第26話:一の章「父親、問題提起、息子」
「聖司、一体何が起こっているんだ」
スーツ姿の中年男性の声が、やけに低く『追放者』の小屋の中に響く。一ノ瀬に背中を向けているため、彼の表情は見えない。テーブルを挟んで彼の正面に座った佐伯は、ぴんと背筋を張って口を引き結んでいる。
油の少なくなったランプの灯りが、小屋全体をぼんやりと揺らしている。一ノ瀬はベッドに座って知里から傷の手当てを受けながら、二人の話に耳を傾ける。
「一つずつ説明してもらおうか。まず、彼女は――治安警備局の制服だな」
男性が、一ノ瀬の方を少しだけ振り返る。
彼の態度を慇懃に感じて一瞬むっとしかける一ノ瀬を、佐伯が視線で押し留める。そして迷いのない口調で話し始める。
「彼女は一ノ瀬 千幸さん。僕の治安警備局の同僚ですが、『村』の出身者であり――この擬似社会の被害者です」
「『村』の出身者だと? ……被害者、とは?」
「彼女はかつて僕たちと一緒にこの『村』で暮らしていました。そして十三年前、掟を破ったとして七日間もの間『懲罰房』に閉じ込められ、命を落としかけました。ご存じの通り、『懲罰房』に入れられている間は一日一度水の差し入れがあるだけです。僕と彼――ユウマが助け出した時、彼女は衰弱しきっていました。七日間、一筋の光も入らない蔵の中に、水しか与えられない状態で監禁されていたのです」
佐伯はユウマをちらりと見やる。ユウマは左頬を腫らしたまま、一ノ瀬とはベッドの逆の端に腰かけ、身じろぎひとつしないでいる。
「『村』では、彼女を『追放』することで話は固まっていました。たった十三歳の少女を一人で森の中に放り出すことが、公然と決定されていたのです」
知里が一ノ瀬を見上げる。奇しくも当時の一ノ瀬と同い年の少女は、驚いたような表情で瞬きを繰り返す。一ノ瀬は少しだけ口の端を上げて見せる。
佐伯は続ける。
「だから僕はユウマやおじさんと協力して、彼女を死んだと見せかけて『外』へ逃がしました」
スーツの男性は壁を背にして立つ『追放者』を見る。
「……それは本当か」
『追放者』は、小さく頷く。
「私が村人に催眠をかけた。村人は皆、彼女は死んだと思い込んだ」
皆、彼女は死んだと思い込んだ。
『追放者』の声を頭の中でなぞると、そのニュアンスに改めてぞくりとする。私は皆から死んだと思い込まれていた。『チユキ』は死んだ少女なのだ。
佐伯が再び口を開く。
「……僕が『教師』になったのは、『村』の体制を変えるためです。もう二度と、彼女のような被害者を出さないように。彼女を逃がした夜にユウマとそう約束しました。しかしそれは容易なことではなかった。『教師』ですら、『協会』から降りてくる指示に従うだけだったんです。『約束』を果たすには、『協会』の中に入るしかないと思いました」
「だから私の養子になったのか」
佐伯は僅かに眉根を寄せる。
「そうです。あなたからの申し出は、まさに渡りに船でした。しかし、話はそう単純じゃなかった。僕は『佐伯 聖司』になって初めて『外』の状況を知りました。日本政府と、プロジェクトのことを知りました。そこではっきり理解したのは、この問題は僕一人の力でどうこうできることではない、ということでした。『協会』の中に入れば『村』を変えられると思ったのに、『協会』――つまり日本政府の一員となったらますます、『約束』を果たすための手はすっかり霧の中に紛れてしまったんです」
彼はそこでひとつ小さく息をつく。
「一方で、僕はこっそりチィを――チユキさんを探しました。彼女が『村』を出てから既に十年が経っていてずいぶん骨が折れましたが……僕はどうにか、彼女が第三十八自治区の治安警備局で働いていることを突き止めました」
一ノ瀬は佐伯に目を向ける。佐伯は表情を変えず、話を続ける。
