を破り、『満の祭』に足を踏み入れてしまったことを。

 それこそ、ユウマがチサトに謝らなければいけないことだった。胸の奥がぐっと詰まった。

 恐らくチサトはこの一年、ずっと暗い後悔の感情を抱えていたのだろう。ユウマが計画を進めていくほどに、そのきっかけを作ってしまった自分を責め続けたのだろう。

 ユウマはチサトの頭にそっと手を置いて言った。

「チサト、僕はこの先ずっと、チサトの傍にいるよ。何があっても、チサトを守る」

 彼女ようやく視線を上げ、ユウマの顔を見た。久しぶりに覗いた大きな瞳には、穏やかな、しかしかたい決意を秘めた表情の彼自身が映り込んでいた。それは徐々に揺らいでいき――右目からこぼれた一粒の涙が、彼女の頬を滑り落ちていった。

 ユウマはチサトの頭を抱き寄せた。切り揃えられた艶やかな髪の毛の先が、小さく震えていた。彼女の小さな手がユウマの袖をきゅっと縋るように掴み、彼の心ごと締め付けた。嗚咽の混ざった彼女の呼吸が、ユウマに酸素を与えた。彼はゆっくりと深呼吸をしながら、何度も何度もチサトの髪を撫でた。



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