「『村』の周辺状況を監視するために、政府関係者が立場を隠してそこに潜り込んでいることは知っていました。何かの拍子に彼女が『村』の出身者であることがばれたらまずい。だから僕は、自らその役目を申し出ました。僕が彼女の近くにいれば、不測の事態にもどうにか誤魔化せるだろうと思ったんです。でも実際には彼女は『村』での記憶をすっかり失くしていて――彼女にとって辛い記憶なら、その方が良いのだと僕は思うことにしました」
一ノ瀬は、佐伯が初めて治安警備局にやってきた日のことを思い出す。佐伯 聖司です、初めまして。少し緊張した面持ち。背の高い、真面目そうな人だなと思った。あれは初対面では、なかったのだ。
「僕が『外』にいる間に、今度はユウマが『教師』になりました。恐らくユウマは、何も行動を起こさない僕にやきもきしていたと思います。そんな折、事件が起こりました。ユウマと親しくしていた少女――そこにいるチサトさん――が、『満の祭』に巻き込まれてしまったんです」
一ノ瀬はそっと知里の様子を伺う。この少女は心と身体に深い傷を追っているのだ。しかし彼女は眉一つ動かさず、どこか他人ごとのような表情でその話を聞くともなしに聞いている。
「彼女は掟を破ったとして『懲罰房』へ入れられました。年端もいかない少女が暴行されたにも関わらず、『村』では彼女のほうを犯罪者扱いしたのです。誰も彼女に同情する者はいなかったそうです。ユウマはそれに耐えられなくなった。それで、今日の爆弾騒ぎを計画した」
遠くでカラスが一声鳴く。誰も、何も言わない。佐伯は更に続ける。
「ユウマが事前にチサトさんを『外』へと出したことで、僕は彼の計画を知りました。彼をあんな無茶な計画に走らせてしまったのには、僕にも責任があります。チユキさんを『外』へ逃がした日から、僕たちの運命は狂っていたんでしょう。僕は全てを棄ててでもユウマを止めようと思いました。滅びしかない道を、彼だけに歩ませる訳にはいかない。僕には彼を止める責任があった。最悪、ユウマと二人で『追放者』となってでも。だから治安警備局も辞めて、この『村』に戻ってきました。『協会』も、あなたの養子も辞める覚悟でした」
そこで初めて、ユウマが顔を上げる。彼は途切れがちな感情を眉間に寄せ、佐伯を見つめる。
しばらく沈黙が続いた後、佐伯の養父がぽつりと言う。
「……お前は、私の息子も辞めるつもりだったのか」
「えぇ、その覚悟でした。少なくともその時の僕には、『全てを諦める』という選択肢しか見えていなかった。でも、違ったんです」
そこでふと、佐伯が一ノ瀬のほうを見る。その瞳には迷いのない意志が映っている。
「僕は『村』と『外』の両方を見た。僕の立場でしか、できないことがあるはず。まもなく、政府立て直しに向けた閣議がありますよね。そこで各『村』についての状況報告と、実際にどの案を採用するかの検討がなされるはずです」
「そうだ」
「では、僕は言いたい。この『村』は、僕たちの『村』は、間違いなく失敗です。この『村』では、敢えて『家族』という枠組みを取っ払うことで少子化を防ごうとした。家族の代わりに単家という、衣食住の拠点となる単位を作った。生活に規律を与えるため、掟を作った。確かにこのやり方なら、毎年一定数の子どもが増えます。他に頼ることなく『村』の中だけで秩序を完結させ、安定した生活を送ることができます。でもそれでは駄目なのです。なぜだかわかりますか?」
佐伯はゆっくりと小屋の中を見渡し、最後に正面の養父を見据える。
「問題点は大きく分けて二つ。一つ目は、掟によって人々が自ら考えることを放棄してしまっているということ。この『村』では掟や『協会』からの指示にさえ従っていれば、ほぼ過不足なく生活することができます。つまり決められたこと以外の行動は取る必要がないのです。結果、善悪の基準すら掟に縛られてしまった。その基準からはみ出したり、他の者と違う行動を取れば異分子と見なされます。公然と児童虐待が行われても、掟に即してさえいれば誰も疑問を持ちません。それから二つ目、何より大切なこと――」
彼は小さく咳払いをする。
「子どもにとって『親』――つまり絶対的な保護者が、存在しないということです。『家庭』は『社会』の最小単位です。子どもはそこで衣食住に関わる保護だけでなく、情緒性や社会通念、常識や価値観などあらゆることを享受します。一応ここでは、単家が『家庭』の代わりの単位として作られていますが、それは単なる生活の拠点に過ぎません。自分の単家の子どもが長いこと『懲罰房』に監禁されても、大人は平然としています。社会全体で子どもを育てると言いながら、この『村』では誰も子ども一人ひとりの味方ではないのです。『懲罰房』に閉じ込められた子どもは、気の遠くなるような孤独を味わいます。そして掟に従わない限り自分は誰からも必要とされなくなるのだと、思い込むのです。それがどんなに酷なことか――わかるでしょう。どんな時でも絶対に味方をしてくれる存在がいないということが、子どもにとってどれだけ絶望的なのか」
一ノ瀬は、あの七日間のことを思い出す。あの暗闇の中で一人孤独と戦っていた自分を、抱き締めてやりたい気分だった。
「この『村』の子どもたちは自分で考える力を奪われ、ただ掟に従うことでのみ存在意義を全うするように教育されます。いくら出生率や生活の安定性が保証されていても、将来を担うべき子どもたちが機械のようにしか育たない社会に、未来などありません」
「聖司……」
「僕のことは勘当していただいて構いません。最後まで不肖の息子で申し訳ありませんでした。ただ、今僕が申し上げたことを、必ず閣議で報告していただきたいのです。それからあと一つ――」
そこで佐伯は改めて姿勢を正す。
「どうかこの『村』の体制を変えさせてください。サンプルケースとしてのこの『村』は、既に役目を終えているはずです。だけど『村』の人たちの生活は、これからもここで続いていきます。そうとなればいずれにしても、『村』の存在が世間に知れることは政府にとって毒にしかならないでしょう」
佐伯の口調は強い。さもなくば全てを世間に公表する。暗にそう言っているのだろう。
「……たとえ僕やチユキさんがこの『村』の存在を『外』で隠し通したとしても、この歪んだ体制ではまた同じようなことが起こるかもしれない。あんな、おかしな麻薬を使わないと維持していけない社会なんだ。いつか取り返しのつかない大爆発が、『村』の内部から起こりますよ。別に僕は、政府の邪魔をしたい訳じゃないんです。ただここは、こんなところでも自分の生まれ育った場所だから――平穏であってほしいと思うだけです」
自分の生まれ育った場所だから。その言葉が、一ノ瀬の心の芯を打つ。ここは私にとってももちろん、生まれ育った場所だけど――。
「許されるのであれば、僕は『村』に戻ります。僕の力でどこまでできるかはわかりませんが――この『村』の子どもたちが幸せに育つように、力を尽くしたいのです。だからいろいろと申し上げましたが、どうかよろしくお願いします」
佐伯はテーブルすれすれまで頭を下げる。
一ノ瀬はただ口をつぐんでその様子を見ている。そこにいるのは、いつもの優柔不断な同僚の男ではなかった。誰より冷静に辺りを見渡し、周囲の人々に気を配り、その時もっとも適切と思われる選択肢を慎重に選び取る。そうだ、それが彼の本来の姿だ。
佐伯の養父は軽く息をつき、口を開く。
「申し訳ないが、それを丸ごと聞き入れる訳にはいかないな」
佐伯はじっと頭を下げたまま、微動だにしない。少しの間を置き、養父は少しやわらかい声で言う。
「――やれやれ、私はお前を小さい頃から知っているがね。私の見立ては、間違いじゃなかったようだな」
佐伯は顔を上げ、その言葉の意図を汲み取れず訝しむような表情で養父を見る。
「この『村』の秩序が破綻しかかっているということはよくわかった。聖司の言うとおり、体制を正常化させなければ何もかもが崩れてしまうだろう。政府も、それから『村』の人々の生活も。だから概ね、聖司の意見には賛成だ。しかし――」
養父は息子の目を正面から見つめる。
「聖司にはこの『村』だけでなく、この国の子どもたちのために力を尽くしてもらいたいと思っている。この『村』と『外』の両方を見たお前にしかできない仕事だ。後継者として、私を支えてほしい。……それに私も母さんも、お前のことは大事な息子だと思っているんだ。それが私からの条件だよ」
それまで決意を固めた表情だった佐伯はほんの一瞬泣き出しそうな表情をする。しかし次の瞬間にはひたむきな意志を再び瞳に宿す。彼は頷きこそしなかったが、そこにある養父の想いを受け止めたようだった。
彼の養父は立ち上がり、振り返る。一ノ瀬は初めて、彼の顔をしっかりと見る。目尻にしわのある、やさしい顔のおじさんだ。彼はゆっくりとした足取りで彼女の方へ歩いてくる。
「チユキさん、といいましたか」
「あ、はい」
男性が目の前まで来たので、一ノ瀬は慌てて立ち上がる。
「それからこちらの、チサトさんも。お二人には、いろいろと辛い目に遭わせてしまいました。何とお詫びを申し上げて良いか……」
男性が深々と頭を下げるので、一ノ瀬はわずかにたじろぐ。
過去に自分が受けた仕打ちやそもそも『村』が作られた経緯など、文句を言いたいことは山ほどあったはずなのに、不思議と一言も出てこない。
代わりに一ノ瀬は男性に向かって、落ち着いた声で言う。
「あの、私からも一つお願いがあります」
男性は神妙な面持ちで顔を上げる。
「何でしょうか」
「『村』を閉鎖社会として存続させ続ければ、どんな体制であれいずれ歪んできます。だから今後少しずつでも、『外』と交流させるべきだと私は思います。どれだけ時間がかかるかわかりませんが、この『村』をいずれはちゃんとした普通の村にしてほしいんです」
もちろんそれは、言葉にするより遥かに難しいだろう。気の遠くなる話だ。一ノ瀬にもわかっている。でも、そう言わずにはいられなかった。
佐伯の養父は一ノ瀬の視線をまっすぐに受け、言葉を選びながら静かに紡ぐ。
「……『村』として存続させるべきか、解体すべきか――正直なところ、政府でも今後議論が分かれるところだと思います。しかし、今この『村』で暮らしている人たちにはそれぞれ生活がある。人生がある」
彼は知里を見、次にユウマを見やる。
「『村』の人たちの今後の生活については、どんな形であれ、皆さんが幸せに暮らしていけるよう、私も微力ながら力を尽くしたいと思います」
一ノ瀬の眼差しは強く、相手の動きを縫い止める。彼は逸らすことなく、彼女の瞳を見つめる。やがて彼女は静かに瞬きをし、ゆっくりと頭を下げる。
「……わかりました。よろしくお願いします」
あぁ、この人は『協会』の立場の人なのだ、良くも悪くも。一ノ瀬はスニーカーの爪先を見つめながらそう思う。『村』をまともな状態にするには彼の協力が不可欠だ。しかしそれ以上に必要なのは間違いなく、村人たち自身の理解と意志だろう。まずはそれが目先の、そして一番大きな問題であることは明白だった。
そっと、ベッドの端に座るユウマの様子を伺う。表情までは見えないが、先ほど自分が殴った頬が赤く腫れている。
一ノ瀬は小さく息をつき、天井を仰いだ。